散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

続・房総武田氏考

 あれから少し考えてみました。
 一度は房総武田氏の足跡を歩かなければいけないのかなあ。でも、どこを歩けばいいかなあ。分かんないので、有識な先生に
「どこを廻る」
「だれに尋ねる」
あたりをお手紙で相談しているところです。でも、まだ歩くのが些か不自由な夢酔でございます。


 庁南武田豊信は「夏の波濤」に登場した人物ですが、時代的には里見義弘・義頼の頃に活躍した者と認識しています。里見家宛の文書史料に、このようなものがございました。


  急度令啓達候、
  然者台(長福寿寺)と藻原(藻原寺)之沙汰ニ付而、
  我等取扱申、事余申候者、急速ニ申上御談合可申候処ニ、
  今日十二日令落着候、若横合候て違変候ハヽ、
  重而可申達候、御陣触させられ、
  両屋(里見義堯・義弘)形御出馬肝要ニ存候、
  済申候儀しらせ為可申、早飛脚を以申述候、恐々謹言、
                   武田兵部太輔
            二月十二日      豊信(花押)
       佐貫(里見義弘)       御宿所


 年月日不詳文書ですが、里見義堯に触れてもいるので、その生前だろうと想像できます。義堯は天正四年に没したので、その前のものでしょうね。少なくとも、その頃の庁南武田家当主が、豊信だということは読み取れますね。

 豊信が信玄三男だったという説は、公式なものではありません。
 公式ではありませんが、よく出来た俗説以上の面白さもあります。そして、よく出来た俗説には、それなりの根拠めいた伝承があるものです。夢酔がこの説を「夏の波濤」に盛り込んだのは、熱烈にその説を支持したわけではなく
「歴史は勝者の都合でつくられる」
という持論に乗ったものと思い、エッセンスとして取り上げただけです。嫌な物云いすれば、里見家の歴史に房総武田家は大きな影響を与えたとは考えていませんでした。関与はあったと思いますが、御家を左右する関係ではなかったと認識しています。だからこそ、こういう説を安易に受容れたとも云えます。柔軟性というよりも投げやり感……お恥ずかしい。黙っていればバレないことを、夢酔はついつい露呈してしまいます。

 この豊信のことを夢酔が知ったのは、実はかなり以前でした。歴史読本昭和52年7月号の中頃の文中に、この養子説の記述があったのです。以来、何か機会があったら、影響のない範囲で作中に盛り込みたいなぁという願望はあったのですね。その願望を、ここで満たした訳です。
 昭和52年の歴史読本を読んでいたなんて、まあ、夢酔も歳をとったものだ……その頃の歴史読本には新田次郎氏の「続武田信玄(武田勝頼改題刊行)」や早乙女貢氏の「会津士魂」などが連載されてまして、いつかこのような小説を書けたらいいなと、罰当たりなことを考えたりもしたものです。
 この歴史読本のことは、3月に開催しました小山田情報館開館時の講演会でもちょろっと紹介したので、聴講された方のなかには
「寝てて聞いていなかった」
という方以外、なんとなく聞き覚えがあったのではないでしょうか。
 
 次回作のなかに、この豊信のことを盛り込むべきかどうか、ちょっと悩んでいます。次回作はかなり通説に逆らった冒険も試みているので、そのくらいは大したこともない筈です。でも、本当は、盛り込まなければいけないんですよね。
 武田信玄は嫡男・義信の死にあたり、凡その作家さんはさくっと四男・勝頼に後継者のレールを導き出しています。次男が盲、三男夭折という定説に従えば自然ですし、みんなの先入観があるから勝頼で落ち着きます。
 ひねくれた人はどう考えるかな。
 大谷吉継も目が不自由なのに独立の大名をしてたし、関ケ原で名を残すいい仕事をした。だから盲な次男が後継者でもいいじゃないか。そういう考えもあるでしょう。信玄の次男・龍宝には、直属の〈御聖道衆〉がいたそうです。その意思を行動に示す術もあったんです。でも、恐らく信玄は五体壮健な者を後継者にするビジョンを持っていたんじゃないでしょうか。その前提があったから、後継者から弾いたのでしょう。
 三男・豊信が仮に夭折でなく庁南家に養子になった前提としましょう。他家の当主となった豊信を呼び戻すことは、どうでしょうか。やろうと思えばやれたかも知れませんね。どうせ房総なんて殆ど無縁の国だし、ドライに徹すれば償還もあり得た。しかし、やらなかった。他家の当主だからでしょう。
 四男・勝頼。既に諏訪の当主でした。前者の理由なら、これだって後継者から弾かれて当然だと思いませんか。でも、こちらが後継者になった。信玄が推したのか、家臣団が推したのか、誰が推したのか。理に適わない。
 こういう問題に飛躍する可能性があるので、ちょっと悩んでいます。
 でも、いきなり勝頼は不自然だなと思っています。

 歴史読本昭和52年7月号にはもうひとつ。仁科盛信の子・信正が房総武田氏を頼ったというものも記述されていました。この信正も「夏の波濤」に登場させましたね。この刊行当時の御子孫は林姓だということですが、こういうことは、どうしても大きな正史に載せてもらえない。
 日本の歴史は、時の勝者や為政者の都合で〈不都合〉や〈どうでもいいこと〉が省略されて積み上げられたものです。立場に応じて評価の見方を変える柔軟性がどうにも貧しいです。
 それでも、静かに再評価されることもあります。
 奥州藤原氏、足利尊氏、今川義元、明智光秀、石田三成、会津藩と新撰組等々。酷評から少しずつ実績が見直されている傾向は、これだけではない。近年の研究は顕著だと感心します。
 里見氏は酷評以前に、知られていないというハンデがあります。
 なぜ知られないのだろうか。誰にも知られないという〈呪いの原点〉が、きっとあるはずです。その呪縛から、そろそろ解き放たれてもいいのではと、思わずにいられません。












雑誌「歴史人」のweb版でこんな企画しています。
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ワシは連載と自分のblogで手一杯だ。
誰か、里見の伝道師となって世に布教してください。about_rekishijin.jpg


<戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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