散文小径

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【里見八賢臣】堀江頼忠

第二 堀江頼忠(後編)

 安房召上げおよび鹿島減封の沙汰は、館山城へも速やかに伝わった。
 留守を任されている堀江能登守頼忠は、大家老として、この青天の霹靂を現実として享受し、領内に具体的な指示を行う大任を負ったことになる。
「納得できぬ」
 強行派は大騒ぎした。
 もともと武断派として、山本清七や里見揚安斎を中心につくられた派閥が、真っ先に声を挙げ、いっそ一戦に及ぶべしと息巻いた。
 堀江頼忠は丸腰で彼らの前に立ち
「御館は江戸の掌中、御身に何があっても蜂起する不忠者がいるというのか!」
と質した。
 不満はある。誰にも、不満はある。その不満を晴らす決起と引換えに、もし当主が殺されでもしたら、それは家臣として最大の罪である。堀江頼忠の言葉に、首謀者たちは項垂れた。
「能登殿は……納得できるのか?」
 奮える拳を堪えながら、薦野甚五郎頼俊が呟いた。
 堀江頼忠とて、決して同意などできるものではない。
「御館は恐らく家臣を案じて承服しよう。その心に応えることこそ第一。私心は捨てる」
 頼忠の言葉に、蜂起は回避された。
 とりわけ主君を江戸の人質とされている以上、里見家臣団は恭順せざるを得ない。
 この間、幕府は正式な城明け渡しの使者として、佐貫城主・内藤政長と大多喜城主・本多忠朝にその任を命じた。大久保派の冤罪であることは両名にも理解できた。これは、理不尽な減封である。場合によっては激しい抵抗もある。そう考えた両名は、不測の事態に備えて戦さ支度を急がせた。
 館山城内は大騒ぎだった。
「いまは大家老の采配に、皆々従うしかなかろうて。神妙に承るべし」
 混乱する城内に向けて、印東采女佐房一が檄を飛ばした。大家老の山本清七と堀江頼忠の言葉に、一同は耳を傾け凝視した。転封は、断じて納得いくものではなかった。はっきり云って、これは云い掛かり以外の何物でもない。
 里見家は大久保派。
 これは、本多派からの報復というよりない。
 堀江頼忠は幕府に従うよう、切々と訴えた。
「斯くなる上は、城を枕に幕府へ抵抗すべし」
 里見揚安斎が呻いた。
「それこそ幕府の思うところなり」
 堀江能登守頼忠が反論した。
「減封は手心である。これに応じなければ、里見家改易は必定!」
 改易という言葉の重みは大きい。
 城内のいたるところで、啜り泣く声が満ち溢れた。
「無念」
 ただただ、その言葉以外に例えるものはない。
 こうして、家臣団は黙々と、各自荷造りするため屋敷へと去っていった。
 館山城に幕府からの追加伝令が駆けつけたのは、翌日のことである。城受取りの及び破却の使者として、内藤政長・本多忠朝が軍勢を率いて来るとの報せに、城内はざわめいた。
 内藤政長・本多忠朝の出立は、九月一三日のことである。
 血気に逸り武力を用いぬよう、堀江頼忠は領内に檄を発した。蛮勇は一時のこと、それで全てを損なうことに繋がる。恭順の徹底を、頼忠は繰り返し叫んだ。
 すべては、江戸の忠義のためである。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと悪態を吐き、暇乞いを申告してきた。その申し出には口減らしの覚悟が滲んでいて、誰もが重くそれを噛み締めていた。新しい安房の領主は徳川の臣下だろうことは察しがつく。残る者にとって、安易なことはあり得ないのだ。
 里見家から去るも地獄、残るも地獄。
 安房の商人衆は、大半が残留する道を選択した。口減らしは多く、そして早い方がいい。商人を代表して、岩崎与次右衛門が館山城を訪れた。
「鹿島では商いの旨味がございませぬ。里見との御縁も、ここまでということで」
応じる堀江能登守頼忠は、その憎まれ口の心底を悟り、黙ってこれに応じた。引き留められることを嫌い、殊更嫌味を口にする与次右衛門である。里見家と寄り添い発展してきた彼は、どんなに辛い立場だったろうか。
 同じように、海将の多くが禄を捨て、浪人の道を選んだ。鹿島では水軍も役には立たぬ。どこかに仕官を探すしかない。移転を嫌い、このまま土着帰農する道を選ぶ者もいた。
次々と、人が去っていった。
 名のない兵卒の大半は農民や漁民である。里見家では兵農分離の余力がなく、従って彼らは鹿島での新生活を望んではいない。
 しかし、現実は実に厳しい。その程度では、口減らしにもならないのだ。こののち困窮することは、必至である。
 鹿島は関ヶ原の論功で加増された土地で、馴染みが薄い。また、旧来鹿島で暮らす者たちにとって、里見氏はやはり余所者である。これまで堀江頼忠を介し、鹿島領を丸く治めてきたとはいえ、やはり疎遠感はあるだろう。
 減封移転が知らされた日、堀江頼忠は鈴木対馬入道を鹿島へ派遣し、領地分配の下調べを命じた。鹿島出身である彼をおいて、適任者はいない。他にも上野七左衛門が補佐役に差し向けられた。
 鹿島移封にあたり、堀江頼忠の手際は実に鮮やかといってよい。外房水軍を鷹ノ島へ回航させ、館山城内に留め置く忠義正室・丸姫の荷をはじめ、多くの大荷物をこれに搭載し、先発で鹿島へと送り込んでいる。人よりも先に荷が動けば、自然と諦めも享受できよう。
 これに引き摺られるように、やがて、里見家臣たちは鹿島へと動きはじめた。
 九月一五日。館山城明渡しの受領役を務める内藤政長・本多忠朝が、安房国に入った。
「抵抗は、ないのう」
 軍勢を率いるのは、それを警戒してのことだった。しかし、激しい抵抗とは裏腹に、内房の里見水軍は早々のうちに武装解除を表明してきた。里見家中家老・正木淡路守は頭を垂れて、勝山城にて内藤政長・本多忠朝を迎え、恭順の態度を示している。その姿勢には、無益な戦さを回避したいという切実さが溢れていた。
 一六日、軍勢は館山城を包囲した。
 戦国武将として知られた里見氏は、意外な程に無抵抗だった。
「安房より鹿島への減封を謹んでお受け申し上げます。何卒、江戸に留め置かれる御館の御身をお返しあれ」
 重臣を代表して、堀江能登守頼忠が口上した。
「上意である」
 本多忠朝は懐より書状を掲げ、ゆっくりと広げていった。
「館山城を没収し、破却すべし。破却は徳川の手で行い、里見の臣下は鹿島領への転居を急ぐべし」
 悔しさは拭えないが、誰にも異存はなかった。
「謹んでお受けします」
 堀江頼忠の震える声が、重臣一同の一致した無念を表していた。

