散文小径

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国府台逍遙

国府台合戦の故地。
つわものどもの夢の跡……450年のちの6月7日は梅雨入りということもあり、雨中のなかにありました。
第二次国府台合戦。
このときも雨であったと記録から伺い知ることが出来ます。
感慨一入でしょう。
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写真全景をみる方は、クリックしてください。雨に煙る国府台です。


国府台供養となるでしょうか、作品を献納します。





 永禄六年(一五六三)閏一二月五日。
 武田勢と連携する北条勢は、このとき連合軍を仕立てて、利根川を越えて上州金山を囲んだ。金山城主・横瀬成繁は厩橋城まで使いの乱波を走らせた。厩橋城代で上杉輝虎の重臣である北条高広は
「金山が落ちると、唐沢山ともども、北条の牙城と化す恐れがある」
と強い懸念を示した。
 このことは、直ちに越後へ報された。
「北条とは、居留守を窺う、泥棒猫の如き輩なり」
 上杉輝虎は憤怒した。
 関東出陣を上州へ沙汰すると同時に、小泉城の富岡重朝および岩附城の太田資正に
「金山城への牽制の動きを取るよう」
と命じた。これらが動き出した閏一二月一九日、上杉輝虎は越山し、厩橋城に布陣すると、急いで密使を仕立てた。
「翌日には、武田・北条との一戦を仕掛けるものなり」
 その旨を太田資正に伝えた。
 しかしこの伝令は、武田・北条の間者により、事前に露見してしまったのである。野戦において上杉勢と激突することの無益を両者は弁えていた。その日のうちに、武田勢は西上野へ、北条勢は松山城へと、金山城より人知れず撤退したのである。
「おのれ、卑怯な輩めが」
 一大決戦を臨んでいた輝虎は、その怒りの矛先をどこへ向けていいか探した。
 その矛先は、簡単に見つかった。武田に与する和田城へ向けて、上杉勢は進軍を開始した。和田は現在の高崎である。
「この挑発に武田が乗れば、今度こそ川中島で決しなかった遺恨を、晴らしてみせよう」
 そう息巻いたが、武田勢は遂に動かなかった。
 この和田城攻撃の最中、上杉輝虎は里見父子へ向けて
「南敵(北条氏)の枝葉を絶やすはこの時なり。関左長久安全の基であるゆえ、出陣を要請するものなり」
 この打診に応えるべく、里見義弘は太田資正との綿密な連携を求めた。ただちに安房・上総に陣触れがなされ、佐貫城へ軍勢が招集されたのである。
 この作戦の成否を左右する、ひとつの事件がおきたのは、まさにこの頃のことだった。

 太田新六郎康資は太田道灌の曾孫にあたる。
 道灌を暗殺した主君・扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏に乗り換えて、そして、北条氏に江戸城を奪われてしまった不幸な一族の末裔である。建前では道灌からの嫡流であっても、もはや昔日の面影もない没落氏族といって過言ではない。
 いまは北条の一士卒として、武辺者として忍んでいた。
 そのためか、太田氏代々の名である源六郎を
「我が幼名新九郎と諱を与えて、その武勲を讃え敬うものなり」
 そのように、北条氏康から目を掛けられたのだ。新六郎康資という名は、そういう名前なのである。更に江戸城主・遠山丹波守直景の娘婿として、外様でありながら厚遇されていた。
 が。
 元来、この江戸城は太田氏の城である。
 信頼という美辞麗句を囁きながらも、氏康は決して康資を江戸城主としなかった。小田原の重臣に城を任せて、康資は城将以上の立場に置くことはなかった。その不遇を、常に不満であると、康資は感じていたのである。策士である太田美濃守資正が、このことを利用しない筈はない。
