散文小径

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【里見八賢臣】加藤信景

第五 加藤信景


 里見家は義堯・義弘の時代、その領土を上総に拡大した。拡大したのみならず、上総に里見の拠点を構えるなど、戦略的に腐心している。すべては、対北条を想定してのことだった。
 里見義弘は佐貫城を拠点とし、安房を含めて領有した。自然、上総より召し抱える者も多い。
 加藤伊賀守信景もその一人だ。地域領主のひとりとして里見義弘に従い、すべてにおいて心酔し、従った。義弘という領主は、先代・義堯と比べて激しくないのだろう。恐れ平伏すというよりも、同心するという風に、家臣たちは従った。
 加藤信景は賢い人物だった。義弘の先回りをする所作で、信頼を得たところがある。この佐貫城時代、里見義弘は大きな派閥に挟まれて辟易していた。
 亡き正妻の血統で安房に庇護する小弓公方の系譜。これは安房の家臣団とも協調し、ひとつの派閥を形成していた。ただ悲しいかな、義弘はこの血統に実子を残していない。
 後に継室として迎えた古河公方の姫。この派閥は上総の家臣団と協調し、かつ、設けた実子・梅王丸を盛り立てる勢いだった。
 もともと足利一門でありながら、小弓も古河も仲違いの関係にある。自然、安房と上総の諍いの基となるは必定。旧来からの家臣団は小弓公方派を盛り立て、新参上総の家臣団は古河公方派となる。里見家は内紛ギリギリの状態といってもよい。
 加藤信景は義弘の本心をじっと読み取ることが出来た。やはり血のつながる実子に家督を譲りたい。これが人の情であり性であった。
「盛り立てます。心、安んじ給え」
 加藤信景はそう義弘に説いた。
 しかし、義弘は決断に挑めぬ優しい男だった。実子を設ける以前に後継者として養子に迎えた弟・義頼を切り捨てることが出来なかった。
 この優柔不断が、のちに安房と上総を割る内紛に繋がるのである。

 天正六年(一五七八)五月、里見義弘は没した。酒毒に冒されたともいわれる。決断に迷い、酒に逃げたのだとさえ囁かれた。
 後継者の決断は公言していない。が、家督継承の証したる印判等は佐貫にある。自然、梅王丸こそ後継者であると、古河公方派や上総家臣団は声を大にした。
 このとき梅王丸は幼少である。
 その母が実権を握るのは、世の常だ。それは古河公方の息の掛かる者が、里見家を支配することを意味する。傀儡領主を掌握し実行支配するのは、小田原北条家の手口に似ている。事実、このときの古河公方・足利義氏は、北条家の傀儡状態となっていた。すなわち里見家も北条氏に取り込まれる危険性があったのである。
 しかし、女というものは、母になることで高所対所の見方を失う。ただ梅王丸大事の執念だけで、このときも躍起になった。
 安房の家臣団は、長年にわたり北条と戦ってきた連中だ。講和は許せても、取り込まれることだけは由としない。
「後継者として御養子になられた殿を盛り立てることこそ、道理」
 こう宣言し、義頼を旗頭にして、打倒梅王丸の挙兵を行ったのである。

 加藤信景は大義名分として上総派の立場を貫いた。義弘への忠義がそうさせたとも思われるし、安房の者たちを理解していない部分も大きい。
 しかし、この内紛は長く続かなかった。
 外交能力に長ける義頼陣営は、遠く上杉景勝や佐竹義重といった大名たちと同盟を固め、遠交近攻の姿勢を布陣していくのである。このあたり、視野の狭い梅王丸の母には、遠く及ばないことだった。更にこの頃、房総では飢饉となり、その内政の目配りは明らかに義頼の措置が一枚上だった。民衆は、梅王丸支持から乖離していったのである。
 こうなると、上総衆のなかからも義頼に寝返る者が出る。
「先代の御恩を忘れる者は、不埒なり」
 梅王丸の母はそう叱責したが、流れは止まらなかった。加藤信景はこのとき、未だ上総派だった。
 この内紛の虚を突いて、小田喜の正木氏が独立の挙兵をした。義頼はたちまちこれを平定すると、その武威に気圧された者が、いよいよ安房方へと傾いた。
 加藤信景のもとに岡本氏元から誘いが届いたのは、その頃のことだろう。両名はもともと義弘の傍で働く顔見知りだった。
「殿の思惑は、梅王丸殿の助命。そのためには、母親や取り巻きから引き離し、庇護せねばならない。命を奪うことを、殿は望んでおらず」
 里見義頼の意思を信じた加藤信景は、時期を計り、有利な降伏を提言した。梅王丸の後ろ盾となって、これまで励んできた加藤信景の降伏勧告は、陣営を落胆させた。しかし、義頼の攻勢はもはや揺るぎがなかった。
「殿の一命は我が身を以て御守りいたす」
 加藤信景の必死の言葉に、とうとう佐貫城は開城した。梅王丸は岡本城域聖山に庇護され、加藤信景は開城の功で佐貫城代を任された。いわゆる戦後処理の一任である。
「普通は儂のような者は、役目を奪われるものだがな」
 能あれば降将でも適所に用いる義頼の胆力に、加藤信景は絶句した。そして、新たな里見の当主を盛り立てようと、心を新たにしたのであった。

 天正一三年、高野山西門院文書曰く。加藤信景の一子・太郎左衛門弘景は里見家伝奏役を任された。
 時代は秀吉を中心に廻ろうとしていた。
 加藤信景は義頼に仕えながら、新しい時代の流れを肌で感じていた。上総に従っていたときには感じたことのない、時代の風だ。加藤信景は急速に、老いを実感していった。
 里見義頼が急逝し、次の義康の代がくると、加藤信景は剃髪して〈伊勢入道〉と号した。この頃になると、老いからくる病さえ自覚した。
 天正一八年、小田原征伐。里見家は秀吉に従い北条討伐の挙兵に応じた。老骨に鞭打ってでも参加したいと、加藤信景は訴えた。
「若い者に任せて、そなたは命をいとえ」
 若き当主・里見義康に諭され、加藤信景はこの大動員に参加することはなかった。
「よいか、太郎左。加藤の家の手柄を立てよ」
 父に代わり出陣する加藤太郎左衛門弘景へ発する檄は、事実、悋気に満ちていた。

 こののち、加藤信景の記録が途絶える。
 程なく大往生を遂げたものだろう。





 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
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