 九月二〇日。
 江戸からの早馬が書状をもたらした。それを一瞥した内藤政長は、傍らの本多忠朝にそれを渡した。 
「このこと、まことであるか?」
 本多忠朝は声を失った。
 早馬の使者が去ると、あらためて両名は書状を読み、それが幕府の真意であることを確認した。
「惨いことよ。いっそ里見家に、同情さえ禁じ得ない」
 その中身を里見重臣に伝えることが、辛いと、内藤政長は呻いた。しかし、このままにしてはおけない。
「恭順した者も、これでは叛意に奔る恐れあり。軍勢を整えておこう」
 そういって、本多忠朝は速やかに下知を飛ばした。
 この日、里見重臣を代表して、堀江能登守頼忠・山本清七・板倉牛洗斎が陣所に呼ばれた。三人は内藤政長の言葉に、言葉を失った。
「鹿島転封を改め替地を沙汰する」
 その替地は、無縁の遠国だ。
「倉吉ですと?」
 穏和な表情を失った堀江頼忠が、噛みつくように理由を質した。その答えは、悲惨なものだった。
「里見安房侍従は鹿島行きを拒んだ。よって伯耆国倉吉に、鹿島の替地を宛がうものなり」
 里見忠義が鹿島行きに難色を示したのは事実だ。しかし、改易を恐れて、むしろ恭順に徹してきたのである。この真逆の理由こそ、本多派の描いた大久保派取り潰しの意趣返しに他ならない。
 鹿島行きの取りやめと倉吉移封、しかも、三万石から四千石の更なる減封。この事実は、里見家臣団を動揺させた。既に荷駄を搬送した者もおり、混乱する輩すらいた。
 堀江頼忠は急いで山本清七・板倉牛洗斎・印東采女佐房一と、一門衆の薦野神五郎頼俊および淳泰を集めて、このことを告げた。
「とにかく、鹿島のことは白紙となった。混乱を収拾し、倉吉へ行く者、禄を離れる者をよくよく吟味せねばなるまい。倉吉は異境。無理強いは出来ない……」
 山本清七の振り絞るような呻き声が、ここにいる全ての代弁だった。