「江戸城は我らが曾祖父・道灌入道公が築きし名城である。岩附同様、太田氏が統べることこそ相応しい。北条に騙されるな。もしも江戸を取り戻すというならば、積年の諍いを水に流して同族の誼で御助力仕らん」
と、調略したのである。康資はまんまと、これに乗ってしまった。
「岩附の美濃守と謀り不意を突いて江戸城を奪い遠山丹波守を討つ。或いは、越後勢の要請により下総市川あたりまで布陣してくるであろう里見勢に北条勢をぶつけ、隙をみて総大将の新九郎を討つ」
 動くなら、その何れかと思い定めた。
 そして、平河法恩寺において、先に病死した弟・源次郎資行の七七日法会を営むにあたり、一族譜代にこのことを打ち明けた。異論はなかった。
 しかし、このことは、法恩寺住職から遠山直景の耳へと密告されて、呆気なく路程してしまったのである。かくなるうえはと、太田一族は慌てて江戸を脱出し、岩附へと逃れた。
 江戸城では、このとき初めて里見勢の動向を察知したのである。
「里見勢襲来」
 江戸城主・遠山直景は、松山城から帰城したばかりの北条氏康へ、急ぎ伝馬を走らせた。一心地もつかぬまま、氏康はこのことを重視した。
「たかが安房から出張っただけのこと。捨て置けばやがては安房へ引き上げましょう」
 氏政が涼しげに呟いた。
「この戯け!」
 氏康は一喝した。暗愚な氏政の心の眼には、里見勢布陣の真意が読めていない。
「あれは太田美濃守への補給のために動いている。太田勢は上州の切っ先を制しただけでなく、遠山丹波の話では江戸城さえ攻略しようと企てた。里見が後方を支えるからこそ、太田美濃守が賢しく動くのだ。こんなことも洞察できなくては、棟梁としての器が知れよう?」
「申し訳ござりません」
「儂の生きている間に、盗めるものは盗め。いちいち教えぬ、見て感じて、そして刻み込め。儂は棟梁の道を一々示しているつもりぞ」
「はっ」
 ふと、氏康は若き日の、国府台合戦を思い出していた。
(あのときは、父の采配を儂が学んでいた)
 今度は氏政にそれを伝える天佑と考えた。
 国府台とはそういう試練の地ではあるまいか。
 氏康は決意した。
「陣触れじゃ」

 永禄七年(一五六四)正月四日、既に市川には里見勢がいる。
 ここへ攻める後手を覆すには、士気と知略が必要だった。その士気を煽動するため、氏康は諸将へ次のような参集を促している。
「房州勢が市川に陣取り岩附へ兵糧を送ろうとしているが、値踏みに折りあいがついていないという。これは一戦の好機なり。ついては五日、小田原より具足をつけて腰兵糧で出撃するものゆえ、要員が整い次第小田原に参じるべし。兵糧が間に合わなくば、当方により貸与するものなり。なお、兵糧は三日分のみ用意するものである」
 この短期決戦の確信めいた陣触れは、上杉輝虎対策で奔走していた諸将にとっては
「気晴らしの一戦」
と印象づけた。
 確かにこのとき、上杉輝虎は常陸土浦城に釘付けとなり、里見勢へ合力する気配はない。
(しかし油断はならぬ。越後の虎が動かぬ間に、里見を食らう)
 氏康はそう覚悟を決めていた。

 正月五日、里見義弘の本陣に太田資正が訪れた。江戸城調略が不注意で失敗したことの報告である。
「新六郎殿がもう少し油断なくば、我らが北条を誘い、そこに越後管領が強襲する……策通りにはいかぬものよ」
 江戸城が争乱になれば、北条勢は合戦にもならず苦慮する。しかし、市川布陣を警戒するために出張らねばならない。そこへ上杉輝虎が襲来するという筋書きだったのだ。
「このままでは北条陣営になにひとつ混乱もなく、早期のうちに我らは一戦に及ぶこととなろう」
「美濃守殿。望むところにござる。もとより補給のためだけに出張ったとは思いもしておりませなんだ」
「里見勢に対し、太田勢も急ぎ合することとしましょう」
