散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

高野山1200年便乗コラム④

 2015年、開創1200年の高野山。
 こないだ、「夏の波濤」で挿絵を描いてくださる山鹿公珠先生から
「なんか機会があれば高野山行きたいんだけど」
とお電話を頂戴しました。個人的に足を伸ばすのは、関東者には凄くキツイです。去年、館山市文化財協会に同伴した際はバスでしたが、1日仕事でしたものね。後から合流くださった堂本前千葉県知事は関空から乗り継いでお出でになられた様子。まあ、遠いから、それはそれで高野詣とはありがたいものなのでしょうけどね。
 今年はどこも予約でいっぱいかな。団体でないと難しいでしょうね。
 山鹿先生、あきらめずに祈りましょう!

 織田信長が為したことのひとつが、比叡山焼討ち。高野山は焼かれずに済みましたが、蜜月だったのでしょうか?どうやら、そうではなかったようです。
 天正八年、信長に反旗を翻した荒木村重の残党は、根来寺や高野山宗徒と結託し〈高野大衆一揆〉を結成したのです。荒木残党は高野山に逃げ込む、信長側は引渡しを要求する、高野山側はこれを拒否。
 なんとなく、比叡山の法則に似ていませんか?
 あっちは浅井・朝倉の兵力が比叡山に籠もり、勧告を拒否したから信長は焼討ちを実行に移したわけです。薄っぺらい反仏教徒理論ではなく、合理的にぶっ飛んだ行動を起こしたというのが、比叡山焼討ちなのですね。高野山側では、ほんの一〇年程前に行われたこの事実を、十分に認識していたと思います。彼らは、絶対、信長なら平然と「何事か」をやりかねないと思っていたことでしょう。
 天正八年から約一年半もの間、織田信長の周辺は慌し過ぎました。
 結果的にこれが高野山に幸いしたようです。
 当時、織田の重臣たちは方面軍として四方へ配置されていました。信長自身も武田討伐や毛利征伐遠征準備をしています。強大な武力を背景に、高野山が圧力に屈するのを待っていたのかも知れません。よく信長は短気といわれますが、実は根気よい武将です。ただし行動に転ずれば迅速なだけで、一切の迷いの片鱗も見せません。高野山にも人材がいたでしょう、この気長な時期に、じっくりと交渉を重ねて、御山の焼討ち回避を試みたと想像するべきです。
 しかし、この緊張関係は、あっという間に解決してしまいました。
 天正一〇年六月二日。
 織田信長はこの世を去りました。〈本能寺の変〉です。幸か不幸か、高野山は壊滅を逃れることが出来ました。
 こういう部分は、小説にしたら面白いかも知れませんね。夢酔が高野山近在に住して、なおかつ近隣の地形に熟知していたら、きっと創作を交えて作品にしていたかも知れないな……残念。
 
 来年の大河ドラマの影響でしょうか。大阪あたりでは幸村で町興しの兆しを感じています。当然、高野山でも九度山から集客する流れを組んでいるんじゃないでしょうか。
DSC00071.jpg
 このあたりはネームバリューの強い真田を感じますね。
 同じ配流なのに、里見家は粛々という印象を受けます。まあ、倉吉という土地柄、ギラギラした雰囲気を感じませんから、仕方がないし比べるのも筋違いですけど。
 高野山に直接的な里見家の足跡をみつけることは、実に困難です。
 古文書のなかに、ときどき西門院とのやり取りを見出しますが、そのときに然るべき人物が往還の使者を務めていると思います。その人物の特定や、逸話のようなもの、それらは全く読み取れません。
 ひとつ、具体的な足跡があります。


   急度令啓達候、仍疾仁茂可有御登山候処、
   至昨今抑留被申候意趣者、
   大勢院第三年之弔、於此方雖致之候、
   同高野山仁卒都婆一本被立度念望候、
   其供養為御布施、黄金拾枚渡御申候、
   路次中御大儀候得共、頼入之由、
   自拙夫両人委細可申届段、被申付之間、
   以連判申達候、如何様来春御下向之時分、以貴面可申達候、
   恐々謹言、
                   加藤太郎左衛門尉
                          弘景(花押)
    九月十五日       黒川甲斐入道
                          弘重(花押)
       西門院
          御同宿中


 これは天正一七年の文書です。加藤太郎左衛門尉弘景と黒川甲斐入道弘重という二人の人物が名を連ねておりますが、両名は高野山西門院との取次役なのでしょうね。大勢院こと里見義頼の供養をほのめかす文面ですが、現在の高野山に里見義頼の墓所らしきものはございません。
 墓所を高野山に置く武将の場合、肖像画も併せて奉納するケースがあります。御影というか、供養の一端として納めるのか、そういうこともあるのです。だから、この文書を読む限り、里見義頼の肖像画も納めたりしなかったのかなと思わずにいられません。
 有名な武将や高名な人物の肖像画、よく収蔵先をご注視下さい。実は、高野山に納められているものが多いのです。例えば、成慶院には武田信玄・武田勝頼夫婦と信勝、持明院には浅井長政・お市の方、金剛峰寺(旧青巌寺)には豊臣秀吉、等々。一二〇〇年の歴史がある高野山、実はまだ世に出ていない肖像画などがあるのかも知れない。でも、それを本気になって調査しようにも、膨大な量の品があって、とてもではないけど何かを特定するような調べ事は無理らしい。
 里見家の人間は、実は誰一人とも肖像画がありません。
 房総の各所に木像くらいなら収蔵されているけど、殆どは後世の作品だし、その衣装も烏帽子杓子なものばかり。当時を表わすものはどこにも感じられません。だから、以前、妙音院の福岡住職に
「高野山に眠ってませんかね、肖像画」
なんて聞いてみました。
「あるかも知れません。否定はしません。でも、探そうと思っても、それを特定することは、非常に難しいです」
「(ある)かも、ですか」
「いつか何かのついでで、ひょっこり出てくる機会があれば、いいんですが」
 高野山には様々な物心が積み重なっているのですね。
 少なくとも、この四〇〇年間、もしあったとしても里見家は隠れ続けてしまいました。こののち、いつまで〈かくれんぼ〉を続けるのでしょう。
 もういいかい?
 まぁだだよ……。DSCF2783.jpg







戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2015/06/14(日) 06:06:03|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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