散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見賢臣列伝】岩崎与次右衛門

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
でも、それだけでは納まらない魅力な人材は、まだまだいるんですよ。
本当の意味での8人を選ぶのは、皆様ひとり一人の熱い想いかも知れません……!



第十三 岩崎与次右衛門


 天正一二年四月、里見義頼は商人・岩崎与次右衛門に館山城下沼之郷へ屋敷を与えた。この商人は里見氏の臣下のように組み込まれ、やがては交易を支える館山城下商人頭取となる。
 この時代、織田信長が本能寺で斃れ、羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手で覇権を巡り激突した頃で、関東は天下の情勢に一歩遅れていた。
 やがて秀吉が天下人へ向けて、大きく一歩を踏み出そうとしたとき、里見氏は、いち早くそれに歩み寄った。
 商人の情報は諜報の基礎である。
 里見氏の耳となったのが、まさに岩崎与次右衛門等商人のネットワークだった。

 里見義頼の死後、新たな当主・義康は、躊躇いもなく、館山城移転を推し進め、城下の街割りや湊の采配に、岩崎与次右衛門の意見を取り入れ実行していった。岩崎与次右衛門にとって、若年なれど侮れぬ主君として、この両名の関係は阿吽のように綿密なものとなった。
 小田原征伐ののち、上総国召上げの混沌期にも、岩崎与次右衛門の内助が里見家の混沌を避けたといっても過言ではない。
 やがて、太閤検地が安房でも行われた。
天正一八年九月一三日昼過ぎ、五奉行の一人として知られる増田長盛の乗る舟が鷹ノ島へ停泊した。里見義康は、主立った家臣を従えて湊に出迎えた。
「安房守殿自ら、恐れ入ります」
 増田長盛率いる検地代官の決定は絶対だ。家臣一同は緊張を隠せない。
「我が手の者ともども、逗留先はどちらになりましょうや?」
 増田長盛の言葉に、里見義康は傍らの岩崎与次右衛門を指し
「この者は商人の束ねを任せている者にて、逗留の間は何なりと」
 岩崎与次右衛門は慇懃に挨拶し、寝食の世話をする旨を申し伝えた。
「いや、家臣の知行割に不服の声が出ては困るため、こうして商人の力に頼った次第です」
 義康の言葉に、増田長盛は感心した。
「それは、なかなか気づかないことです。そうして頂けてると、有難い。何をしても贔屓だ不公平だと恨まれる仕事ゆえ、中立の者の世話になりたかった。さすがは安房守殿です」
 このときの精勤ぶりは、さすが安房商人よと、上方の人間をも感嘆せしめたという。

 秀吉の天下は、束の間の出来事だった。その間に、大陸出兵や伏見築城など、目まぐるしい出来事に、里見氏も翻弄された。
 やがて、秀吉は往生する。

「そうか、太閤殿下はお亡くなりになったか」
 岩崎与次右衛門の報告に、里見義康は静かに呟いた。
 商人の嗅覚は敏感だ。戦さや損得話はちょっとした間者顔負けである。
 慶長五年。
 関ヶ原の陣営に、里見義康は徳川家康を選択した。これが功を奏した。安房一国の里見氏は、飛び地恩賞として鹿島の地を頂いた。

