散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見八賢臣】岡本氏元

第四 岡本氏元


 里見の岡本氏は、二系統ある。岡本城に派生する一族と、小弓公方旧臣として安房に移った一族だ。
小弓旧臣の岡本氏は、国府台合戦ののちに安房へ移り住んだ。外交に長けており、その力量が買われて里見氏が引き抜いた。代々の岡本氏は、里見氏の外交専門家臣として、上方にも及ぶ活動を展開してきた。

 第一次国府台合戦。中原の雄として台頭した小弓公方・足利義明の、最期の合戦となったものだ。この戦いに与力として参じた里見義堯は、ほぼ無傷の状態で、戦場から撤退することに成功した。足利勢が壊滅し、里見氏が無傷という状況から察するに、与力としての里見義堯は義明から敬遠されていたものだろう。結果として損耗を免れたのである。
 小弓公方軍は総大将を失い総崩れとなった。重臣・逸見山城入道祥仙は、陣中に義明の末子・頼淳が無事であることを知ると、殉死を試みる馬廻り衆を叱責し
「かくなるうえは、若様をなんとしても生かせ!小弓公方家を絶やすことこそ、最大の不忠と知るがよい」
と諭した。まだ周囲には無事な将兵がいる。
「無駄死にはするな。退き陣じゃ、一人でも多く退いて、こののちは若様を盛り立てよ!」
 祥仙の叫びに、混乱していた小弓公方勢は息を合わせながら撤退を開始した。傍らにいる一族の逸見八郎へ、祥仙は叫んだ。
「儂の分まで御曹司を盛り立てよ。皆には済まぬが、儂だけが御所に準じるとする」
「祥仙様」
「いざとなれば里見を頼るのだ。里見はしたたかにして思慮深い者と見定めたり。里見のもとで御家再興を果たすべし!」
 そう云い残して、逸見山城入道祥仙は槍を振り回しながら敵陣深くへと突き進んだ。
 里見勢のあざやかな引き際とは対照的に、その後の小弓公方勢は惨めなものであった。小弓城へ続々と入城する敗残の兵たちの凄惨な様に、城内の者たちは顔を背けた。間もなく佐々木源四郎や逸見八郎等に抱えられるように、足利頼淳が戻ってきた。
「御所様は討死になされた」
 その言葉に、城内は絶望感で溢れた。
このまま籠城できるかという不安が誰の胸にもあった。
「ここは里見に頼るより他なし」
という逸見八郎の言葉に、異を唱える者はいなかった。
 こののち小弓公方家の面々は、安房へ逃れた。里見義堯はこれを庇護し、宮本城に一時は匿われた。やがて石堂寺周辺に足利頼淳は居を構え、側役がそれに従った。側役以外の者たちは、自然と、能力を買われて里見氏に仕官していく。岡本但馬入道元悦は外交能力を認められ、義堯に引き立てられた。
 岡本兵部少輔氏元は、元悦の子である。

 里見氏の外交は、義堯の代までは小さなものであった。北条や千葉といった近接する敵対関係しかなかったこともあり、遠交近攻という高度な政策が執れなかったのである。
 義堯・義弘父子の時代、関東は巨大な勢力による、三国志にも似た様相を示した。小田原の北条氏と盟約しながら関東進出を企てる甲斐の武田氏、これらと敵対しながら旧来の秩序回復を目指す越後の長尾氏。この三大勢力が、しばしば激突する時代を迎えたのだ。
 北条に対する協調者として、里見義堯・義弘は、長尾景虎との同盟を望んだ。その交渉役に尽力したのが、岡本但馬入道元悦である。
 永禄三年(一五六〇)、長尾景虎は関東管領上杉憲政を旗頭として、関東への遠征を開始した。そして、長駆、北条氏の居城である小田原城を包囲したのである。この陣中、里見勢も長尾勢に同陣した。
「岡本入道ほどの者、頼りといたすべし」
 長尾景虎の名代として、太田資正が里見義弘に語りかけた。義弘にとっても、鼻の高い出来事だった。
 小田原遠征の際、長尾景虎は鎌倉鶴岡八幡宮に参内した。ここで一大儀式を挙行するためである。
 関東管領上杉憲政は長尾景虎を養子とし、その権威を譲渡するつもりだった。つまり、関東管領就任式典を、古式に則り、鎌倉で執り行うのである。小田原に参じた関東の諸将は、その儀式を謁見する栄誉を賜ったのだ。
 里見勢もその例に洩れない。義弘は反北条の旗頭となる、新たな関東管領の誕生に、胸を躍らせたことだろう。
 長尾景虎はこのときを以て、名を上杉政虎と改めた。のちの上杉謙信である。
 里見氏と越後上杉氏との間には、反北条の強い絆が設けられた。のちにこれを〈房越同盟〉という。この上杉外交の中核となったのが、岡本但馬入道元悦、そして、子の岡本兵部少輔氏元だった。