 慶応一九年(一六一四)一〇月一日。徳川家康は大坂城攻めの陣触れを諸国に発した。三日遅れて、徳川秀忠が幕府将軍として、陣触れを発した。このとき、里見忠義は大久保屋敷でそれを聞いた。もはやこれに出兵し、汚名を挽回する術もない。

 安房から倉吉へ行くことを決めた家臣団が、江戸里見屋敷へ到着したのは、その一〇月二四日のことである。安房からの家臣団は、忠義が軟禁されている大久保屋敷へ赴いた。幕府の留守居代官は大広間にて対面することを許した。
 代官同席のもと、主従は対面した。
 およそ二ヶ月ぶりのことだが、なんと長きに感じたことだろうか。この間に起きた出来事が、夢のようであった。
「我が不徳であった」
 里見忠義の第一声である。
 江戸まできた家臣団は、安房を棄てて里見家を支える一念の者ばかりである。厳選された者たちと云えば聞こえがいいが、殆どの家臣団は、里見より墳墓の地を選んだのである。それは里見以前から安房に根を下ろしてきた者たちにとって、選択肢のない苦渋の選択といえよう。
 それを責める資格など、忠義にはなかった。
 この月、里見忠義は倉吉への旅路に就いた。師走の暮れ、里見忠義一行は倉吉へと辿り着いた。鉛色の空が否応なしに憂鬱にさせたのは、云うまでもない。

 慶長一九年(一六一四)師走大晦日。伯耆国倉吉は雪のなかである。温暖な安房では比べものにならぬ積雪に、里見安房守忠義は言葉も出なかった。これは、安房で生まれ育った家臣団も同様のことである。伝承によれば、里見家一行が最初に草鞋を脱いだ先は、伯耆国倉吉神坂大岳院門前とされるが、諸説もある。
 前途を憂うより、生きていく信念を抱いた者……それは、恐らく正木時茂と堀江頼忠の二人だと思われる。
「まずは御家を建て直すことこそ大事なり」
 二人の共通認識は、自分のことよりも里見家再興にあった。私心のない者ほど、強いものはない。打ち拉がれていた家臣団も、二人に引き摺られるように立ち直ろうと足掻いていた。
 我が為す術を如何にすべきか、里見忠義は堀江頼忠に質した。
「新たな国造りに求めるは公徳、人が集いて報徳、これを以て豊穣なり」
「公徳か」
「先ずは公の志をもち、領民に慕われる当主となるのです。断じて私心あるべからず。御館の志、家臣一同で支えましょう。民を富ませてこその領主です。幕府に御館の力、思い知らせてやるのです」
「あいわかった」
 忠義は笑ったが、それが精一杯の痩せ我慢であることは、口にこそしないが皆が承知していた。新しい土地の民政に疎いからと、里見忠義は自らの足で、屋敷の周りを供もなく歩くようになった。今となっては、なによりも領内の地形を周知することが先決であった。
 自然、大岳院へ足繁く通ったのは、道理といえよう。
 倉吉四千石には、幕府の直轄領が多分に含まれていた。すなわち徴収は幕府の代官を経由し、そして残りが忠義に渡される筋書きである。当然、多くが差し引かれて、手元に届くのが高く見積もってもせいぜい四千両だった。名ばかりの大名、これでは国の経営も儘ならぬ有様だ。が、このことは、もはやどうすることも出来ない。

