散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

 シリーズ・関ヶ原と里見家 2

 天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
 日本中の大名が二派へと別れて、激突した。
 総じて、これを〈関ヶ原合戦〉と、後世語られております。


 関ヶ原合戦への前哨戦となる上杉景勝追討。
 里見家の関ヶ原は、このときから始まっております。当主・里見義康は、恐らくギリギリまで情報収拾に追われ、入手された状況を分析しながら、どちらに属せば里見家を存続させられるものかと、苦悩したものと考えられます。これは里見家に限らず、10万石に満たない小大名すべての苦悩だったと思います。
 里見義康の中では、この争乱が徳川家の天下取りなどという認識は、この時点ではなかった筈です。
 豊臣家の大老筆頭である徳川家康と、その家康を除こうという一派との、派閥争いに過ぎない。その派閥争いに日本中の大名が巻き込まれているのだと、そう思ったことでしょう。豊臣家の世で、どちらに附いていれば今後が安泰か、その選択肢を迫られたのだと、義康は思った筈です。
 結果的に里見家は、徳川家康を選びました。
 それは、秀吉統治下で、いくつかの恩を家康から被ったことの義理も大きかったと考えられます。勿論、情や義理だけではなかったかも知れません。そこで戦功を上げれば、失われた上総領も復活できるかも知れない。安房一国に押し込まれた里見家にとって、それは一種の魅力でしょう。ただ、このことは、勝手な期待に過ぎず、提示された約束ではありません。

 関ヶ原の頃、里見義康に誼を働きかけていたのが、徳川秀忠です。秀忠は文書にも親しみを込めて、積極的に接してくるのです。これは打算ではなく、あたかも義康が気に入ったかのように、です。
 秀忠の地位は、この当時、後継者と黙される三人のなかの一人に過ぎず、一応の家康嫡男らしい状況です。秀忠には兄・結城秀康がおり、同腹弟・松平忠吉がおります。兄が他家に養子とされている状況で、年功序列の立場から嫡男風に扱われているのみ。家臣団も秀忠を後継者に推すのは大久保忠隣くらいという現実。このとき里見義康に寄せる秀忠の気持には、心から頼りとしたい何かに縋る切実さがあったのかも知れません。
 里見義康が徳川家に与する決断をする際、幾つかのしがらみが心を乱したことでしょう。増田長盛への決別も、そのひとつです。行方で佐竹義重に庇護されている里見家の係累は、この決断で敵味方となってしまいます。このとき佐竹義重は徳川に属す意を示すものの隠居の身では儘ならず、当主・義宣は石田三成との懇意を大事に考え上杉との連携を企てる始末。行方にいたのは、先々代・里見義弘の弟・義政の子たちです。

 上杉景勝への徳川勢挙兵はもうかなりメジャーな歴史になっており、諸説もいろいろあります。関ヶ原への陽動とか、上杉と三成の阿吽だとか、後世になってからの結果オーライ解釈も大きいですが、とにかく、豊臣政権下での仕置きという位置づけで、徳川家康は上杉景勝追討を決しています。それも、独断ではありません。朝廷や豊臣秀頼から、正式に上杉追討の綸旨を受けたうえで、諸侯に檄を飛ばしているのです。
 従わない側に非があるような絡め取り。
 これが政治に精通した家康のテクニックといえばそれまでですが、里見義康はこの檄に従う決断をしたという訳です。

 もっとも上杉景勝にしてみれば、いい迷惑。
慶長3年(1598)に秀吉の命令で越後・佐渡・出羽庄内・信濃川中島91万石から会津120万石に国替えされたばかりで、領国経営を軌道に乗せることも儘ならず。ようやく帰参の許しを得て領国内の街道や橋の修築を行い、武具や牢人を数多く集めるなど、積極的に国造りを行ったところ、これに根も葉もない邪推が入った。
「上杉に謀反の動きあり」
そう云い出したのは、上杉旧領の越後を任された堀秀治。上杉謙信以来、越後の民衆は上杉に心酔し新領主に懐かず、堀秀治はこれを逆恨みに思っていたから感情的に訴えるのは当然のことでしょう。
上杉の家風は謙信以来の質実剛健、道理に合わぬ以上は弓矢で決することも辞さぬ気風です。そちらが謀叛といちゃもんをつけるなら、どうぞ攻めてこいという姿勢を宣言します。上杉謙信以来の武勇を保つこの軍団と、単独で戦うほど家康は愚かではありません。与党集めに奔走するのは当然のこと。
上杉討伐の大義名分は整いました。
それでも動じることなく、迎え撃つ姿勢を崩さない上杉景勝に、家康は内心畏怖したことでしょう。


 上杉討伐の本陣は野州小山。
 里見義康の出陣は慶長5年7月。このことは、大久保忠隣の文書から伺い取ることが出来ます。


  一昨廿三小金御着陣之貴札、今廿五於宇都宮ニ令拝見候、
  中納言も昨廿四至于宮着陣被申候、今日者滞留ニ候、
  早々被入御念、御飛脚之故、具可申聞候、
  猶拝面ニ可得尊意候、恐惶謹言、

    七月廿五日  大久保治部少輔
                 忠隣(花押)
     安房侍従様
         尊報
                      (大久保忠隣書状)


 里見義康が小山着陣した前後、有名な〈小山評定〉があったとされます。


                  ◆    ◆    ◆



 お知らせです。


 倉吉せきがね里見まつり

里見忠義終焉の地・鳥取県倉吉市。
 毎年9月第一日曜日に開催されます。東国の方は、その遠さを噛み締めることで、この地に流された里見家最後の当主の心中を実感できるのではないでしょうか?


開催日  平成24年9月2日(日)
開催場所 倉吉市関金町 山守小学校周辺
 お問い合せ
      「倉吉せきがね里見まつり」
倉吉せきがね里見まつり実施委員会(倉吉市市民参画課内)
TEL:0858-22-8159
「里見時代行列」
倉吉里見手作り甲冑愛好会(NPO法人養生の郷内 )
TEL:0858-45-3988



                  ◆    ◆    ◆



戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!
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  1. 2012/06/18(月) 20:06:36|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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  1. 2012/06/20(水) 15:37:31 |
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