「よろしくお願いします」
 地の利から国府台が迎撃にふさわしいことを、ふたりは暗黙の内に悟っていた。
 ここは、里見氏にとっても因縁深い地である。もう、二六年もむかしになる。ここで小弓公方・足利義明が討死にし、その孤児を里見家が引き受けた。
 この二六年間の、なんと長かったことだろう。
 義弘は足利義明の敗因が、具申に傾ける耳を欠いたことを、父・正五入道から聞かされて育った。ゆえに、どんな閃きでも、耳に留めようと心掛けるのであった。
 里見勢の国府台入城を阻止しようとしたのは、千葉氏重臣・高城胤吉である。しかし単独でこれを阻めるものではなく、千葉氏は北条側へ救援の伝馬を走らせた。正月七日、江戸城へ北条勢が入ると、決戦の機運が両陣営に漲った。太田資正は
「遠山丹波が出てきたら、新六郎を先陣に用いよう。陣触れに乱れを誘い、一気に討ち取るべし。きゃつは江戸城主としての責任に潰されそうになっているからのう」
 このとき、早くも腹の探り合いが始まっていた。

 永禄七年正月七日。
 風は逆巻き、群雲は西に東にと空を奔っていく。
「北条勢だな」
 太日川より二〇間余の高台にある国府台城からは、川向こうに犇めく三つ鱗の旗差しが潮のように眺望される。籠城するにしては手狭なこの城は、太田道灌の時代に陣所とされたのが最初とされる。ここを城塞と為した道灌は、かつてここが古代の古墳とは知らなかった。剥き出しの石棺が持つ意味も、きっと解らなかっただろう。その後にここを陣所とした里見勢もまた、地の利がいいというだけで、太古に思いを馳せようとは考えなかったに違いない。
「合戦とは縁起物なり」
 これは太田資正の持論である。
 縁起を担ぐこともまた、勝機を拾うひとつの術であった。道灌の曾孫である資正は、国府台城内に取り込まれた社に戦勝祈願をすることで、高祖の武勇に肖ろうとした。太田康資もそれに倣った。江戸と岩附、ふたつに分かれた太田氏なれど、曾祖父はおなじ太田道灌なのだ。
 翌払暁。
 北条勢の先鋒が動き始めた。
 丸山傍らの櫓から認められた行軍の様は、西桜の兵に伝えられ、それはただちに里見義弘の耳に届いた。
「がらめきの瀬を渡ってくるか。無傷で渡すことはない、矢を馳走してやれ」
 義弘は先の国府台の教訓を含んだ下知を下した。こういうときは高低差が物をいう。高台となる国府台からは、渡河の軍勢は格好の的であった。
 櫓からの報せは、動いたのは先陣だけで、本陣は川の向こうで待機しているというものだった。ここを凌げば、敵を退けることができる。こちらが苦戦を強いれば、北条本隊が怒濤の勢いで押し寄せてくるだろう。大切な一戦であった。
「新六郎、まいる」
 太田康資が動いた。差物から先陣が
「遠山丹波守なり」
と認めたためである。北条江戸衆にとって、康資は憎むべき仇敵であった。
「新六郎は栗山あたりで江戸衆と一戦に及ぶだろう。頃合いをみて、がらめき坂を登らせる。そこで敵を殲滅する」
 太田資正の策に、里見義弘は頷いた。
 がらめきとは、からからと鳴り響くとも落石とも、ほとばしる水の流れだともいう意味らしい。
「恐らくほとばしるせせらぎなり」
 がらめきの瀬とは、そういうことなのだろう。確かに、浅瀬により水のせせらぎが響いて聞こえる。現在、このがらめきの瀬は〈矢切の渡し〉と名を改めている。
 利根川が銚子に流れを遷す以前の時代と比較すれば、現在のそれは、恐らく当時よりも川幅も狭く水量さえも少ないだろう。
 そのがらめきの瀬を押し渡る北条の先陣は、江戸衆である。江戸城主・遠山丹波守直景と葛西領主・富永四郎左衛門政家に率いられた軍勢は、ふりそそぐ矢の応酬をものともせずに、遮二無二突き進んだ。
 このとき北条勢は完全に揃っていない。小田原からの本隊がまだ到着しておらず、北条左衛門大夫綱成の先発軍だ。