 雪の溶け始めた頃、里見忠義もようやく領内を自由に動けるようになっていた。この越冬で学んだことは、暖を取るための準備が必要ということだった。
 山陰では、越冬が至難である。薪がなくなり、壁板や障子を燃やして過ごしたことを、ゆめゆめ忘れてはならない。
「領内を廻り、そのときに各々薪木を拾うよう心懸けましょう。毎日少しずつ貯めていけば、次の冬までに間に合います」
 堀江頼忠の提案に、皆は頷いた。
 みっともないと云ってはいられない厳しい現実を、誰もが一様に噛み締めている。そうしなくては、生き残れないのだ。それは、厳しい冬を知らない温暖な国の人々が学んだ、過酷な現実であった。

 伯耆国で里見氏の所領とされる倉吉四千石の引継ぎ役を任じられていた幕府代官・山田五郎兵衛直時のもとへ、密書が届いたのは、四月半ばのことである。大坂での決戦が近いことや、里見の動きに不穏はないか、連絡を密にするよう細々とした指示が、そこに記されていた。
 幕府は、里見家を潰したがっている。山田直時はそう感じていた。得にもならぬ嫌がらせとも云えよう。幸い、外地との往来の事実は一切ない。このうえは同情路線でいこうと、山田五郎兵衛直時は考えていた。
 里見忠義は恭順さえ貫けば、きっと東国に戻れると信じ、ひたすら大岳院へ参詣する日々を続けていた。安房でなくとも、関東のどこかに帰る日はきっとくる。信仰の支えはただひとつ、望郷の一念であった。

 慶長二〇年五月八日、大坂城は陥落し、豊臣氏は滅亡した。豊家滅亡により、徳川の天下は定まった。大坂の大乱ののち、七月一三日を以て年号が〈元和〉と改元された。これをして、幕府は諸国に〈元和偃武〉と触れた。応仁の乱以来、長く続いた戦国が終了した事を意味する。
 すべての戦さの終わり。新しい時代の、宣言であった。

 元和元年(一六一五)七月、伯耆国倉吉は猛暑のなかにある。
 安房の乾いた風と異なり、どこか蒸すような心地がすると、里見安房守忠義は思った。
「早く東国に帰りたい」
 これは忠義のみならず、家臣団すべての総意だった。もうすぐ、あの冬が来る。その前に蓄えることが、家臣たちの急務だった。身分を問わず、いまは誰もが畑に入り、山に踏入り、百姓と懇を交えた。そのため農の身分からも、多くの者が里見の家来になりたいと申し出てきた。これは嬉しいことだ。土地に明るい者を召し抱えることは珍しいことではない。
「目立つ動きは、くれぐれも」
 堀江能登守頼忠は同意しつつも、常に幕府の目が光っていることを忘れぬよう、忠義に具申した。正木大膳亮時茂も同感だと頷いた。
 幕府は朱子学を奨励し、『管子』でいうところの
「士農工商四民、国の礎」
を身分制度として確立していく方針である。大坂の戦乱終息のこのとき、身分制度の徹底はまだ末端にまで行き届いていなかった。が、元和偃武のいまこそ、それらは徹底されることだろう。
「新たな国造りに求めるは公徳、人が集いて報徳、これを以て豊穣なり」
 堀江頼忠の言葉を、里見忠義は忘れていない。むしろ徹しようと努めた。
「先ずは公の志をもち領民に慕われる当主となるべし。断じて私心あるべからず。構えて我が意思と為すべし」
 里見忠義は微禄もしくは据置きを条件でよいという農の者を召し抱えた。つまり、常は生産者たれという意味である。この条件では立身などありえない。それでも数名の者が名乗り出たのは驚きだった。
 公徳を以て国を司ること、堀江頼忠の言葉は抽象的だ。そのため講義を余儀なくされるのだが、多忙な頼忠には厳しいことである。そのため大岳院住持・秀山可春に講義を託すこととなった。
「人が生きていくうえで大切といわれている八つの道徳的規範がござる。公徳を以て民を慈しむ御館なれば、このこと、よくよく胸に刻まれたし」
 よく解らぬと云う忠義の言葉に、秀山可春は微笑みながら根気よく言葉で説いた。
「慈しみ、思いやり、礼に基づく自己抑制と他者への思いやり。これを以て仁なり」
 他にも義・礼・智・忠・信・孝・梯、いわゆる〈仁義八行〉を秀山可春は説いた。
 季節は巡る。九月二日、倉吉に幕府の使いが来た。招集を沙汰されたのは、正木時茂一人だ。これが、時茂と忠義の今生の別れとなる。

