散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見賢臣列伝】ふたりの兵法指南

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
でも、それだけでは納まらない魅力な人材は、まだまだいるんですよ。
本当の意味での8人を選ぶのは、皆様ひとり一人の熱い想いかも知れません……!



第十一 ふたりの兵法指南


 どの戦国武将も、兵法指南役を用いるものである。これは当主自らの鍛錬のためでもあり、あるときは組織の調練のためでもある。
 兵法者は仕官の先を求めて諸国を放浪する。放浪しながら己の武芸を磨き、それを用いてくれる主君を探す。御家付となっても、新たな兵法者に取って代わられることも少なくない。
 戦国時代の関東は、塚原卜伝や上泉秀綱等、優れた兵法者の坩堝であった。
 里見家もまた、兵法者を召し抱えていたことが、記録から伺い知ることが適う。

 里見義頼の頃、里見家兵法役に任じられていたのは、木曾庄九郎という人物だ。
念流の使い手である。
 念流は、応仁の頃、もと臨済宗の 僧上坂半左衛門安久が太刀先に一念をこめる極意に達して創始したとも、また僧・慈恩(俗名相馬四郎義元)が京都鞍馬山で剣術を学び創始したともいわれる。念流・神道流・陰流といった剣術流儀を指し、〈兵法三大源流〉ともいわれる。
 木曾庄九郎はその使い手だ。
 彼のことは表の歴史であまり知るところではない。講談本で登場することもある。里見義弘家臣・木曾庄左衛門の子で、岡本に道場を設けていたとあります。が、講談は娯楽の虚構も多く、このあたりは信憑性を問うところではない。彼は、義頼の時代から改易されるまで、里見家の兵法指南を務めた。里見から去ってのちに、新しい流派創設に苦心し、〈源流〉の創始者となる。

 里見義康の頃に鹿島三万石が加増となり、兵法者をそこから求めた。このとき木曾庄九郎はそのまま留めたため、記録では、里見家はふたりの兵法指南を置いたことが理解できる。

 鹿島より迎えたのは、塚原五左衛門。
 新当流の使い手である。『鹿嶋志』によると、新當流(新当流)の元になったのは、鹿島の太刀という名の上古の時代から伝わる兵法だ。塚原卜伝によって新当流の名は勇名を馳せた。
塚原五左衛門はその名の示すとおり、恐らくは卜伝の係累だろう。
 この塚原五左衛門を兵法役に据えた際、義康は試合を以て人材を発掘したと考えてよい。加増の新領地から人材を引き上げることで心服させる。里見義康は人心掌握術に長けた人物だった。
 このときの試合は、きっと家中を賑やかとしたイベントだったに相違ない。

「武芸盛んな土地である。兵法指南を志すなら家柄に関わらず、申し出させよ」
 義康の言葉をそのまま伝えると、応募者が殺到した。この報せににやりとした義康は、木曾庄九郎を差し向けて、人材発掘をさせた。
 木曾庄九郎は面倒を省くため、自らが木剣を持って吟味し、選抜した者等に試合をさせることとした。
 鹿島の腕自慢は、こうして館山にやってきたのである。
 木曾庄九郎からの報せでこのことを知った義康は、館山城内に試合場を設けさせ、陣幕で囲んだ。こういうことは万人受けすることではないので、人の目から遮断するつもりだった。ところが、里見家臣団のなかでも観戦の要望が存外高いことが判明した。
 会場は急遽、北条の浜に移された。ただし、陣幕を張るのは海風を避ける為である。
 初夏の北条の浜は、異様な熱気に包まれていた。茶屋や餅屋が俄に店を構えるなど、まさしく祭の様だった。
「なんだ、家臣領民こぞって武芸好きだったなどと、今まで知らなかったぞ。先代も年寄りも教えてくれなんだ」
 そういって、義康は笑いながら床几に腰を下ろした。
 その両脇には甲冑武者、槍武者、鉄砲武者が控えている。この用心は、仕方のないことだった。
「鹿島の武勇、しかと見届けたい」
 義康は言葉少なく、木曾庄九郎の選抜した面子を見渡した。
「御館、暫く!」
 正木弥九郎時茂が進み出、今度のことは神事の如し、鹿島大宮司家に家臣・緒形加賀を使者に立てたと報告した。これが遺恨の場であってはならぬとも告げた。
「是非もない」
 義康は笑った。
 かくして、武芸者たちの試合が始まった。木剣とはいえ、死者が出ることもある。そのため勝負が見えた時点で、木曾庄九郎が割って入れるよう支度していた。
「はじめ!」
 木曾庄九郎の掛け声で、武芸者たちは気合いを発した。総当たりの筈だが、負傷につながれは、落伍と見なす。
 順当に勝ち残った人物は、風体は冴えないが、気負いもなくどんな剣気も受け流す不思議な存在だった。
「あれは何者か」
 義康は傍らの者に訊ねた。塚原五左衛門だと、やがて答えがあった。皆々歩幅を広くとり、肘を前方に出す姿勢を取る。これが鹿島新当流の構えなのだろう。そのなかで、塚原五左衛門の動きには素人目にも淀みがなく映った。気がつけば、塚原五左衛門の一人勝ちだった。
「天晴れなり。塚原五左衛門を里見家兵法師へ新たに加える。なお、鹿島衆は新参なれど下に置くものではないと心得よ。まずは鈴木対馬入道を安房に引き上げ、調整役となす」
 義康の沙汰に、誰も文句はなかった。
 試合に勝った塚原五左衛門は、その日、さっそく館山城に招かれ義康直々に杯を賜った。
「今後ともよろしく頼む」
 義康はそういって微笑んだ。
 塚原五左衛門は不思議そうな表情をした。
「安房守様は、見栄とは無縁なのでござりますか?」
「見栄?そんなもので家臣が潤うなら、いくらでも見栄を張りたいものだ」
 そう云って、笑った。
 この笑みに、人は惹かれる。塚原五左衛門もこのとき以来、義康に惹かれた。
「塚原とは、あの卜伝の流れか?」
「姓は同じですが、足下にも及びません。未熟者です」
 塚原五左衛門は謙虚な物云いだ。義康はそれが気に入った。
 この日以来、里見の兵法役は、新当流の塚原五左衛門、念流の木曾庄九郎の二名となった。

 こうしてふたりの兵法指南が里見家に誕生した。それよりおよそ一〇年ものちに、里見家は安房を没収された。倉吉へ赴く家臣団のなかに、ふたりの名はない。



 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

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上記「里見氏大河ドラマ化実行委員会HP」において、2014年4月3日から、夢酔の小説が連載開始!毎週木曜日に更新されます。どうぞ末永く御愛顧賜りますようヨロシクお願いします。里見氏を皆さんに知って貰いたい一心での、試みです。このblog同様、御愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2014/04/12(土) 15:29:11|
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