「川を挟んで我が領に接する敵は、なんとしても先起こされたくはなし」
 そう願い出て、この出陣を赦されたのだ。
 勿論、形式的なことであると云い含められてのことだから、遠山直景は頃合いをみて退くつもりであった。太田資正はその考えを見透かしていた。そのことが、この先陣の意外な顛末へのはじまりであった。
 合戦とは縁起であると同時に〈流れの如し〉であると資正はみている。
 旋律を奏でるのが、敵か、味方か。
 敵の乱調を誘うこと、それが合戦を有利に運ぶことである。合戦巧者の資正は、その術を会得していた。このときの乱調を誘う餌は、北条江戸衆が憎んでも足りぬ相手、太田康資を前面に見せつけることである。遠山直景はそれに食らいついた。
「里見勢の伏兵を、がらめき坂に配した方がよいな」
 太田資正の言葉に義弘は頷きながら
「新六郎殿の与力は?」
「いや、感情を逆撫でさせる餌は、ひとつでよい」
 がらめき坂へは、正木信茂と正木弘季が布陣した。遠山・富永勢は、憎き太田康資へと攻め掛かってきた。手筈に従い、太田勢はここで激突した。朝の河畔に吹く風が、たちまちのうちに、血潮にまみれた生臭いものへと化した。怒号が地響きとなって、朝の空気を轟かせた。
 緒戦は互角であった。
 遠山勢には憤怒の勢いがあったが、太田康正側にも積年の憤懣があるのだから、士気は双方ともに昂ぶっていた。
 日の出とともにはじまった戦いは、たちまち混戦となった。
 この混戦に、国府台からは援軍を差し向けるでもなく、やや孤立した感もあったが、太田康資は互角に対峙した。その均衡が破れたのは、市川まで進軍してきた小金城主・高城治部少輔胤辰の軍勢二〇〇騎の参入である。
「援軍かたじけなし」
 遠山丹波守直景が叫んだ。
これにより圧されていく太田康資の陣形を城よりみて、太田資正は采配した。
「陣太鼓と法螺貝の用意を。兵をがらめき坂へ退かせるべし」
 法螺貝が鳴り響くと、陣太鼓が続いた。
 それを聞いた康資は
「背負太鼓を鳴らしながら、我らはがらめき坂を登る。取り残されるな、兵はこれに従うべし」
と沙汰した。
 この号令が随所で呼称され、江戸太田勢は、がらめき坂へと移動を開始した。
 遠山・富永勢はこれを追撃すべきか躊躇した。
 この勢いで郭のひとつも押さえてしまえば、先陣としての顔が立つ。しかし、この数でいけるかという冷静さが、少なくともこのときまでは遠山直景にはあった。その冷静を欠いたのは、退きながらも印地打ちをする、太田勢の飛礫が至近に弾けたときであった。
「石を投げてくるとは呆れたものよ。大した備えもあるまい。我らの槍の味、いま暫く馳走してとらすか」
 そういって采を振った。
 陣鍾が鳴り響き、がらめき坂へと北条先陣が移動を開始した。太田康資の軍勢は、早や坂を登り切っていた。それを追うように北条勢が狭い坂に殺到した。がらめきの名のとおり、石だらけのその坂は足場が悪く、遮二無二突き進んでも差程に前へ進んでいないような心地になり、兵たちの気も上擦りを隠せなかった。
坂の中腹で押し合いへし合いになった、そのときである。
 合図の鉄砲が鳴り響いた。
 すると、伏兵の里見勢が、横合いからわっと江戸衆へ攻め掛かった。太田康資も逆落としのように坂の上から攻め掛かってきた。
「しまった。罠だ、坂の下まで退け、退け」
 遠山直景が叫んだが、混乱する陣のなかで、その声は悲鳴に掻き消されていった。
 がらめき坂の戦況が一変した。追っている筈の北条勢が、追われる側に転じたのである。
 対岸の北条綱成は、物見からの報せでそれを知ったが、あとの祭りであった。増援を送る猶予は、もはやなかった。あとはひとりでも多く、太日川を渡って、自力で逃れてくるのを待つよりない。
