散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

高野山1200年便乗コラム⑦

 2015年、開創1200年の高野山。
 来年の大河ドラマが真田に決まったこともあり、恐らくは2年に渡って沢山の観光客を誘致されることでしょう。里見が史実的に無名である一方で、真田は有名です。講談的には八犬伝が十勇士にも負けないと思うのに、むむむ。
 日本人は判官贔屓です。
 これは古今東西、ブレない民族性でしょう。
 真田は武田信玄のもとで故郷を回復し、大きく飛躍しました。最初の不幸は長篠の戦い。二人の兄が討たれ、本来家を継ぐべきではなかった昌幸が相続しました。昌幸は信玄の薫陶により、勝頼時代末期、唯一といってよい版図拡大を果たす存在でした。次の不幸は、武田家滅亡です。昌幸は勝頼を上州に迎えるつもりでしたが、小山田信茂に阻止されたと一般的に伝わります。ここから先は、池波正太郎先生の傑作「真田太平記」の描く世界です。
 不屈の真田スピリッツが体制に背を向ける姿を描き、若者がこれに共感を覚えていることは申すまでもないでしょう。そのため大勢の歴女が真田萌えになり、すっかり徳川家康は悪人扱いです。まあ、歴史とは二面性が少なからずございます。根っからの善人がいることこそ、薄気味が悪い。先の池波先生は、人とは良かれと思って悪事を為し悪事をしながらも世の為になる善を施している点を、多くの著書で描いております。ましてや人の立場は十人十色、善人一色の人間がいるものでしょうか。山岡宗八先生の「徳川家康」を読んだ世代にとって、真逆の風が吹くというのも、きっと時代なのでしょうね。

 関ケ原合戦は天下分け目と称されますが、正式には豊臣政権のリーダーシップを握る戦いでした。家康VS三成のように思われがちですが、宇喜多・毛利といった西国大将が中心であり、三成はその手足だったと考えられます。世の中の「格」でいえば、そう受取れます。敗軍の将とは、古今東西その失敗した結果について常に責任転嫁したいもの、すべてを石田三成に押し付けた気がしてなりません。
 その関ケ原に似た戦いは、諸国にありました。
 下野国宇都宮。
 結城秀康を大将とした徳川方の部隊がここに置かれています。上杉景勝の南下を阻止するためでした。当初、上杉征伐で家康は軍勢を招集し、〈小山会議〉で関ケ原へ向かった。結城秀康はその留守部隊を率いたのです。
 真田昌幸・信幸・信繁の父子は家康の招集で小山に向かい、途中で三成挙兵を知りました。ここで家を二つに割り、昌幸・信繁は徳川に反したのです。
 結城秀康の隊には里見義康が与していました。
 この功績で、戦後、鹿島三万石を恩賞に得ています。
 
 夢酔は連載作品「夏の波濤」にて、里見家と高野山のつながりを登場させています。この高野山の麓・九度山に真田昌幸・信繁父子が配流されてのちは、その通り道であるがゆえ、ときおり真田も登場させています。その場面が発表されるときは
「大河人気に擦り寄ったんだな」
と笑われそうですが、原稿自体は去年の今頃、連載開始前に固まっていましたから、残念ながらそういう筋書きだったと心得おき下さると幸いです。
DSC00071.jpg







戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。


公式HPはこちら里見氏大河ドラマ化実行委員会

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


人気ブログランキングへ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
スポンサーサイト
  1. 2015/07/09(木) 21:31:15|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<富士と里見と信長と | ホーム | 高野山1200年便乗コラム⑥>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://musuitouzan.blog.fc2.com/tb.php/215-2975d9c8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)