散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

倉吉紀行

倉吉紀行その2


 平成26年9月6日(土)、倉吉駅の路線バスには高校生たちが賑っていた。東高校の学生という。みんな礼儀正しい。丁度、登校の時間なのだろう。
 午前7時代、朝食を得られる場所は、ホテルセントパレスくらいしかない。田中事務局長は、以前もここで相伴したという。朝食バイキングの形式だ。さっそく、お世話になる。ここで一心地がついたら、午後までの時間、いろいろと回れる場所を三人で検討する。欲張っても仕方がない。数点を厳選し、フロントからタクシーを呼んでもらう。観光タクシーだからやや高額だが、時間内で巡るにはむしろ丁度いい。

 最初に向かったのは、旧下田中村の里見屋敷跡。
 現在は、勝宿祢神社と民家があり、往時を偲ばせるものは何一つ残されていない。
 勝宿祢神社は倉吉東高校の南にある。先ほど言葉を交わした高校生たちの学校だ。タクシーの運転手曰く、市内でもかなりレベルの高い学校なのだそうな。礼儀正しかったのは、そういうことか。
 東を流れるのは天神川。運転手曰く、鳥取三大河川のひとつという。この天神川は高い堤防を有している。恐らくは古来より〈暴れ川〉だったのだろう。海からも10キロと離れていない。干満の具合によっては、潮が遡ることもあったのだろうか。この豊かであり畏怖すべき大河を間近にする下田中の里見屋敷は、倉吉における忠義二度目の居場であった。屋敷の規模は、最初の居留地である神坂より、きっと格段に劣ることだろう。神坂は城下町の歴史を持つが、下田中にはそれがない。
 里見家主従は生計を維持するために、知恵と工夫を迫られたことだろう。
 第一印象で、根拠もない話ではあるが、なんとなく、ここが僻地という感覚が思い浮かばなかった。世評というか、同情というか、神坂の屋敷を追い立てられた先の屋敷地という記述や論調は、下田中に対する勝手な思い込みを「悪いもの」に刷り込んでいた。しかし、もし天神川を水利として支配することが出来たのなら、ここは僻地なんてものではない。むしろ商工の拠点になり得る立地だ。美作街道から得るものもあるだろう。
 百聞は一見にしかず。暗い印象を勝手に描いていたが、それらは全て吹き飛んでしまった。甘い憶測をするならば、池田家は捨扶持こそ幕府への立場があり渋ったが、自活の行動を取るなら好きにしてよいという目こぼしを暗黙に与えていたともいえる。生かすかどうかは里見家次第という、格別のお情けがそこにあったのではと、思いを廻らせてしまう。小説家とは便利なもので、こういう推測を、読者が納得する辻褄合わせで成立させることが出来てしまう。ただし、研究者は創作できないから、こういう推理の合理的裏付を求められてしまう。大変だなと、ついつい考える。

 勝宿祢神社の境内は清潔に保たれている。氏子の手入れが肌理細やかなのだと感じた。この鳥居をくぐったすぐ左手に、里見屋敷の案内板がある。
DSC00006.jpg
ここの屋敷区域の想定は、「里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書」に略図として記されている。勝宿祢神社社殿の裏手に、数軒の民家がある。やや狭い生活道路を縫って、その民家の玄関口に回りこむ。そこが、鈴木家だ。こちらのお庭に、下田中里見屋敷跡の碑が立っている。
 田中事務局長は幾度かお伺いしたこともあるようで、鈴木家の方に立入のご了承を頂く。碑の足元には祠があり、榊が飾られている。祠を綺麗にしているのは、既にお亡くなりになられたご主人の頃からの生活リズムなのかも知れない。丁寧な気配りというか、保存しようという心配りさえ感じられた。昔は井戸の跡もあったという。それも既に埋め立てられて、こうして碑だけが、往時を伝える標となっていた。鈴木家の庭からは、なるほど、フェンスの向こうが勝宿祢神社である。ここが古には一体だったことを、静かに頷くのである。
 聞くところによると、下田中には小字名で「里見屋敷」というものがあるという。市役所で確認したわけではないので、事実かどうかは分からないが、察するに、この字内が神坂屋敷以降の里見家に与えられた領域だったのだろうか。残念ながら、碑はそれを語ってはくれない。DSC_0281.jpg   写真提供:田中直司事務局長

 再びタクシーに乗る。
 神坂屋敷のあった方向へと向かう。こういうカルト(苦笑)な乗客には不慣れなようで、本部と盛んに連絡を取り合いながら、運転手は先を進む。しかし、本部の指示で到着したのは、大岳院だった。近くに屋敷跡とされるものがあるが、それは池田家臣・小谷家だった。里見の屋敷跡の行方を調べたら、それは市役所の東側にあった。DSCF2404.jpg
 松原旅館の先に、その看板はあった。道を少し行くと、賀茂神社へ至るT字路がある。見上げれば、鳥取地方検察庁倉吉支部倉吉区検察庁入り口と、その奥の民家屋根の向こうに山がある。
 打吹山。
 かつては城山として機能しただろうこの史跡には、現在、壕跡といった構造物のない名残だけが留まる。山名氏の居城とされ、恐らくは城下に平素の屋敷や、町割が施されたことだろう。あるいは倉吉の現街区に関する礎が、このときに為されたのか。とすれば、里見忠義が最初に見た倉吉の景色は、構造物の違いこそあれ、街区的に現代と大差がなかったとも考えられる。
「いや、そんな安易に云って貰っては困る」
 研究者の諌言は、一々御尤も。こういう推測癖は、小説書きの悪いところだ。
 新田源氏の山名氏が残した跡に、同じ新田源氏の里見氏が立つ。奇縁なことだ。が、倉吉に入ったばかりの里見忠義にとって、奇縁などどうでもいいことだったろう。安房とは異なる気候風土にただただ途方に暮れるだけだったのではないか。
 
 この日の気温は、東京と比べても遜色ない暑さだった。しかも、蒸すような湿度を孕んでいる。基本的に、倉吉の夏はカラリとした暑さだろうかと、疑問を運転手に傾ける。
「いえ、今日みたいな、ちょっと湿度がある暑さですよ」
とのこと。
 ここは日本海に面している訳ではなく、どことなく低い山に囲い込まれた盆地にも似ている。暑さの源は、それだろうかと、勝手に解釈をしてみた。少なくとも、館山の気候とは一致しない。
 里見忠義ほど、気候の変化に富む地で育った人物も珍しい。
 幼少期は豊臣秀吉の人質として、母ともに京や伏見で育った。盆地特有の寒暖の差が激しい京、当時は巨椋池があり淡水湊街の涼夏を得た伏見。その後、家督相続するまで、忠義は安房入りせずに幕府創世記の江戸に留め置かれたと想像できる。新開発真っ只中の江戸は、まだ入り江や溜池の多い湿気地、暑さも一入だ。安房は温暖な気候でカラリとした暑さが特徴だ。きっと、これまでの中で最高の環境を得た心地だろう。それが、倉吉に転封である。
 倉吉は、「くらしよし」という言葉に通じるという。
 果たして里見忠義はどう思ったことだろう。
 ついつい考えてしまうのである。




2014年、里見メモリアルイヤー。
盛り上がりの、ご開帳です。





戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
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  1. 2014/09/18(木) 21:52:41|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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