散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

シリーズ・関ヶ原と里見家 3

  天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
 日本中の大名が二派へと別れて、激突した。
 総じて、これを〈関ヶ原合戦〉と、後世語られております。


 関ヶ原合戦への前哨戦となる上杉景勝追討。
 里見義康が小山着陣した前後、有名な〈小山評定〉がありました。
 慶長5年(1600)7月24日、徳川家康は下野国小山に到着し、翌7月25日、小山陣所に諸将を招集します。家康は、大坂の状況を説明した上で、諸将に去就を問います。
このとき畿内に於いて、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行名で〈内府ちかいの条々〉と呼ばれる檄文が発せられました。そのうえで
「秀頼様に馳走あるべき」
という西軍に与同を求める文書が、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老の名で発せられました。加えて、大坂に留め置かれていた諸大名の妻子を拘束すると同時に、同7月19日、鳥居元忠が守備する伏見城を攻めたのです。この報せを家康にもたらしたのが、張本人である増田長盛。この二枚舌によって、家康は畿内の動向を知るのです。と同時に、大谷吉継の名で西軍に附くよう書状が発せられました。真田昌幸父子が敵味方に割れたのも、そういう事情があったためです。
 家康から去就を問われた諸大名の反応はシンプルでした。
 福島正則が大坂に残してきた妻子を犠牲にしてでも家康に従い、憎き三成を討つことを宣言すると、続いて黒田長政も同調し、山内一豊に至っては
「居城の掛川城を家康に開放する」
とまで云い出したのです。こうなると、人間の心理は複雑なもので、心ならずとも大勢が決することになります。
 このことは家康の腹芸で、宣言役を予め手懐けていた。そういう雰囲気が資料から漂っています。福島正則の言葉の前提は、打倒三成というもので、個人的な感情を家康が誘導したことが察せられます。
 7月26日、諸将は次々に西上を開始します。家康をはじめ徳川の大半は小山に踏み留まり、これを見送っています。諸将は上杉の追撃を自ら殿(しんがり)となって立ちはだかるつもりの家康を、心から頼もしく思ったことでしょう。家康には家康なりの考えがあってのことですが、人とは、自分勝手な解釈をしてくれるものなのです。
 家康は宇都宮城を拠点と定めて、ここに結城秀康と徳川秀忠を留めます。上杉に備えるためですが、もうひとつ、動きが定かでない佐竹に対する備えも念頭に置いたのです。時期を定めて西上するまで、秀忠に徳川本隊を預け大久保忠隣・本多正信といった補佐を置いたのです。そして家康自らは、同8月4日、江戸城に戻ります。江戸に戻ったのち、家康は全国の諸将宛に膨大な量の書状を発しました。〈内府ちかいの条々〉が横行している畿内へ向けて、無作為に進むことがどんなに危険か、家康は認識していたのです。
 西上している福島正則にとっては、個人的に石田三成憎しの感情だけで動いています。この三成というキーポイントが前面から欠けたら、今度は彼らが〈内府ちかいの条々〉に同調しかねない不安定な状況です。そのために民意を掌握する手紙攻勢が必要だったのです。

 里見義康はこのとき関東勢のひとりとして、宇都宮城に留まりました。
 資料が希薄なので、結城秀康付となるのか徳川秀忠付となるのか、このとき決していたか不明です。秀忠は懇意の深い里見義康を手元に欲していたことでしょう。
 しかし、結果的に、里見義康は結城秀康付となったのです。
 8月24日、徳川秀忠は徳川本軍を率いて、東山道経由で西上を開始したのです。秀忠はこの行軍で煮え湯を飲まされることになるのですが、里見義康のもとへ書状を発する等、気配りを示しました。


此表仕置申付候処、大柿之城ニ、石田治部少輔・
備前中納言・島津・小西已下、楯籠候処、
先手之衆取巻候間、早速可罷上由、
自内府被申越ニ付而、急令上洛候、
将又、其表長々御在陣、御苦労忝存知候、
猶彼地
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  1. 2012/06/23(土) 22:05:11|
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