 駿府に軟禁された正木時茂に登城が命じられたのは、翌年三月暮れのことである。家康は憔悴しているものの、それでも毅然と、時茂に対峙した。
「その方、駿府に留まりて、一家を興す機はないか?」
 家康の申し出に、時茂は首を振った。
「その方の名で里見家を再興するべし。治世に向く者は、安房守ではなく、その方と考えておった」
「恐れながら、それがしは御館を支えし役目の者にて、一家を興すことなど道理が立ちませぬ」
家康は書付を一瞥しながら、里見忠義が如何に過ごしているか、その報せを時茂に促した。
「仁義八行、公徳を心に刻み私心を捨て、民のために報いることが、いまの御館の志にござります」
「仁義八行だと?」
 家康は首を傾げた。傍らの本多正純をみると、彼も首を横に振った。林羅山の説く朱子学は、智・仁・勇の〈三徳〉である。これは『論語』にある言葉で
「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」
という、儒教が説く三つの徳を意味する。
「それは、いかなるものか?」
 家康は語尾を荒げた。
「されば、仁・義・礼・智・忠・信・孝・梯。八つの道徳を以て公の志を抱き、私心を廃して報いる治世を、御館はお望みです」
「知らぬな。上総介(本多正純)、どうか?」
「大御所の御奨励せし儒教のこと、そこには三徳も五徳もござる。仁義八行などとは、聞いたこともござりません」
 正木時茂は黙ったままだ。
 この日、家康は時茂を帰したが、こののち、林羅山よりもたらされた仁義八行の意を知り、怒声を張り上げた。
「道春(林羅山の号)めが、〈仁義八行〉の意を申した。不愉快な話である」
「不愉快とは?」
 本多正純が首を傾げた。
「儂が朱子学を奨励するのは、徳目を明確にしつつも懲罰を断定できる理ゆえじゃ。幕府にとって都合がよい、それゆえの採用である」
「はい」
「然るに朱子学にとって、三徳五常が守れぬ者を懲罰に値せぬ言葉もあり。自己研鑽のみならず自他研鑽の意味を持つものこそ、仁義八行だというのじゃ」
「よく解りません」
「懲罰の否定よ。この教えは、幕府にとって不都合極まりない」
 徳川の理念よりも上位の真理、これは幕府の否定にもつながる。家康が怒るのも、無理はない。
 三日後、再び家康は正木時茂に駿府分家を質した。答えに、変わりはない。
「正木大膳亮、強情な奴め!」
 家康は時茂を下がらせると、江戸へ一筆したためた。
「我が死ののちは、時茂を江戸に留めるべし。断じて倉吉に返すことなかれ」
 その遺訓を、秀忠は遵守した。

 元和二年四月一七日、徳川家康が駿府城にて大往生を遂げた。享年七五歳。この死を以て、江戸・駿府の二元政治が終了し、天下の采配は、徳川秀忠一手に委ねられることとなる。
「駿府の大御所が亡くなってから、恩赦で帰れるものと期待しておった。なのに、事態は少しも好転せぬ。なんとしたことか」
 家臣たちの呟きにも、忠義は笑って頷くばかりだ。倉吉へきたばかりのときに比べれば、謙虚になったものだと、堀江能登守頼忠は幾度となく頷いた。
 以前の忠義なら、ひたすら天を呪い、きっと徳川を罵倒するばかりだろう。
 現在の堀江頼忠は、正木時茂不在の穴を埋めるに足る尽力により、忠義から里見姓をも許されている。それは、里見家中でも破格の厚遇だが、その滅私奉公ぶりは痛々しく、家中誰もが妬む者もない。