 刻は辰(午前八時)。逆落としに攻めかける太田康資は
「いまこそ積年の恨みを晴らすとき」
と叫び、怒濤の勢いで攻めかけた。
 それに従う江戸太田勢は
「江戸城をいま一度」
と復唱しながら遠山勢を圧倒していった。
 伏兵の里見勢は、この戦いでは完全に与力である。主導権がないものの、それに勝る戦果を挙げようとしていた。
 正木大炊介信茂は、亡き大膳亮時茂の子である。若いながら分別のある信茂は、冷静に兵を采配した。叔父の正木弾正左衛門弘季は、窮鼠猫を噛むの例えを遵守し、無理強いすることなく、しかし確実に浮き足立つ北条勢を仕留めていった。弘季は上総一宮城を預かり、これまでも多くの合戦で軍功を挙げてきた。合戦の呼吸を熟知しており、このような混戦では十把一絡げにするよりは、名のある者を討つだけに留めることこそ敵へ打撃を与えることと弁えていた。里見勢の黒川左衛門は、そのなかで奮戦し、大剛の名を欲しいままにした。
 北条勢の先陣として渡河した江戸衆は、この一戦で惨敗した。
 遠山丹波守直景と富永四郎左衛門政家といった先陣の総大将が、このときの戦いで討ち死にした。更に軍奉行にあった山角四郎左衛門尉定吉も、この戦いで討ち取られた。ほかにも中条出羽守・河村修理亮といった討死者を出した。およそ一四〇騎が、このとき討ち取られた。
「渡河する兵を深追いすることは禁ずる」
 正木信茂の思慮分別とは別に、太田康資はかなりのところまで深追いした。それほどまでの恨みをずっと抱いていたことを思えば、殊更それを非難する気にはならない。
 が
(品性には欠けるな)
 正木信茂は舌打ちした。しかし、彼にしてみれば、父に代わり再び国府台で弓矢を奮えたことは感慨一入であった。
(それにしても)
 気に入らないことが、信茂にはあった。

 北条勢は追加の軍勢を送り込むことはなかった。櫓からの物見は
「旗差しからみて、恐らく小田原の軍勢。対岸の北条勢に合流」
と報せ、里見義弘は自ら視認した。
 三つ鱗の馬差しが犇めく様は、海の如き壮観である。
「あの数と直接戦えば、こんな小城はすぐに落とされてしまう。天然の壕である太日川がこれほど有難いと思ったことはない」
 義弘は小さく呟いた。
 双方睨み合うこと半日。陽は雲に隠れ、やがて小雨が降り出した。篝火が大河を挟んで赤々と彩られる。時折強い風により、薪から飛び散る火の粉が美しい。
「殿。美濃守殿が緒戦の祝をと申されています」
 じっと北条勢を警戒している義弘を、正木信茂が呼んだ。
「敵を前にして、些か迂闊と思うが」
「新六郎殿の祝と、正月の宴を遅ればせながらということですが」
「それにしても……」
 義弘は考えた。顔を出さぬ訳にもいかぬが、酒で油断するにも程がある。仮に策でそうしているとしても、もう少し、為さり様があるのではないかと思った。
 ふと、正木信茂が進み出た。
「殿にお訊ねします」
「なにか」
「この合戦は里見のものでござるか、太田のものでござるか」
「なにをいいたいのか」
「今朝の戦いは、まさしく太田の合戦を里見が助けたものにござる。この陣の総大将は殿にござるか、美濃守殿でござるか?」
「決まっておろう。この戦いは関東管領の戦い、越後公の代陣である。たまたま北条の矛先がこちらへ向いただけのこと」
「与力として戦うのなら、先の国府台合戦の教訓を生かすのも手ではありますまいか。かつて大殿は、深入りすることなく、戦力を温存して基礎を保ちました。我らにとっての有無の一戦ならいざ知らず、助け戦さに深入りしては大事になりましょう」
 正木信茂は太田資正の与力であるなら、上手に手を抜くことを主張したいのだ。太田康資のように、義弘が資正に利用されては困るという一念の諫言だった。
 その不満を押し留め、里見義弘は正木信茂を伴い、太田資正の陣へと足を運んだ。
