散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

倉吉紀行

倉吉紀行その5

 昨夜は完全に電池切れ状態でした。
 気持ばかり若ぶっても、歳には勝てませんね。
 6時を待って朝風呂へ。せきがね湯命館のように本格的な趣向を凝らした温泉ではございませんでしたが、まずは節々を伸ばしながら窓の外をみる。湯煙の向こうは、青い空と、山々の頂部にあたる陽の光。
 ああ、いい天気になりそうだ。
 朝食はバイキング式だが、多くはいらない。和食でいいな。山陰だけど、納豆があるのは、嬉しい。テーブルには、点々と、部屋番号の札が立っている。高知から参じた里見脩氏が、粛々とバイキング盆を持って同じテーブルに集まってくる。いつの間にやら、みんな揃う。おかげで会話も弾んだ。

 この日は、「第29回倉吉せきがね里見まつり」と「倉吉里見時代行列」を軸にした行事がてんこ盛り。そこに列席を許して頂きつつ、合間合間で取材を行おうというのが、夢酔の試みである。

 倉吉市職員のお車で、山郷神社へ。
 ここは、旧堀村に移された里見忠義最後の屋敷があったとされるところである。鳥居を右手に通り過ぎ、やや置いて、駐車場へ。そこから、屋敷跡とされる場所へと、ゆるゆる登っていく。
DSCF2476.jpg
 忠義屋敷跡と伝えられる場所は、現在は田圃が三枚つくられている開けた空間で、木々に囲まれた場所である。ぽっかりと空いた空からは、強い陽射しが刺すようだ。果たしてどこで、どのように、どんな構造で、里見忠義の屋敷があったものか、今となっては知る術もない。
 この空間の西端に、大きな椎の木がある。この木を切ると祟りがあると、脇の看板にも記されていた。椎の木の面前にある祠が、「六人塚」と呼ばれるものです。里見忠義の死に際し、6人の家臣が殉死したのだと伝えられるが、具体的に誰がという点は解明されていないと思う。
 当時、この屋敷から見える世界は、眼下に広がる小鴨川を挟んだ谷間の田畑。人の手を介さぬ対岸に連なる山々。天下人の人質として過ごした環境とも、安房で統治した領地とも違う、まことに変化のない辺境そのものだった。ここで生きていくことを余儀なくされたとき、里見忠義は自らの手で土に触れることを覚悟したのだろう。そうでもしなければ、生産が適わぬ。糧を自ら生まねばならぬ程に、家臣を抱えることも許されない窮乏が強いられていたのである。
 ここは、安房の一大名が、生涯を通じて最後に辿り着いた、凄惨と悲愴と覚悟の修羅場と呼ぶに相応しい。それだけに、これまで観てきた、どの屋敷跡とも異なって、空気が重く、切ない。ついつい、そんな気分にさせられるのである。
旧関金町が設置した説明板を転記する。

  房州・館山藩主 里見安房守忠義終焉之地
    清和源氏新田氏の裔・房州・館山里見家十代の里見安房守忠義(十二万二千石)が、
    終焉の地は、ここ伯耆国堀村である。
    慶長十九年(一六一四)里見忠義は、安房国館山から、伯耆国倉吉(神坂)に、三万
    石で転封。(実質四千石とか。)
    元和三年(一六一七)下田中へ移住。のちにこの堀村へ移され、三年近く配流の身同
    様の生活を送った。そして、元和八年六月十九日、二十九歳の若さで悲運の生涯を閉
    じた。里見氏は、忠義をもって断絶した。
    家臣達は、三ヶ月後の九月十九日殉死。主従の墓碑は、倉吉の大岳院にある。
    里見忠義の住居跡は、山郷神社の近くであったといわれ、この小祠に、里見主従が、
    祭祀されている。

DSCF2461.jpg

 午前9時。神事が始まる。突如、照り付ける陽射しが、増す。その蒸すような暑さに、背中を汗が伝う。額からも、汗が溢れてくる。激しく、激しく。全国里見一族交流会のお歴々も、倉吉市館山市のお偉方皆さまも、神妙に頭を下げる。行政の長が、神事にこうして集う……そう、倉吉では里見忠義を誰もが慕うのだ。
 この暑さは、恐らく標高の伴わない山地ゆえのものだろう。
 このような暑さが、当時、里見忠義を苦しめたのではなかろうか。暑さから逃れるために、軒下や木陰に逃げ込んで、恨めしそうに、じっと天を仰いだに違いない。
 この神事の最中は、無風だ。
 誰もが、地の底から湧き上がるような蒸し暑さを口にすることなく、恭しく祠に対して頭を項垂れ、柏手を打った。
 不思議なことがある。
 この神事のリアルタイムをmixiに送信したが、なぜか送ることが出来なかった。アンテナは三つ立っていた。普通なら送信可能である。首を傾げ、数度繰り返す。やはり、駄目だ。
 やがて、神事は終わった。
 途端、無風の田圃に、風がそよいだ。まるで神事を労うかのように、風は心地よい。そして、あれほど出来なかった送信が、易々と行うことが出来たのである。
 この不思議を思い返すたびに、今でもつい首を傾げる。

 この山間の只中が、里見忠義最期の地である。
 渡海暮らしに疲れた現代人が、ふとカミングアウトし、憧れの田舎生活に飛び込みそうな、そんな雰囲気の旧堀村。そういう脱都会者が終の棲家に望むなら、きっとこういう土地は最高なのかもしれない。
 しかし、里見忠義は望まぬままに、この地を強いられた。戦国大名の最期の地としては、あまりに侘びしく、悲しい。
 きっと、当時の里見忠義は、物的にはかなり不自由だったことだろう。
 西の天空に聳えるのは、日本百名山で知られる大山。春になっても容易に雪が溶けぬ1,729mの標高は、旧堀村からは神々しく映えたことだろう。

 山郷神社境内は清潔だった。
 地元の信仰がしっかりしているのだろうと思った。
 しかし、里見忠義の時代。ここには神域があったのだろうか。特に里見忠義を祀っている風でもないので、そのあたりは不透明である。のちほど、どなたか、ご教授ください。

 旧堀村にいた頃の里見忠義は、何か娯楽があったのだろうか。関金温泉に浸る自由は許されていたのだろうか。
 関金温泉は鶴が入浴しているところを行基が発見したとも、いや弘法大師によって発見されたとも伝えられている。すなわち里見忠義の時代には、存在していたことが考えられる。源泉温度は40 ~60℃、泉質は放射能泉。
 入湯の自由さえあれば、せめてもの慰みにもなったことだろう。
 現地妻と語らいの持てる裸のひとときが許されたら、この山間の暮らしにも僅かな灯火が点るに相違ない。どうだろう、入湯、したのでしょうか。していて欲しいな。
 倉吉の方。〈里見忠義公の隠し湯〉なんて、いいコピーになりませんか?
 だけど、本当に入湯したのかな。
 迷うな。








2014年、里見メモリアルイヤー。
盛り上がりの、ご開帳です。





戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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  1. 2014/09/24(水) 21:04:14|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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