 永禄六年(一五六三)閏一二月五日。武田勢と連携する北条勢は、このとき連合軍を仕立てて、利根川を越えて上州金山を囲んだ。金山城主・横瀬成繁は厩橋城まで使いの乱波を走らせた。
「北条とは、居留守を窺う、泥棒猫の如き輩なり」
上杉謙信は憤怒した。関東出陣を上州へ沙汰すると同時に、小泉城の富岡重朝および岩附城の太田資正に
「金山城への牽制の動きを取るよう」
と命じた。これらが動き出した一九日、上杉勢は越山し、厩橋城に布陣した。
「南敵(北条氏)の枝葉を絶やすはこの時なり。関左長久安全の基であるゆえ、出陣を要請するものなり」
この打診に応えるべく、里見義弘は太田資正との綿密な連携を求めた。ただちに安房・上総に陣触れがなされ、佐貫城へ軍勢が招集されたのである。
 太田資正を主将とし、連合の形で里見義弘が国府台に陣を張ったのは、程なくのことである。永禄七年(一五六四)正月。北条氏康・氏政との間に、第二次国府台合戦が火蓋を切った。
 上杉勢は下野方面の戦局が芳しくない。そのため、思うような動きが取れなかった。このとき、国府台の局地戦に背後から攻め入る予定が、見事に狂ってしまったのである。第一回のときは無傷の里見勢も、二度目の国府台では大きな損耗を招いた。
 岡本兵部少輔氏元にとって、試練の季節は、このときの敗戦から三年ほどだろう。三船山合戦で里見氏は失地を回復し、ようやく上杉外交が軌道に乗り始めたときに、ひとつの事件が起きた。なんと、上杉謙信が北条氏政と和睦してしまったのである。
「上杉には失望した」
 義弘は激しく怒りを露わとした。
 このとき里見が庇護していた宗教団体が、日蓮宗だ。安房は日蓮生誕の地であり、その総本山は身延にある。その宗教を通じたネットワークにより、北条と手切れになった武田信玄の存在が浮き彫りになった。
 義弘は岡本氏元を招くと
「甲斐に赴き盟約を固めて参れ」
と命じた。房越同盟時には敵国だった甲斐である。うまくいく保証はない。しかし、岡本氏元は甲斐に乗り込んだ。折衝に応じたのは、武田御親類衆の穴山信君や、譜代の土屋昌続だった。甲斐もまた、このとき西を目指していた。背後の北条を抑える盟約者を欲していたのである。
 岡本兵部少輔氏元の努力により、対等の房甲同盟が結ばれたのは、それから間もなくのことだった。上杉と北条が断絶するのは、その後のことである。房越同盟は復活するが、甲斐との関係はその後も良好のままであった。

 天正五年(一五七七)、江戸湾を巡り、里見と北条の攻防は苛烈化していた。
 既に武田信玄も北条氏康もこの世にはなく、里見義弘も病弱だった。この時期、義弘は内政をまとめるために北条との和睦を願っていた。
 ここでも岡本兵部少輔氏元が尽力した。
 一二月、房相同盟が約され、海上の攻防戦が静謐を迎えた。里見家は後継者選びの内紛が囁かれていたが、翌年、次代を定めることもなく里見義弘は没した。
 岡本兵部少輔氏元は里見の中枢に身を置きながらも、早い時期から、次期後継者は安房の義頼と見込んでいた。そのため内乱時には義頼陣営に駆けつけていた。
 里見家は義頼を中心にした時代を迎えた。岡本氏元一族は、その外交の中核を担い、やがて天正一〇年を迎える。この年、甲斐武田家は滅亡し、織田信長が本能寺で斃れた。世の中は関東だけで計れない時代となり、何事も情報の中心にあったのは、京であり畿内だった。
 義頼が強く求めたのは、情報だった。
 その情報将校としての役割を発揮したのが、岡本兵部少輔氏元だった。徳川家康か、羽柴秀吉か。究極の二択に際し
「羽柴を」
と推挙した氏元の慧眼は、実績に基づく決断といえよう。徳川に傾倒した北条は、やがて孤立の道を歩み、秀吉によって滅ぼされる運命にあった。

 畿内との巧みな外交により、里見家を長らえたのは、氏元とその一族だった。この一族は里見氏が改易される時代まで、外交の柱石として支えたといわれる。





 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
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 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/02/23(日) 06:58:44|
  2. 書き下ろし作品
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

越相同盟について

コメントを失礼しますm(__)m

謙信公について言い訳させて下さい。
越相同盟を結ばざるを得なかったのは訳があります。
関東菅領は鎌倉公坊の補佐役を兼ねており、摘男・足利藤氏を追い出して、北条氏康の孫でもある四男(三男とも)・足利義氏に公坊を継がせようとする北条とのいく何かの戦いの末、北条に摘男・藤氏様を殺されて、やむなく義氏さまを鎌倉公坊に認めざるをえなくなったのです。
もちろん謙信公の一存で決められる訳もなく、直属の君主・足利義輝や、鎌倉公坊の足利晴氏のご意見や当時の規則などに応じたのです。

上杉家は、公式に認められた資料も沢山残っています。しかし、細かい間違いがあったならすみません。
が、大体の謙信公の意向をご理解下さいm(__)m

失礼しました。
  1. 2014/02/23(日) 09:21:17 |
  2. URL |
  3. 越後の領民 #KVSV0Bf2
  4. [ 編集 ]

No title

>越後の領民さま

コメントありがとうございます。
当時の関東の様相、大国である武田・北条・上杉の事情や、その底辺にある在地豪族たちの状況は承知しているつもりです。その「誰か」の立場で、事情は不都合にも受け取られることがございます。今回は里見氏の視点に置き換え、大局とは異なる在地の主張を軸とさせて頂きました。
歴史とはひとつの物事が、観ようによって受け取り方が変わってしまう、実に珍奇で奥深いものですね。
  1. 2014/02/23(日) 10:58:06 |
  2. URL |
  3. 夢酔藤山 #Gq//HHxQ
  4. [ 編集 ]

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