散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見八賢臣】岡本安泰

第三 岡本安泰


 里見の家臣として、岡本氏の存在は大きい。安房の有力氏族として、聖山を中心に勢力を奮ったと云われる。その居城である岡本城は、海の城である。太房岬に包まれるように、城の前面は湾を為して、戦国水軍基地としての一面が想像できるのである。
 この岡本城は、ある時期より、里見の居城となった。城主だった岡本氏は快く譲り、城将として変わりのない精勤に励んだという。
 このような城の明け渡しも、珍しい。通常は、その替え地を宛がい、加増で慰撫するものである。その痕跡が、資料として残っていない。岡本氏は、誇りを持って、城将に降格してもなお、この城に愛着を持ち続けたのかも知れない。
 里見の岡本氏は、二系統ある。岡本城に派生するこの一族と、小弓公方旧臣として安房に移った一族だ。
小弓旧臣の岡本氏は外交に長けていたという。そのため、代々里見氏の外交専門家臣として、上方にも及ぶ活動を展開してきた。
 岡本城の岡本氏は、どちらかといえば土豪であり、在地領主という、地の家臣である。里見氏にいつ頃から仕えたものか定かではないが、前期里見氏の頃から被官となっていたことは想像に易い。
 この前期里見氏が倒され、後期里見氏が統治する転換期となったのが〈犬掛合戦〉だが、岡本氏はこのとき、いち早く先を見越していたと思われる。以来、里見氏の活躍を支える一翼に、岡本氏がいたのである。

 岡本安泰の時代、里見氏の当主は義弘であり、この時代、安房と上総が内乱期であった。
 里見義弘は最愛の正室を失ってのち、弟・義頼を養子に迎えて、ゆくゆくは後継者にと考えていた。子のない義弘にとって、まっとうな判断である。しかし、後添えを迎えて子を為した頃から、風向きがおかしくなったのである。
 このときに、岡本城へ義頼が留め置かれた。身辺から遠ざけられたとも、考えられなくもない。義弘夫婦と実子は、居を佐貫に置いている。安房へ義頼を追うのは、誰の目にも尋常ならざる事態だった。
「太郎(義頼)殿が世継ぎとなることは、定められたこと。安房の衆は、殿の理不尽を承服いたしかねる」
 小弓公方の系譜は安房に匿われており、彼らは一様に義頼を推して義弘を非難した。この系譜の岡本氏も、義弘の傍にあって、これに同調した。無論、岡本城の岡本氏も、である。なんといっても、岡本安泰は城将として、義頼にもっとも近い位置にいる。これを盛り立てるのも、道理といえた。
 里見家の後継者問題は、このような安房の勢いもあってか、義弘は決断の意を示すことを嫌った。そして、酒に逃げるようになった。実子に継がせたくとも、養子に筋道を立てた以上は道理が立たず。
「構うことはございません。血の繋がりし御子が跡目を継ぐことに、なんの憚りがございましょう」
 上総の家臣団は、安房に反発して左様に唆す。ますます決断が鈍る一方だ。
 そして、里見義弘は後継者を定めきることもないまま、天正六年(一五七八)五月、酒が原因で病没した。義弘は優しすぎた人物なのだろう。どちらかを立てれば、片方が立たず。その感情の矛先となることが、堪えられなかったに違いない。
 が、この死によって、安房と上総が、二つに割れることとなった。安房からは誰も弔問に来なかったともいわれ、後継者を争って、武力以外に頼る方法はなかった。
 内乱はおよそ二年余。制したのは安房派であった。このときより岡本城は里見家当主の居城となり、義頼を中心に支配を行っていくこととなる。
「御館様」
 岡本安泰は義頼をみた。
「虜囚はいつ斬りますか?」
「虜囚ではないぞ」
「敵の総大将にて」
「まだ年端のいかぬ子供じゃ」
 上総勢の旗頭となった義弘の遺児・梅王丸を、義頼は岡本城域の聖山に監禁していた。少なくとも安房勢はそう見ていたのだが、義頼は思いの外、情けをかけていたことに、岡本安泰は歯がゆさを覚えていたのだ。
「あのな、監禁でも幽閉でもないぞ。庇護じゃからな」
「上総勢が取り戻しにくるから、ですか?」
「それもあるがな、安房の者たちが狼藉しかねないからな。儂は血の繋がらぬ弟を殺めるつもりは毛頭ない。いまは、刻を置かねば済まぬこともある」
 のちに梅王丸は幼くして剃髪出家し、淳泰と号する。淳泰は生涯を里見家のために尽くした。

