散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

小田原征伐の発端、名胡桃事件

昨日今日で忙しなく更新していますが、せっかくなので一うんちく。

名胡桃事件は有名ですよね。
関東戦国史、北条ファンや真田ファンには、外すことが出来ないものです。これを引き金にして小田原征伐が始まったのだから、日本史上としても重要な出来事だったわけです。
房州日日新聞連載作品「夏の波濤」でも、この場面は既に登場しました。



 天正一七年一〇月二三日早朝。
名胡桃城主・鈴木主水重則の家臣・中山九郎兵衛実光は一通の書状を差し出した。そこには主君・真田安房守昌幸の筆跡で、沼田問題について談合あり、至急上田へと記してあった。
「これは、いつきた書状か?」
「城番が報せに滞り、一刻ほど前かと……」
「馬鹿者。真田家からの書状だぞ。もしも火急の事としたら、何とするか!」
 一瞥した鈴木重則の顔色が一変した。
「九郎兵衛、火急である。急ぎ馬を引かせよ」
「はっ」
 鈴木重則は慌てて身繕いを始めた。その様子をみて、中山実光はニヤリと笑った。
 鈴木主水重則は名胡桃を発ち、途中岩櫃城へ立ち寄り、城代・矢沢薩摩守頼綱に上田招集を伝えた。
「はて、そのようなこと、当方では聞き申さず。なんとしたこと?」
「火急にと、文が」
「いよいよ面妖。名胡桃にかかる仕儀あらば、殿は決して儂を介すことだろう」
矢沢頼綱は真田昌幸の叔父、かつて武田信玄に仕えた幸隆の弟にあたる。知謀、胆力、それらは昌幸に勝るとも劣らない。
文を手にした矢沢頼綱は、筆跡に間違いないものの、意思の支離滅裂さを感じて、不安を覚えていた。
「主水殿、悪いようにはせぬ。一旦、名胡桃へ戻られよ。責任はこの薩摩守が負うでよ」
 その諫言に、さすがに鈴木重則も不安を覚えて、元来た道を引き返した。
 が。
 名胡桃城にひるがえる旗は、北条の三つ鱗であった。眼を見張った鈴木重則は、まんまと中山九郎兵衛実光にしてやられたことに気がついた。騙し討ちである。
「恥じるべし、我が不甲斐なき様を」
 そう呟くと、重則は沼田城下の正覚寺にて切腹して果てた。このことはすぐに、矢沢薩摩守頼綱の知るところとなった。急ぎ伝令が上田城に走った。京の真田昌幸の耳に達したのは、それから五日後のことである。
 昌幸は名胡桃城が奪われたことを秀吉に申し出た。同様に、沼津城を襲われた徳川家康もまた、秀吉に訴え出た。
 秀吉は、里見義康からの密書通りに事態が進んだことに驚愕した。
「一切の戦さは関白の許可なしで行うことなかれ。これはまさに、惣無事に反することなり!」
 そう云って、秀吉は烈火の如く怒り猛った。
 この一件を、世に〈名胡桃事件〉という。
      「夏の波濤」  第八章 小田原へ吹く風 より抜粋


夢酔は通説のなかに、里見との二重間者となっていた風魔衆庄司甚内の情報をもとに、里見義康からこのことを秀吉が「既知」だった設定を盛り込みました。秀吉はこれが生じることを予め知っていて、大義名分の瞬間を待っていたことにしたのです。まあ、所詮は小説、それくらいの飛躍は許される範囲でしょう。

さて、名胡桃事件とは、本当にあったのでしょうか?
厭な性分です。
ついつい、歴史を疑うのが癖になっています。殊、勝者の紡いだ歴史というものに。
小田原征伐の記録の多くは、秀吉=勝者にピントを合わせたものではないでしょうか。『北條五代記』『関八州古戦録』は江戸時代に作られたものですし、当事者によるものではないから考証も怪しい。
秀吉は天正一七年一一月二一日付書簡にて、真田昌幸へ向け
「北条氏が国境の者に命じて真田氏の城に攻撃を掛け、城主を殺して城を乗っ取ったそうだが、言語同断であり、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免できない」
旨を記している。このことに対し北条家当主氏直は一二月七日付書状にて
「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らない事である」
という点を豊臣側へ釈明している。
このことを念頭においたものか。
森田善明氏は著書「戦国10大合戦の大ウソ(ワック・刊)」のなかで、これを大事件ではないとしています。名胡桃事件の前から、既に秀吉は小田原攻めの準備を整えていた。そりゃあそうでしょう、衝動的に間に合わせられる動員力ではありません。ある本によると、秀吉が小田原攻めに用いた費用は、兵糧、武器弾薬等の消耗品、特殊部隊(掘削・水攻め等工兵)支度、その他ライフラインや築城等々、現代の金額でおよそ六百億円相当を使ったと記されています。周到な作戦が事前から綿密に計画されていたのではないでしょうか。
名胡桃事件の風呂敷が大きければ、都合がいい。
小さな小競り合いを大袈裟にすることで、大義名分にしたのが、名胡桃事件なのかも知れません。当時は小さな導火線も、後世が拡大解釈にしてくれる。結果がすべてなのだから、途中過程は都合で繕うことも多かった。江戸時代はこういう著書が多いですよね。そして、現代の通説の多くが、そういう二次史料によって骨格を為している。
これは日本史に照らしたものですが、里見家はどうでしょう。
八犬伝は伝奇創作だからこの場ではさておき、『里見軍記 』『里見九代記』『里見代々記』といった史料も、やはり江戸時代にまとめられたものです。この通説が、長年里見氏研究を行き詰まらせていた感は否定できないと思います。「房総里見氏の研究」を世に送り出した大野太平氏の解釈をきっかけに、半世紀以上に渡る里見氏研究は発展しました。これまでの定説も覆された面が出てきました。
通説は検証するというのが研究者の真理なら、まず疑ってみようというのが夢酔の理念。
ちょっと似てるが、前者の重みが後者にはございません。まあ、動機ときっかけが見えればそうするし、なければ通説に従いつつ私的解釈を練るしかない。小説書く人の、遠回りな作業起点でもあります。

勝者の歴史に洩れ落ちた者を描くのが、どうやら夢酔の癖なのかも知れません。

思えば、夢酔が過去に描いた人物は、そういう者が多かった!

三田弾正という地方豪族は、上杉家に固執したため北条氏照に滅ぼされました。典型的な敗者の立場です。
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「夏の波濤」の前世代を描いた「春の國」。里見氏は全体的に教科書的な日本史からみて、日陰にされています。故意か意図かは存じませんが、これも未だ日本史の通例といえます。
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意外ですが、萩原タケもそうでしょう。近代の功績ある日本人なのに世間に事蹟が知られていないのは、戦前の多くを悪く塗りつぶす風潮の仕業かも知れませんね。むしろ海外にこそ評価が高いんですが……。
IMG_20150319_0002.jpg

で、夢酔の次回準備している素材も……
そういう性分なのでしょうね。
ふふふ。
それでは、お馴染みですが……
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