散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見賢臣列伝】淳泰

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
でも、それだけでは納まらない魅力な人材は、まだまだいるんですよ。
本当の意味での8人を選ぶのは、皆様ひとり一人の熱い想いかも知れません……!



第九 淳泰


 里見義弘の後継者政策は、後世からみても決断力に乏しく抽象的だ。もともと後継者にと迎えた筈の、養子で弟の義継に対し、育てた足跡もよく見えていない。その甘さの中で継室に実子を為すことも甘い。
 その甘さが、後継者を曖昧にした。
 それでも、最後は実子に情が傾くのだろう。まず義継を岡本城に据えて安房を任せた。手元で薫陶せず、放任とも思える。が、義継は安房を上手に采配した。天性の才だろう。安房の国人は将来の家督相続者として、義継に心酔し信頼を寄せた。
 が、義弘は非情だった。
「義継をあらため義頼とすべし」
 これは世継ぎではなく、世継ぎを頼めという意味だ。つまり、実子・梅王丸を立てろと、義弘は決断したのである。
「左馬頭殿もご無体な」
このときより、安房衆が義弘に疑いを示し、義継あらため義頼を立てるようになった。その背景には、小弓公方派の意が込められている。先代・義堯の代に、小弓公方足利家は安房に庇護され、土着している。彼らは足利再興の希望を里見に託していた。が、義弘の継室は、その宿敵たる古河公方家の姫。
 義弘の決断には、慎重さや家中根回しという政治的な配慮に落ち度があった。
事実、上総と安房を割る雰囲気が漂い、しかもその修復を試みる義弘の叡慮が見受けられない。自身の病による焦りがあったのだろう。或いは安房上総の対立気運を軽視していたのかも知れない。
「儂が決断したからには、従って然るべし」
 そう発した言葉が素直に安房衆へ響かない理由を、義弘は探求しなかった。
 安房衆は犬掛合戦以来、義堯に心服していた。義堯は安房衆と苦労をして上総を攻め取ったのだ。しかし、義弘は若くして上総佐貫に身を置くことが多く、水軍動員以外の安房衆との交わりが浅い。
 里見の忠節は、偏に義堯への忠節。
 不覚にも、義弘はそれに気付いていなかった。

 天正六年五月二〇日、里見左馬頭義弘がこの世を去った。
「大酒故臓府やふれ候」
と妙本寺住持・日我が書き残すように、死因は中風であった。
 安房から義弘の焼香に参ずる者はなかった。この死が、里見の後継者争いの発端となる。
 当主の用いる印判が佐貫城にあり、そこに梅王丸がいるということで
「正当は上総殿(梅王丸)に候えや」
と古河系家臣団が擁立に走った。
と同時に、義頼こそ謀叛を企てていると並び立てて、過激を煽動する上総側の家臣団も現れた。義頼は小弓公方勢力や安房国内勢力の旗頭として
「このまま捨て置けば、北条の餌食となるは必定。ゆえに力で平定するもやむなし」
と、ついに挙兵せざるを得なかった。
 義頼は心を鬼にして、安房統一に踏み切った。
 天正八年四月、久留里・千本・造海の諸城を陥落し、その月末には佐貫城を陥落して、梅王丸を捕らえた。幼い梅王丸は幾重もの軍勢に囲まれて、岡本城内へ幽閉された。これにより里見の内訌は鎮まる筈であった。
 が。
 平定して間もなく、小田喜城主・正木大膳亮憲時が反旗を翻し、里見からの独立を企てた。尻の温まる間もなく出兵した義頼は、翌年、小田喜城を陥落し正木憲時を討ち滅ぼした。
 正木氏は伝説の家臣・時茂ゆかりの代々里見を支える家系であり、それの断絶を惜しんだ義頼は、次男・別当丸にその名跡を継がせた。のちの二代目・正木時茂である。この時茂は里見の眷属として、その兄・義康を支えたとされる。
 梅王丸は幽閉先で出家を条件に命存えた。
 法名を淳泰という。

