散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

新府城、落城の賦を歩く

久々に、現地検証レポートをひとつ。

皆さんは大河ドラマ「真田丸」第一話を観て、まあ、新府城下はのんびりした春だなぁと思ったことでしょう。でも、季節感はどうなのかなという疑問が、蟠(わだかま)っておりました。落城寸前なら、まだしも、諏訪布陣中に残雪ひとつみられない不思議。まあ、ドラマに文句を云っても無駄なことなので、自分で出来ることをやりたい。

準備作もクライマックスが近付き、検証するべき点は、新府城を捨てなければいけない勝頼や周りの心情。
それを表現する小道具が、季節感や気候的なもの。
旧暦1582年、すなわち天正10年3月3日。
新旧暦を換算してみた→http://koyomi8.com/i/i9reki.cgi?func=O2N&date=15820303
すると、3月26日になる。
今日だ
なので、夢酔、さっそく行動開始……( ̄^ ̄)ゞ

上野原を過ぎたあたりで、気付く。
山々の頂部は、ほんのり白い。最近、降ったんだな。笹子峠が見えてくると、国中との境になる尾根は雪景色、中腹から蒸発の煙が随所より立ち上っている。この季節、雪はまだ降ることを改めて認識。ただし、人里ではない。
勝沼より国中に入る。
おお、肌寒い((((;゚Д゚)))))))
ぐるりと高いところから見渡すと、山々の頂部は白く縁取られていた。20163261.jpg
塩山や大菩薩方面も、ほら。20163262.jpg
天正10年3月3日の前日を含む天気は、どうだったのだろう。
新府を焼いたり、勝沼まで踏破したのだから、荒天ではないことは間違いないだろう。それにしても、花冷えしたものか霜が降りたものか、具体的な記述を得る史料はいまのところ見ていない。
自分自身の、今日の体感を得て例えた表現をするものならば、400数年前の同日、地球温暖化を差し引くと、甲斐国は払暁冷え込んだに相違ない。見渡せば茅ヶ岳も八ヶ岳も白く、鳳凰三山の頂部には雪雲が重く棚引いていたのかも知れない。この冷え冷えとしたなか、夜明けとともに勝頼主従は新府城の焼却を試み、役を負った者を残して七里が岩の路を、東へ向かったと考えられる。
未完成と嘯きつつも、規模も縄張りも充分な要塞であることが誰にもわかる新府城。
201603261.jpg
なぜ放棄したのかな。

今日の新府城は午前10時30分前後でも肌寒く、しかし梅や菜の花が咲いていた。
七里が岩という台地の上なので日照に恵まれていたせいだろうか。それにしても、感覚でみれば、旧暦正月如月に花は咲くまい。むしろ降雪があり溶け残った雪もあっただろう。
正月、勝頼が迎えた新府の新年は、白銀色に輝く高い嶺峯を仰いだ。その最中に木曾謀叛や鳥井峠敗北が重なり、諏訪から引き上げたときには季節が動いていたというところか。
とまれ城を焼いた勝頼一行は、七里が岩を下り、塩川を渡った。対岸の台地に上がると、新府城の燃える様が遠望できたと思われる。
201603262.jpg
対岸にある涙の森。
むかしはここから燃え落ちる新府城が一望できたことだろう。
201603263.jpg201603264.jpg

一行は先に進む。
回看塚。
台地の傾斜勾配により、新府城を肉眼で見る最後の地点だった。201603265.jpg

一行はここから台地を下り、JR中央本線塩崎駅方面へ一気に下る。
あっ、申し遅れましたが、このルートは諸説あれど甲州夏草道中に準じておりますゆえ、あしからず。
途中には武田信春開基の金剛寺や、阿部勝宝の墓がある妙善寺がある。勝頼と同行している阿部勝宝は、素通りした寺に、よもや自身の墓がその後に設けられようとは思わなかっただろう。
ずっと下った先に、泣き石がある。
201603267.jpgかなりの大きさである。夢酔の身長より、遥かに大きい……Σ(゚д゚|||)
201603268.jpg
ここから一行は一条小山の一条信龍屋敷で休息するまで、ひたすら歩いた。