 里見義康が急逝した慶長八年一一月一六日。この年、日本の歴史は、ひとつの大きな転換を迎えた。
 徳川家康の征夷大将軍就任。
 これにより、里見の新当主・忠義は、徳川家のもとで生きていくこととなる。
 翌年一二月一六日、東海南海西海を震源地とした巨大地震が発生した。世にこれを〈慶長の東海・南海地震〉という。
 犬吠崎から九州までの太平洋沿岸に津波が来襲し、八丈島で死者五七名。加えて紀伊西岸広村で七〇〇戸の流失。阿波宍喰で死者一五〇〇名。土佐甲ノ浦で死者三五〇名そして室戸岬付近で四〇〇名以上が死んだと記録される。
 房総半島の被害は、当然のことながら沿岸部を中心に甚大である。
 発生場所は駿河湾から徳島沖、今日でいう〈南海トラフ〉と呼ばれるところで、津波による被害が甚大とされ、陸地の揺れが小さかったと伝えられる。このときの津波は、夕方から夜にかけ、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せたらしい。
 この震源地は、阿波沖および房総沖の二箇所というのが、一般的な観測記録である。
 房総半島東岸および伊豆半島に押し寄せた津波の高さは、ところによって約五間半(一〇m)以上、特に房総沖が震源であるため、発震から間もなく襲来した。しかし、房総半島における地震の記録はあまり残されていないため、この地震の現地仔細は伺い知れない。
 この被災状況、『房総治乱記抄』によると、次のとおりである。
『慶長九年一二月一六日大地震山崩れ海埋て丘となる。この時安房上総下総の海上俄かに汐引きて、三〇余町干潟になること二日一夜、続いて一七日子の刻沖の方大いに鳴動して汐大山の如く巻上り、浪は山の7分に打ちかかる。
早く逃ぐる者は遁れ、遅く逃ぐる者は死たり。この汐災に遭いしは辺原、部居浜、小湊、内浦、名太、江見、和田、御宿、岩和田、岩舟、和泉、東浪見、一宮、一松、牛込、反金不動堂など四五ヵ所なり。』
 この震災復興にあたり、岩崎与次右衛門は寝食を忘れて励んだ。館山城下の復興なくして里見の屋台骨は立て直すことができない。この努力に、忠義も感謝を繰り返した。
 こうして里見との二人三脚で励んだ岩崎与次右衛門であったが、その運命が大きく変わる出来事が起きた。
 里見氏転封。
 減封であり、家臣のすべての扶持もままならない。この騒動の結果、転封先も変わり、最終的に因州倉吉と決した。
多くの家臣が口減らしのため、浪人の道を選んだ。岩崎与次右衛門の道もひとつしかなかった。
当主不在の安房を抑えるのは、大家老の堀江頼忠である。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと、暇乞いを申告してきた。そうはいうものの、口減らしの覚悟は重々誰にも伝わっている。新しい領主は徳川の臣下だろう。きっと、虐げられるに相違ない。
去るも地獄、残るも地獄、彼らの覚悟は並々ならぬものだった。
 安房の商人衆は、大半が残留する道を選択した。口減らしは多く、そして早い方がいい。商人を代表して、岩崎与次右衛門が館山城を訪れた。
「余所では商いの旨味がございませぬ。里見との御縁も、ここまでということで」
応じる堀江能登守頼忠は、その憎まれ口の心底を悟り、黙ってこれに応じた。引き留められることを嫌い、殊更嫌味を口にする与次右衛門である。里見家と寄り添い発展してきた彼は、どんなに辛い立場だったろうか。
 同じように、海将の多くが禄を捨て、浪人の道を選んだ。倉吉では水軍も役には立たぬ。どこかに仕官を探すしかない。移転を嫌い、このまま土着帰農する道を選ぶ者もいた。
 次々と、人が去っていった。
 名のない兵卒の大半は農民や漁民である。里見家では兵農分離の余力がなく、従って彼らは新生活を望んではいない。現実は、実に厳しい。その程度では、口減らしにもならないのだ。困窮することは、必至である。

 その後、安房は徳川の代官が治世を行った。
 岩崎与次右衛門は前歴を評価され、名主として、城下の商人や浜の漁師たちの取締を行い、生涯を終えた。




 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

ここで、緊急告知!
上記「里見氏大河ドラマ化実行委員会HP」において、2014年4月3日から、夢酔の小説が連載開始!毎週木曜日に更新されます。どうぞ末永く御愛顧賜りますようヨロシクお願いします。里見氏を皆さんに知って貰いたい一心での、試みです。このblog同様、御愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/04/26(土) 06:08:50|
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