 里見義頼は岡本安泰の人間臭い一挙一動をこよなく愛で、よく用いたと思われる。
 やがて、時代そのものも、大きく動いた。
 甲斐の武田氏が滅亡して三ヶ月、織田信長が本能寺で斃れた。その信長を討った明智光秀を、中国大返しで羽柴秀吉が制した。天下そのものが混沌としていた。
 その頃、里見家は江戸湾を挟んだ北条氏と睨み合っていた。表向きの和議など、役にも立たぬ。内房の水軍は、常に三浦半島に向いていたし、いつ号令があっても応じることが出来た。
 岡本安泰は義頼の嫡子・太郎の世話をすることが多かった。元々この城は岡本安泰のものだ、近在の立地に秀でるからには、世話役となるのも道理といえた。岡本安泰にも子があり、最近、出仕が許された。子の名前は頼元。この出仕に伴い、岡本安泰は随縁斎と号し剃髪した。
 天正一四年(一五八六)、里見義頼は病を理由に、僅か一〇歳の太郎義康に家督を譲った。そして翌年、義頼はこの世を去った。
 若い当主を支えようと、誰もが発憤した。
 しかし、若者は、時として緊張感のない行動に奔ってしまう。その日、岡本頼元は城の見回りをしていた。 秋の夜長、月は青々と映えて岡本城から見る江戸湾を照らす。
「よい月じゃ。酒でも呑みたいものよ」
 戯れている間はよかったが、ついつい一杯ならと欲が出て、とうとう頼元は深酒をしてしまったのである。
 すっかり寝入ってしまった頼元にとって、この日は不幸な事件が起きてしまった。賄い所で不注意の失火を出したことに、気がつかなかったのである。気付いたときは既に遅く、城内の一郭が焼失してしまったのである。
 岡本城焼失の一件は、極めて大きな失態となった。主立った家臣団は岡本城へ参集し、岡本頼元に対し今度のことを強く糾弾した。
「左京亮(頼元)よ、酒を飲んでいたこと、お役の自覚がないにも程がある」
「腹を斬らせるべし」
 そう詰られても仕方のないことだった。
 しかし、義康は家臣の命をこのようなことで奪う愚かな仕置を嫌った。
「左京亮、いい月であったか?」
 場違いな明るい声で、義康は訊ねた。蒼白で狼狽える岡本頼元は、一瞬呆気にとられ、小声で応えた。
「腹など斬らぬでよい。月に免じて一命は保つべし。されど、お役の合間に楽しんだ分、罰は受けねばならぬぞ」
 義康は出仕停止を即断した。
「恐れながら、これでは余りに軽い処分。城を焼いた責務は、一死を以て……」
 諫言する正木淡路守時盛をやんわり制して、義康は岡本城賄い方の女房がひとり、失火より行方知れずの件を質した。
「あれは他国の間者よ。いま当家に騒動を起こして得をするは、誰か?」
「それは、北条……」
 そういいかけて、正木淡路守時盛は口を噤んだ。
「そういうことだ。女ひとり、まんまと江戸湾を逃れられたとしたら、内房水軍の淡路守とて、面目もなかろうが?」
「はあ」
「左京亮にも迂闊があったが、あたら家臣ひとりを失いとうはない」
 そういって、義康は微笑んだ。
 このことで一番慌てふためいたのは、当人よりも、父・岡本安泰だろう。
「死を逃れて安堵している場合ではない。このうえは一刻も早くお許しを頂戴し、御家のために励むことこそ、御館に報いる道ぞ」
 岡本安泰は、一日もはやく息子が再出仕できるよう、鶴谷八幡宮に祈願をしたという。

 この人間くさい岡本安泰は、里見義康という器の大きな若い当主に愛されながら、記録にはないが往生を遂げたものと想像できる。


 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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  1. 2014/02/19(水) 05:43:57|
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