散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

シリーズ・関ヶ原と里見家 9

 上杉討伐の一件を、関ヶ原合戦と比較して〈東の関ヶ原〉とも称されます。それくらい重要な位置づけにありながら、里見義康の与する結城秀康との直接対決はありませんでした。それでも、大きな武力衝突はあったのです。
 世にいう〈慶長出羽合戦〉です。
 今回は、里見氏の直接関与のなかった、もっとも近い激戦をピックアップしてみましょう。

 慶長5年(1600)6月、徳川家康は下野国小山において石田三成の挙兵を知り、〈小山評定〉の末に西上するため軍勢を反転させます。このときの宇都宮留守大将が、結城秀康。上杉景勝は家康との一戦の気が削がれ、前線から本隊を退く決断をします。
 上杉を攻めるにあたり、当初、家康は、南部信濃守利直・秋田城介実季・戸沢右京亮政盛・本堂伊勢守茂親・六郷政乗・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光をこれらの主将に任じるとともに、米沢口から会津に侵入するよう采配していました。
 しかし、家康は西へ転進してしまいました。
 すると、奥羽諸軍は各々自領に引き上げてしまうのです。これは明らかな命令違反ですが、小豪族にとって、最期の勝利者が不明瞭な状況では必死になれないことも事実。戦国時代は、後年でいう、主君への忠義などという綺麗事は定着していません。彼らを節操なしと責められない時代背景も理解してください。
 彼らの撤退により、上杉と対決する姿勢を示すのは最上義光だけとなりました。最上義光の存在は、奥州においては伊達政宗の次に厄介なものです。老獪な義光は、奥州新参のような上杉氏の存在が目障りでもありました。豊臣秀次の一件もあり、秀吉死後は家康に将来を期待していたから、豊臣家に尽くす上杉景勝とは相容れぬ存在だったのです。
 家康が去ったあと、上杉景勝は結城秀康よりも強大な敵として、最上義光に目的を切り替えました。最上氏さえ滅ぼせば、後顧の憂いがなくなるのです。家康に対しては
「迎え撃つ」
という上杉景勝でしたが、最上義光に対しては
「攻め落とす」
という軍制方針の切り替えがされているところに、両者に対する景勝の姿勢が伺えます。
 この状況下で最上義光が頼れるのは、伊達政宗だけでした。
 しかし、政宗はしたたかにも、上杉氏との一時的な和睦を交わしてしまうのです。無論、機を見て一方的に破棄するであろう、かりそめの和睦に過ぎません。
 義光は窮地に陥り、上杉方に嫡子を人質として送る等の条件で山形出兵を踏み留まるよう、景勝に要請しました。と同時に、義光は秋田実季と連携して、この隙に上杉領を挟みうちにしようと画策したのです。
 これを知った上杉景勝は激怒し、山形出兵を開始したのです。
 慶長5年9月8日、上杉軍は米沢口と庄内口の二方面から最上領へ向けて侵攻しました。上杉勢の総大将は直江山城守兼続。総兵力は2万5000ともいわれます。上杉が本気で最上潰しに出兵したことを感じ取れます。
それに対し最上軍の総兵力はおよそ7000人、しかも山形城をはじめ、畑谷城・長谷堂城といった属城に兵力分散を要したことにより、山形城には4000人ほどしかいなかったのです。
 9月12日の畑谷城攻防戦を、『最上義光物語』はかく記しています。

  東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。
  おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。
  此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。
  一度にとつと引たりける(後略)

 畑谷城将は江口五兵衛光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口光清に撤退を命じたが、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で必死に抵抗しました。畑谷城はその日のうちに落城、江口光清は自害して果てました。
 その頃、9月17日、直江軍と別動の隊を率いた篠井康信・横田旨俊ら兵4000は、上山城を攻撃しています。上山城将は最上氏の家臣・里見民部、城兵はわずか500ほど。
 ここで、里見の名前が出てくるのが、今回のうんちく処です!
 里見民部は出羽里見氏として、里見義成の四男・義直にはじまる家系の末です。その子孫が出羽国成生庄(現:山形県天童市)を拠点に勢力を扶植したとされますが、残念ながら、出羽への移住の経緯などははっきりしないようです。南北朝期、成生庄に勢力を扶植していた里見義景には実子がなく、斯波家兼の子にして兼頼の弟にあたる義宗を養子にしたとされます。これをして、天童里見氏ともいわれるのです。
 さて、話を戻しましょう。
 このとき里見民部は上山城の城門を開けて打って出ました。上杉軍も、この機に乗じ一気に殲滅戦に出ました。このとき城門付近で激戦が繰り広げられたのですが、突如、上杉軍の背後から最上軍が襲撃したのです。
 里見民部は少兵を更に分散し、最上義光から与力として増派されていた草刈志摩守に別動隊を任せて、なんと城外で待ち伏せさせていたのです。軍略としてはオーソドックスですよね。これに篠井康信・横田旨俊等はやられてしまったのです。
 背後を襲われた上杉軍はたちまち大混乱に陥りました。上杉方は木村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られ、その他にも椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討取られました。最上勢にも被害が出ています。追撃中の草刈志摩守は鉄砲に撃たれて討ち死にしているのです。
 この戦いで、里見民部は上杉軍400余りの御級を最上義光に送ったとされます。

 畑谷城を落とした直江兼続は、菅沢山に陣を取り長谷堂城を包囲しました。山形城から南西約8キロのあたりに位置する長谷堂城を落とせば、山形城は裸同然となるのです。
 長谷堂城には最上氏の重臣・志村伊豆守光安以下1000が籠もっていました。直江兼続率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われ、上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持ってこれに臨んだことになります。
 9月16日、志村光安は200名の決死隊に上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けさせました。これにより上杉勢は大混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。このときの長谷堂城将・鮭延越前守秀綱の戦いぶりに直江兼続は感嘆したそうです。
「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」
 後日、兼続から褒美が遣わされたという逸話が残されています。
 この長谷堂を巡る攻防戦は、軍略知略の火花が散ったことでしょう。しかし、この均衡も、思いがけない形で幕切れとなるのです。
 9月29日、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が直江兼続のもとに届きます。
 これにより攻守は逆転し、撤退する上杉軍を、最上・伊達連合軍が追撃することとなるのです。この戦では、陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり、兼続も自害を覚悟する程の苛烈な状況に曝されました。
上杉勢は前田慶次郎利益や水原常陸介親憲などの善戦、鉄砲隊を用いた兼続は自らの殿によって、最上軍の追撃を振り切り米沢城に帰還したと『最上義光記』に記されています。この『最上義光記』曰く

  直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、
  取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多
  討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も
  口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり

と記されています。

 この戦いは、まさに「東の関ヶ原」と呼んでも遜色のない激戦でした。
 最上軍は少兵で上杉の精鋭と善戦したことにより、戦後、徳川家康からその功績を賞賛されています。この戦いで義光が切り取った庄内地方・由利郡の支配が公認され、出羽山形57万石を与えられたのです。
 伊達政宗は南部領で一揆を扇動した事が露見し、家康の不信を招く結果となりました。
 そして上杉景勝は庄内・会津などが没収され、米沢30万石のみを許されたのです。
 
 のちに家康は、直江兼続が駿府を訪れた際

  あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者

と賞賛したという逸話が残されています。

 この激戦に、結城秀康陣営は関与していません。



                  ◆  ◆  ◆


戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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  1. 2012/10/17(水) 05:44:31|
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