 そこは既に酒宴と化していた。
「おお、ようやく参られたか。美濃守殿、左馬頭殿のおでましじゃわ」
 太田康資が大声で叫んだ。
床几に座していた資正は、上目遣いに、ちらと里見義弘をみながら
「迂闊とは思うかな?」
 静かに呟いた。
「げにも」
 義弘は即答した。
「さもありなん」
 その回答に、含み笑いしながら
「まともな将なら、いまを捨て置かぬ。しかし、北条の隠居は頭がよすぎる。何事においても深読みをしたがるのよ。今頃はこの酒宴を、罠と警戒しておろうて」
「にしても、あまりに明け透けにすぎる。これでは士気も軍規もないではないか」
「まあ、そう申しますな。新六郎殿の戦勝祝はこれでも足りぬくらいなのじゃ。それだけではない、正月も惜しんで陣中にある兵たちに、せめて、ふるまいのひとつもしてやりたい。これも立派な将の為されようなり」
 里見義弘は言葉を失った。陣中のありようとしては、これまでの里見の軍規にはない乱れというほかない。一杯だけ頂戴すると、義弘は早々にその場を辞した。
「殿、やはりこの陣は烏合の陣です。とても見倣うつもりにはなれません」
 信茂が呟いた。
「しかしな、平七よ。美濃殿はあれでいて、越後公も一目おく合戦巧者には違いがないのだよ」
「はあ」
「儂は先の国府台で小弓公方が敗れたのは、広く意見を聞かなかったからと大殿に聞いておる。だから今度は、儂は慢心をせぬよう徹しておるのだ。まるで太田の与力と憤る、そなたの気持もわかる。しかし、今回は、どんなことにも耳を傾ける辛抱に徹したい。ただそれだけなのだわ。北条はそのくらい強い相手なのだということよ」
 義弘の言葉に、少々思慮が浅かったと、信茂は詫びた。
 その言葉を受けながら
「諫言してくれる家臣は、いわば家の宝というもの。そなたの父にも儂は鍛えられたものだわ。その心根、有難く思う」
 義弘はそういって笑った。
 しかし、このとき北条の乱波が、国府台に紛れていた。
 北条源六氏照は、滝山城にあって武蔵方面を任される氏康の次男である。兄・氏政の暗愚ぶりと比較すると、実にきめ細かな軍律や統率をする治世者であった。このとき、氏照は秘かに乱波仕事を得手とする家臣をふたり、国府台城に紛れ込ませていた。横江忠兵衛と大橋山城守という。このふたりは先陣の合戦があったとき、太田勢のなかに既に紛れていた。その後の戦勝の宴の様なども、ふたりは夜陰に紛れて北条の陣に戻りすべて氏照に報告した。だから太田資正の予想通りに深読みしていた北条氏康は、真実を知ることができたのである。
 策士策に溺れる。
 このときより、この一戦の趨勢は、ほぼ決したと云ってよい。
 北条綱成は松田左衛門佐と策を練り
「軍勢をふたつに分けて、一隊を国府台の背後に回して挟撃というのは如何かと。今なら敵の監視も緩いことでしょう。一隊を夜のうちに渡河させれば、払暁に挟撃が適うかと」
と氏康に献策した。
 氏康はちらと氏政をみた。顔色が蒼い。
「総大将はそなたじゃ。左衛門大夫の献策をなんといたす」
 氏康なりに、ここは暗愚な印象の濃い嫡男の顔を立てようとしていたのだ。ここで決断するのが氏康か氏政かで、士気は変わってくる。氏政は考え込んだ。考えているふりのようにも映り、重臣たちの目の色が浮ついてきた。
「源六ならなんとする」
 ふと、氏政は傍らの弟・氏照に意見を求めた。
「上策にござれば、時間は惜しゅうござる」
という即答に、氏政も
「合戦巧者な源六を唸らせるとは、さすがは左衛門大夫。この策に従おう」
と同意を示した。
 姑息なふるまいに氏康は溜息を吐いた。このままでは茶番になると、即座に、二隊の振分けを氏康が行った。背後に回るのは北条綱成を総大将とした軍である。これらが夜陰に乗じて国府台城の背後に回り、と同時に氏政自ら率いる本隊が渡河をして払暁を待つという動きとなった。