 元和三年(一六一七)一月半ば。伯耆国倉吉は雪のなかにある。正月明けに、江戸から急使が来て以来、里見家では誰もが湯鬱を隠せないでいた。播州姫路城の池田宮内少輔忠雄が、兄・利隆早世を受けて遺領を相続するらしい。そして、倉吉を含む鳥取藩三二万五千石を、利隆の嫡男・新太郎が采配するというのだ。
 これまで紛いなりにも独立国だった倉吉は、池田鳥取藩の下に置かれることとなる。さりとて主従の関係になるわけではなく、政は池田家の代官が預かり、里見家は実権を奪われるのであった。
「惨い」
 里見忠義は憤慨した。
 さりとて、いまの里見家に何が出来ようか。仁義八行という思想が原因と解らぬ忠義である、運命を受け容れる以外に術はない。
 その試練は、さっそく訪れた。神坂の里見忠義屋敷を、長槍を担いだ池田家の小隊が囲んだのである。無勢の忠義は、この申し出に応じるしかなかった。たちまち槍先に囲まれ、忠義は屋敷の外へと叩き出された。騒ぎを聞きつけ里見家臣団が駆けつけたときは既に遅く、忠義は槍に囲まれて門へ追われるところであった。
「残念ながら、里見家には軍勢と呼べる力がございません。池田家の態度を見定めるまでは、じっとするよりございますまい」
 遅れて大岳院に駆けつけた堀江頼忠は、里見家主従に進言した。
替え着もないまま放り出された忠義のため、頼忠は色々と衣類を掻き集めてきた。綿入りを羽織って、忠義はようやく心地が就いたように、大きく息を吐いた。
「このような無法は堪え難い。いっそ討ち入って皆で斬り死にしようか」
 忠義の一言に、頼忠は一喝した。〈仁義八行〉をめざす者、死というものを軽々しく口にしてはならぬ、そう諫める頼忠の目に、忠義は萎縮した。
 堀江頼忠はねばり強い交渉を繰り返し、落ち着く先として、田中村の簡素な屋敷を池田家より確保した。
 この年九月初頭、堀江能登守頼忠は大量に吐血した。
「隠していたか?」
 忠義は、頼忠を質した。恐らくこれまでも吐血したに違いない。病躯を隠してきた頼忠を、忠義は責めた。
「儂が床に伏せば、池田家との駆引きは儘なりませぬ」
 その言葉に、誰もが項垂れるのであった。頼忠が一切の舵取りを一任していただけに、今後のことが不安であった。忠義はただちに頼忠の抱えることを分担させた。そして、その実績ひとつひとつの重みに、家臣団は戦慄した。
「なぜ、家老一人でこれほどの重みを背負ったものか」
 震える声で、黒川権右衛門が呟いた。
 医者のいない倉吉では、治す術がない。頼忠は死ぬ直前まで愚直に務めることで、生きた足跡を遺す道を選択したのだ。
 忠義は大声を上げて泣き伏した。
「仁義八行とは申せ、能登ひとりに重荷を負わせたことが悔やまれる」
 忠義は心から後悔した。
 堀江能登守頼忠は病床に伏して僅か数日で、変相の様を露呈し、忠義は愕然となった。
「もともとこんなものです。口に綿を含んで、痩せたことを謀ってきただけのこと」
 力なく、堀江頼忠が笑った。
「なぜ、命を削ってまで……逃げ出してもよかったのだぞ?」
 詰るように忠義が呻いた。その濡れた拳を、そっと包むように握り締めながら
「関東へ帰るのなら、みな一緒がいい」
 堀江頼忠の言葉に、忠義は涙を落とした。
「御館、臆することなかれ」
 心を見透かしたように、堀江頼忠は、明瞭な言葉で訴えた。
「能登守は天より定められた務めを全うしたのだと、満足しておりますぞ」
「能登!」
「臆して立ち止まることこそ、我を犬死にとすることにて。御館はもう言葉で諭さずとも、充分解っておられることでしょう」
 里見忠義は嗚咽を繰り返すばかりだった。
「こののちは見舞い無用。我に割く刻を、惜しみなく臣下に与え給え。家臣団の支えが明るく太いことこそ、大事なことなのです」
 忠義は、大きく二度、頷いた。

 元和三年九月一二日、堀江能登守頼忠は二度と起きあがることなく、この世を去った。


 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


     ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ 

maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/02/12(水) 20:03:21|
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