ふと、思った。
仮説だらけで恐縮だが、勝頼はこの時点で、岩殿城ではなく、要害山城に籠もるつもりだったのではあるまいか。
201603269.jpg
竜地の坂を登ると、その先に古府中が遠く見えてくる。一条小山も愛宕山もよく見えた。
勝頼が新府に移ったのは師走。三ヶ月ぶりの帰還である。意識は高揚してくるのを堪えきれなくなっていまいか。
元の首都に戻ってくれば、大勢の家臣たちが駆けつけてくれるに違いない。
自分自身を、勝頼になったつもりで思案してみる。
新府城が遠ざかり心細くなるなか、金剛寺あたりから見下ろせる信玄堤を見下ろし
「儂と父上の何が違うのだろう。なぜ父は民に好かれて、儂は民から遠ざけられる」
などと自虐を噛み締めてしまう。やがて竜地の台地を登り切り、眼下に愛宕山がパッと見えてくると、勝頼の気持ちも切り替わる。
「そうだ、ここには織田に屈さぬ屈強なる武田武士の拠点があるのだ。先々代様も今川勢に府中まで攻め込まれたものの、要害城を拠点に挽回を為したではないか。儂はまだ戦える場所がある。みてろよ、この四郎の軍配、まだまだ落ちてはいねえずら」
荒川を渡河すれば、ここを天然の濠に見立てようという意欲が増す。
湯村に至れば、ここを出城として敵を攪乱させる拠点にと思う。
そのとき、一条勢からの伝令が届く。
「誰一人、当代様に応じる者なし」
その言葉に勝頼は愕然となる。
要害城を拠点とする防衛戦は、広域に展開するため人材が必要だ。新府評定でもそう決した筈だ。それが、どうだ。一族はおろか家臣領民これに応えるものなし。
「これでは、戦さにもならぬ」
落胆する勝頼を、一条勢は信龍屋敷へと案内する。そこまでが一条信龍の指図だったのだろう。ここで鍋一杯のほうとうが振る舞われ、一同は身の振りを思案した。時間はあまり残されていない。ふと、勝頼の脳裏に、新府城東三の丸から遠望した大菩薩の連峰が浮かんだ。あそこからかなり遠い場所のように映える。その懐に逃れれば、時間は稼げよう。幸い岩殿城は郡内における武田の持ち城だ。いざとなれば物心は郡内から頂戴できよう。
この瞬間、岩殿行きが決した。

と、いう考えはどうだろう。仮説としてはまあまあだろうと思う。

一条小山は当時、愛宕山系から麓まで延びたその末端にあったとされるから、この中央線踏みきり部分も地続きだったのでしょう。写真には櫻がちらほら見えますが、当時も一条屋敷には咲いていたに違いない。信龍は伊達者で知られるから、こういう風流なことには余念がなかったことでしょう。
20160326111.jpg
一条屋敷で休息したのち、勝頼一行は笹子峠を目指すのです。

ただし、実際の一条屋敷はここじゃない。
一条小路と呼ばれる箇所、北新という地名が現在ついているが、躑躅ヶ崎の西端にあたる場所が屋敷地だったようだ。相川沿いだったのかな。つまり、勝頼一行が躑躅ヶ崎や要害城をめざすルート上に、それがあるんですね。
ここで石和~勝沼へと進路を変えたというわけです。
一条小山は通過点になったと考えられます。櫻が綺麗なだけに、彼らは恨めしい感情すら抱いたに違いありません。


草鞋を脱ぐのは勝沼大善寺。
冷えた新府を出、日中の気温がぐんぐんと上昇する。従う女性たちは、激しい寒暖の差に体力を奪われたはずだ。本日、甲府盆地で早い燕をみた。盆地特有の高温は、いまも昔も変わるまい。
大善寺に着いた頃、陽は南アルプスの峰の先に消えようとしていた。

この体感が、準備稿にどう繁栄されるか、こうご期待。

また地味な現地調査があるかも知れない。夢酔をみつけたら、お気軽に声を掛けて下さい。



山梨県立博物館。
よかったよ。
2016032611.jpg

追伸。
歴史研究に今月も掲載されました。









戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2016/03/26(土) 21:56:54|
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