 こればかりは総大将ゆえ、氏政も動かざるを得ない。
 小雨は視界を著しく曇らせる。北条勢にとっては天佑といってもよい。有視界のなかで里見勢は対岸の監視を続けていた。しかし、小雨に水面が煙り、かすかに篝火がゆらめくのが映るだけである。
 その背後で太田勢の酒宴の声が響くと
「なんだか馬鹿らしくなる」
と、里見の兵たちは口々にぼやいた。
「すまぬな。しかし、ここは戦さ場ぞ。油断は命取りになる」
 里見義弘と正木信茂は、直々に陣所を見回りながら、兵たちに労いの声をかけた。
 その最中、ひとりの兵が
「妙な噂を」
と注進してきた。
「土岐殿のことにて候」
 これは、土岐頼定が北条の間者と通じ、背信を促されていたという噂である。
「これは我が曾祖父であるぞ。我が祖父・万喜少弼(土岐為頼)殿に代わりて兵を率いて参られた御方を疑うなど、思いも寄らぬこと」
 陣中にはあらぬ噂が立つものであると、義弘は笑って受け流した。
 この薄煙に揺らめく遠景では、目を凝らしても人知れず北条勢が渡河することなど視認はできない。このことが、この一戦を大きく左右した。

 寅の刻(午前四時)。
 北条勢は完全に予定の箇所に布陣を整え、挟撃の合図を待つだけとなった。その頃、里見勢は仮眠のなかにあり、太田勢は宴のなかで酔い潰れていた。
 突如、夜陰に法螺貝が鳴り響いた。
 何事かと跳ね起きた里見義弘は、それが敵の攻撃と知り愕然となった。
「いつの間に渡河を許したか」
 物見に訊ねるが、限られた視界でそれを識別することなど不可能に等しい。何よりも緒戦の勝利は、心のどこかで気の弛みを誘っていたのだ。
 これは誰にも云えることである。
「我らは背後からの敵を迎え撃つ。太田勢は正面からの敵を!」
 里見義弘の檄に、太田資正は赤ら顔を隠さず
「承知」
と応えた。
「敵は真間の森から繰り出す模様」
 報される状況に一々頷きながら
「形成は必ず立て直せる。奇襲なんぞ、小手先のことよ」
義弘は叱咤しながら馬上で太刀を奮った。後手になった分、この戦いは里見勢の不利であることが明らかであった。
 北条左衛門大夫綱成は諸将に檄を飛ばしていた。この一戦は遠山・富永勢の弔い合戦なり。これを受けて発憤したのは、緒戦で父を討たれた山角伊予守定次だった。
「聞けば父を討ったのは里見の正木弾正左衛門という。この一戦は弔い合戦なり、恨みは我が手で晴らしてくれん」
 そう豪語し、めざす敵を求めて太刀を奮った。
「この戦い、太田勢はさほどに信用出来ますまい。血路を開いて真間の森から仕掛けてきた敵を突破し、退いて軍勢を立て直しましょう」
 正木大炊介信茂が里見義弘に注進した。
「逃げるとか」
「このままでは犠牲が大きくなります。我らが血路を開きます。殿は逃れませ」
「平七」
「だれか、殿の脇に従え。なんとしてもここを切り抜けるべし」
 国府台城の機能は、この時点で砦ほどの役にも立っていない。この状態で留まることは、確かに自殺行為だった。義弘の脇に従ったのは安西伊予守実元と曾祖父の土岐頼定であった。
「こちらへ」
 土岐頼定が先に進んだ。
「死ぬな、平七!」
 義弘の叫びに、正木信茂は右手を上げた。
 これが義弘の見た、信茂の最期の姿だった。この戦いで、正木大炊介信茂は、壮絶な討死にを遂げる。その叔父である正木弾正左衛門弘季も
「父の仇」
と挑んできた山角定次によって討ち取られた。
 矢が降り注ぎ、義弘の愛馬がそれに倒れた。
 安西実元が駆け寄ったが、土岐頼定はそれを見向きもせず去ってしまった。
「曾祖父殿!」
 土岐頼定は返事もしない。
「背信した噂は、まことであったか!」
 義弘は地団駄踏んで、ここを死地と覚悟を決めた。
「殿は我が馬に。儂が踏み留まりますれば、何卒ここより逃げ仰せてくださりませ」
