散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

身延春秋

身延山は日蓮ゆかりの場所である。
以来、甲斐国にあって法華宗の聖地であった。中世にあっては武田信玄の庇護もあり、かつ、比叡山焼討事件のときは諍いの場にもなった。信玄は全体の為政にして理解者だから、帰依するものがあっても特定の宗派に依存することはなかった。代わりに、南部河内を領していた穴山氏は身延山の信徒だったと思う。DSCF4143.jpg
今回、夢酔が身延まで足を伸ばしたのは
「観ておきたい」
という衝動だった。山梨に数年滞在しておきながら、実は身延山に行ったことがない。そのことが如何に知識を狭いものにしていたか。
身延は穴山氏ゆかりの地である。
準備中作品は郡内小山田家を主題にしているが、通説上、武田勝頼から離反した信茂と同じような立ち位置にいたのが穴山梅雪だった。両者には似たような何かがあったのか、心境的な共通点があったのか。気にはなっていた。何よりも通説にこだわらない仮説さえ辞さぬ準備作には、義信事件に関する思考も含まれる。その義信事件に関与した人物こそ、穴山彦八郎なる人物だ。彼も事件に加担した咎で、身延山の塔頭で切腹する処分を被っている。
穴山氏のことを、もう少し知ってもいいのではないか。
文献資料として「中世武士選書5・穴山武田氏(平山優・著)」を読破していたが、頭だけで考えるのは、いいことじゃない。その場所に空気に触れることが大切だった。そのためには、無駄な遠回りをして身延へ赴いた。
本栖経由、下部通過の身延。
通説を疑うとキリがないが、小山田弥三郎信有が病気で退陣し、当主に小山田信茂が迎えられる時期は、丁度義信事件の頃と一致する。偶然といえばそれまでだが、もし穴山彦八郎と同心していたなら、国中を避けて往還する連絡路は現在「本栖路」と呼ばれるこのルートだろう。激しい高低差で敬遠されがちな路であるが、それゆえに、河内と郡内を直接結びつけるこのルートは重んじられて不思議ではない。すべては通説を疑った上でのことだが、小説ということもあるので諸兄から目くじら立てられることもあるまい。
文にする前から、とにかく考えることが多い。DSCF4147.jpg
とにかく全てが初めての、身延体験なのである
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今回、新調の作務衣で登場。今までの久留米織、10年来の愛用で、とうとう膝が抜けてしまったのだ。いいときも辛いときも一緒だった作務衣だったけど、これ以上着られない。新調したのはちょっと安い久留米織だけど、洗ったら縮んじゃった。作務衣はやはり値に糸目をつけたらダメだ。10年来のはいいやつだったものね。初手から繋ぎのつもりで購入したから仕方ないけど、なんだか修行僧が廊下の雑巾掛け大運動会に着そうな体操着という印象です。いいもの見つけるまでの大切な繋ぎ衣装、デビューは身延です!

身延山にも、奥の院がある。徒歩はしんどいから、ロープウェイを用います。
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文明の利器のおかげで、労せず山上へ。
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この景色はガスっていたからここまでだけど……DSCF4175.jpg
本当はこんなものらしいDSCF4204.jpg
甲斐国にあって、ここは海を意識できる立地だったのです。

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身延山の山上世界。
ここは中世においても、宗門の聖地だったことでしょう。
展望は北側にも向いていました。
南アルプスや八ヶ岳、甲府盆地が彼方に広がっている。
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ここで、ふと思い返す。
甲斐国は、国中・郡内・河内の三つで構成され、それぞれが独立領主により支配され、信虎・信玄・勝頼の時代は「同盟」という形で一致していた。主従ではなく、同盟である。
郡内と国中の民情並びに気候風土が異なることは承知していた。河内はどうか。こういう眺望を持つ土地に暮らせば、駿河寄りの意識も強いことだろう。気候も駿河に近いかも知れない。商工的にも、それにあたると考えておかしくはない。つまり、独自性の意識が強くても不思議はないのだ。
通説とは残酷なもので
「小山田は武田を裏切った」
「穴山は徳川に通じて武田を裏切った」

という結果オーライなところが大きい。
同盟者として袂を分かつという意識があるからこそ、天正10年の両者の行動が生じたと考える人は、きっと少ないと思う。
仕方がないのかも知れない。
しかし、元々「潜在意識にある独自性」は武田と共有していないのだから、こういうこともあるのかと思いたい。

さてと。
里見のことを書いてなかったので、少し。
といっても、厳密には、徳川になるのかな。
お万の方。里見家臣・正木頼忠の娘で、徳川家康の側室にあたる。紀州・水戸徳川家当主の生母にあたる。彼女は熱心な法華宗信徒でした。正木頼忠は日蓮生誕の地・勝浦を治めていた縁で誕生寺に帰依厚かったそうですが、娘の彼女もそのあたりは熱心だったそうです。

元和二年の秋を迎える頃、後陽成上皇が床に就いたという報せが、江戸に届いた。
豊臣家創設時に皇位に就いた上皇は、何かと豊臣贔屓である。秀吉の恩恵も厚かったし、贅沢もさせてもらった。当然の心理である。しかし、徳川幕府成立ののちは、帝を辞して花鳥風月を愛でる暮らしを望み表に出ることもなかった。
お万の方は、この雲上の君には、格別の念がある。かつて縁あって、後陽成上皇より一筆下賜されたからだ。
晩年、徳川家康は宗教弾圧を行った。宗論の末に、身延大野本遠寺の日遠尭順に対し、安倍川にて処刑するよう沙汰した
お万は、身ひとつでこれを阻止した。熱烈な日蓮宗徒であるお万は、日遠尭順とともに殉死せんと、二枚の死に装束を縫って家康に激しく迫ったのである。これには家康も困惑した。その裂帛に気圧され、遂に根負けしたのである。
後陽成上皇は人伝に、それを耳にした。豊臣贔屓の上皇にとって、徳川は目の上の瘤だ。
「類い希なる女傑、朕の心に深く刻むものなり」
 後陽成上皇は胸の空く心地になった。あの家康を屈服させた女性に、例えようもない爽快感を覚えたのである。隠棲した身なれど、じっとなど、してはいられなかったのだろう。そののち、御自ら
「南無妙法蓮華経」
と筆をとり、お万の方へと御下賜をしたのである。前代未聞といってよい。当然、お万は感激した。以来、雲上の御方である上皇へ、お万は敬慕を抱いていた。


この文が房州日日新聞に載るのは、まだまだ先のことになります。
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とりあえず
写経でもしてきたが……
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字が汚い……








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  1. 2015/07/26(日) 19:49:18|
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