 上総国琵琶首館。この要害は養老川の断崖に三方を囲まれ、西側の台地基部方向は岩盤むき出しの、城館を築くにはもってこいの場所であった。
 ここに、梅王丸こと淳泰の母と妹がいる。
 城館を築くに長けた場所は、幽閉所としても秀でていた。ここに彼女たちを幽閉したのも、すべては家督争いの末でしかない。
 琵琶首館にふたりを訊ねた者がいた。千本城主・東平喜右衛門重国である。
「御方さま。ご機嫌はいかが」
「……いいはずなど、ない」
 淳泰の母は、世の変転を呪い、すっかり心が変わってしまった。こうなってしまうからには、相当な辛酸を舐めただろう事が垣間見える。
 すべては後継者を明確に定め、家臣団を説き伏せる、そういうけじめを義弘が怠ったがゆえの悲劇と云えよう。
 義弘の死後に繰り広げられた家督争いは、小弓・古河双方の覇権争いであった。結果として、義頼がそれを制したまでである。
「喜右衛門、若はどうされておる?」
「淳泰さまは、聖山に、いまも」
「おいたわしや」
 かつての家督争いにおいて、東平重国は淳泰派であった。降伏して生き存えたが、しかし、彼がいるからこそ、淳泰の母は時折の差入れにも事欠かなかったのである。
「御方さま、世は大きく変わりそうです」
 東平重国は呟いた。
 織田信長の名前くらいは里見義弘存命の頃に聞いていたものの、本能寺での横死は、さすがに淳泰の母を驚かせた。
「家臣に欺かれるなど、日頃の行いが悪いということだの」
「さて、考えも及びませぬ」
「さもありなん、若がいい例だわ。あの子が何をしたというのか。悪いことなどしておらずとも、こうして国を奪われる。神も仏もあるものか……」
 東平重国は程なく琵琶首館を辞した。そして、造海城へと赴き、琵琶首館のことを報告した。この報せが、逐一、岡本城へ届けられるのである。東平重国は同情を装い、実は里見義頼に服していた。淳泰に殉じた者以外の生き残りし者は、こうして新しい主君の下で務めているのである。
 里見義頼は家督争いに勝利した。
 だからこそ、慎むべきを徹底し、勝者の驕りを戒めた。諍いの先には勝敗があり、敗者には未練と恨みしかのこらないことを、義頼は承知していた。
「淳泰殿を生かしても、利はなし」
 義頼を担ぐ小弓公方派は、古河公方の血を継ぐ淳泰を討つべしと繰り返した。その都度、義頼は押し留めてきた。岡本城の一角である聖山に淳泰を封じるのは、幽閉に非ず、短慮の者から守るためでもある。
 義頼はその実、淳泰の母には容赦しなかった。
 琵琶首館という牢獄に封じるのは、決して野に放さぬ証である。
 これは義頼と、淳泰の母の戦いだった。
 しかし、この戦いの終焉は早かった。
 翌天正一一年、淳泰の母は琵琶首館で変死した。淳泰の妹も同じであった。死因は不明だが
「里見の悪霊となって、今より三代を過ぎずして潰すべし」
 淳泰の母はそう云い残したと、伝えられる。

 淳泰には里見の家督を脅かす野心はなかった。それだけに、義頼は寛容に接した。時折り小弓公方派からの嫌がらせを被るばかりで、それさえ受け流してしまえば、誰もが誠実な彼を受け容れたとされる。
 
 天正一五年一〇月一五日。里見義頼は息を引き取った。病死である。
 その遺言により、家督は長男・義康が継いだ。淳泰はその後見のひとりとなった。義康の代に里見氏は館山城に移り、城下の整備に乗り出した。出家者であるが、淳泰も内政の相談に乗り、充実した時期を迎えたのである。

 天正一七年、豊臣秀吉は惣無事令に叛いた北条氏政・氏直父子に対して、宣戦布告状を突きつけた。世にいう〈小田原征伐〉である。
 淳泰は出陣にあたり、留守を守った。
 その後、里見氏は惣無事令違反の名目で安房一国に減封され、苦しい内政期を迎えるが、淳泰はこれも助けた。
 秀吉時代、里見氏は領土仕置こそ締め付けられたが、比較的厚遇な環境だったとされる。秀吉に気に入られていたこともあり、かつ、関東移転の徳川家康に接近し親密を得たためとも察する。大陸出兵の折も徳川与力の名目で、半島渡海を免じられたし、とにもかくにも家康との関係は太くなっていった。淳泰も使途僧として、江戸との往還を重ねただろうと思われる。
 太閤検地にあっては、淳泰は上方の役人を接待したことだろう。こういうことは僧籍の者が当たり障りもないからだ。
 義康時代の淳泰は、甥当主に惜しみなく尽力しただろう。
 秀吉時代、小弓公方・古河公方の婚姻融和で喜連川氏が誕生する。長年、これを庇護してきた里見氏も、肩の荷が下りた。淳泰にとっても、目の上の瘤が取れた瞬間だった。

 豊臣秀吉死後、徳川家康は挙兵した。関ヶ原合戦である。里見氏は前哨戦となる宇都宮城に据え置かれ、上杉景勝の南下に備えた。
 この出陣中も、淳泰は館山城で留守を守った。
 家康は勝利し、里見氏も加増した。何もかもこれからという矢先、里見義康が急逝した。残されたのは一〇歳の嫡子・忠義。淳泰は里見の長老として、これを後見しなければならなかった。
 しかし、里見氏の運命は衰退に向かっていた。忠義が迎えた正室の祖父は徳川幕府の重鎮・大久保忠隣。この頃の幕府は、大久保忠隣の派閥と本多正信の派閥が諍っていた。この派閥争いの結果、大久保派が敗れたのである。当然、関係のある大名も冤罪を被った。里見氏は安房を没収され、倉吉に転封という憂き目に遭うのである。

 倉吉の禄高は少なかった。家臣すべてを連れて行くことは出来ない。淳泰は出家を理由に、残留を希望した。すると、多くの者がこれに従った。食い扶持を削らねば忠義が立ち行かない。残る苦渋の選択も必要だったのだ。

 安房に残った淳泰は、里見を案じながら出家として余生を過ごした。里見忠義が遠く倉吉で病死した頃、淳泰も安房で没したという。


 彼は家督を継がぬことで、才を発揮した、稀なる人だったのかも知れない。


 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会http://satomishi.com/

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

ここで、緊急告知!
上記「里見氏大河ドラマ化実行委員会HP」において、2014年4月から、連載小説を掲載します里見氏を皆さんに知って貰いたい一心での、試みです。このblog同様、御愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/03/29(土) 06:08:42|
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