「伊予守!」
「我は死して主君を生かす、そのことで名を残すのです。さあ、早く」
そう云って、義弘を自分の馬に押し上げると、その尻を強く叩いた。馬はいななき、猛り走りだした。安西実元は、ここで壮絶な討死をした。
 国府台の合戦は里見勢に手痛い打撃を残した。
 結局、太田勢も早々に撤退を開始したことで、里見勢が北条からの追撃を一手に受ける羽目になったのである。
 土岐頼定は里見に背信をしたが、このとき逆に里見側へ附いた北条の士卒もいた。土気城の酒井胤治である。合戦遅参を咎められて北条を見限ったのだが、結果的にこれに助けられる格好で、里見勢は虎口を脱した。
 追撃する北条勢は、なんとしても里見義弘を討取るつもりで深追いしてきた。これは氏政の方針である。
「深追いはやめよ」
 北条氏康が介入した。もしこのとき、背後から上杉勢が襲来したら、房総から逃れる術がなくなる。大将とは、あらゆる対局を摸索し、目の前に惑うことなく思慮深い臆病でなければならない。里見義弘は久留里城まで奔って、この不始末を泣いて父・正五入道に詫びた。
「これほどまでに……」
 里見正五入道は被害状況の大きさに絶句した。
 戦死者五三二〇余(『関八州古戦録』参照)、里見民部少輔広次や正木一族、それに秋元将監・安西実元・勝山豊前守・加藤左馬允・鳥居信濃守・多賀越後守などといった将を失ったことは大きな損失だった。
 この戦いは、先の国府台合戦とは趣を異ならせた。ここで敗れるということは、上総に積み上げた実績の多くを失うことになる。
「太郎よ」
「はい」
「失ったものは仕方がないのだ。しかし、遺族にはそれ相応の恩賞はしてやらなければならぬぞ」
「甥のこと、責めは我が身に」
「民部少輔(広次)だけのことではない。特に、平七のところはな」
「種のことですね」
「我が娘だからいうのではないぞ。平七は正木宗家、里見にとって正木家はかけがえのないものなのだ」
「はい」
「それにしても、話には聞いていたが……万喜の衆も、とんだ食わせものであったな」
「曾祖父殿は最初から北条に気脈を通じておったのでしょう」
「万喜少弼が出陣せぬと聞き、疑いもせなんだはこの父である。若いそなたが看破出来よう筈もない。さりとて、万喜が敵になるということは、よくよく小田喜を慰めねばならぬぞ。平七のことは、それほど大きな損失である」
 確かに、万喜城と小田喜城は目と鼻の先である。最前線といってもよい。正木宗家の存亡は、里見家存亡をも左右することになる。
「太田美濃守の軍略もこんなものだ。今後はつきあい方を考えていくべきかのう。越後公への義理の範囲内ということでな」
 里見正五入道は深く溜息を吐いた。

 上杉輝虎が国府台のことを知ったのは、すべてが決したあとであった。


  よし弘くたのむ弓矢の威は尽て
     からきうき目に太田身の果
                     (関八州古戦録)



国府台合戦供養の報告は、こちらにて。
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さて、里見氏大河ドラマ化実行委員会HPで連載されている書き下ろし小説。
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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

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  1. 2014/06/08(日) 07:18:10|
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