散文小径

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【里見八賢臣】堀江頼忠

第二 堀江頼忠(前編)


 戦国時代、家臣は主君より一字を拝領することを譽とした。里見家でも、歴代当主が、その諱より一字を与えて忠孝を望んだ。このことは、里見家に限らず、全国の戦国武将に見受けられた共通の掌握術である。一字を賜った家臣は、主君の覚え目出度いことを誇りに励んだことだろう。
 里見家晩期に命を磨り減らし精勤した賢臣がいた。
 堀江能登守頼忠。
 その名から察し、一字を与えたのは、里見義頼だろう。彼は元来、正木宗家の臣下だった。天正争乱の折、義頼に叛いた正木憲時を見限り功を成した。以来、義頼の近従となり、やがては義康付となった。
 しかし、義頼の時代、堀江頼忠の功績は表に出てこない。期待の新参という意味で、義頼が可愛がっていたのかも知れないが、その非凡なる才覚は、次の代より次第に開花する。

 義頼は病で早世する。次の当主は、齢一五の義康である。義康は持ち前の陽性な気質で、思い切った改革を断行した。その最たるものが、館山開発である。砦ほどのものはあったものの、これまで江戸湾に向いた拠点は岡本城だった。この城は軍事に適していたが、平治には不向きな立地が否めない。これまで不自由がなかったのは、江戸湾が、北条との係争の地だったからである。
 この時代、上方では豊臣秀吉が天下統一を急いでいた。里見家もいち早く臣下の礼を取っている。このため〈惣無事令〉が下され、秀吉の許可なき戦さが困難になっていた。
 内政を富ます工夫が要求されたのである。
 天正一七年七月、義康は竣工を急ぐ館山城下を巡検した。着工しておよそ四年、城域と湾にいたる城下町の整備は、このときほぼ完了したといってよい。このとき義康は、岩崎与次右衛門・石井丹右衛門等商人衆を伴い、鷹ノ島の港湾も巡検している。
「このところ、伊豆・相模の湾が、極めて取締が厳しいものにて」
 石井丹右衛門の情報は、北条の戦意を洞察させる。向こうは出荷規制をしながら、それでも買付は高値でも仕入れるという話だ。
「商人には厳しい話だが、暫く北条領へ出入りせぬよう」
 ぼそりと義康は呟いた。
「今の時期ならでは、の出荷もございます。せめて抜け荷もなりませんか?」
 岩崎与次右衛門は小声で伺った。
「関白の乱波がこのことを見ていよう。詰まらぬ云い掛かりを被るのは迷惑千万。相模へ廻す荷は、江尻へ売るがよい」
「江尻ですか?」
「徳川家こそ、物入りになると思われようが?」
 その意味を、岩崎与次右衛門は洞察した。戦さは、既に始まっているに等しい。
「よろしいか?」
「承知しました」
 やがて、一〇月、〈名胡桃事件〉が生じる。
 秀吉は諸国に〈小田原征伐〉を号令した。

 天正一八年三月。岡本城に里見の諸将が招集された。惣無事軍令に応じるための、軍議であった。
「久留里城方面は、動きはどうか?」
 正木弥九郎時茂は佐貫城代・加藤太郎左衛門弘景に戦況を伺った。義康実弟である時茂は、細かいところに気がつく。
「千葉も小田原へ兵を取られたものか、御館の撤収後は攻め込む様子もございません」
 加藤弘景の答えに、義康は頷いた。
「伊賀入道がよくしておるからに相違ない。太郎左衛門もよき父を持ったのう」
「勿体なき御言葉」
 加藤弘景は深く頭を下げた。
「山本備中守にも引続き上総への備え崩さぬよう、申しつけるよう。よいな、太郎左衛門」
「しかと承りました」
 そして、義康は水軍の諸将をみた。
 里見水軍の中核を担うのが、勝浦城主・正木左近大夫頼忠、造海城主・正木淡路守時盛のふたりである。
「堀江能登守」
 義康は堀江能登守頼忠を促した。応と答え、堀江頼忠は房総半島の図面を拡げた。
「海賊衆は兵を三方へ運んで貰いたい」
 まず義康は士気城と東金城を指した。
ここは千葉方の士気城主・酒井伯耆守康治と、東金城主・酒井左衛門佐政辰の勢力圏である。両名ともに城主は小田原城へ出仕し、その留守は番兵が預かっていた。
「まず一隊を士気城へ差し向ける。富田郷を押さえれば、酒井勢は兵糧に窮する。出来るなら血を流さずに降伏させたい」
 その攻め手の総大将は正木時茂が任じられ、拠点を一宮城と定めた。
「弥九郎(正木時茂)は派手に小田喜から北上し、一宮へ入城せよ。敵の気を引きつけることが必要にて、これを陽動の意と心得よ」
「はい」
「頼むぞ、弥九郎」
 時茂は嬉しそうに頷いた。直々に義康から頼むと云われることが、心から嬉しいのだ。小田喜正木家の名跡を継いだ重責を、この兄は理解してくれる。若すぎる里見家当主に皆が心服するように、若すぎる正木家当主にも家臣が従った。それは同じ重責だ。頼むという言葉は、重責を超えた信頼の証でもある。
「次に内房の海賊衆は、千葉家を攻める兵力を運ぶべし」
 図面を指した場所は、下総国船橋郷。
 船橋郷は千葉氏家老・原一族の家臣・高城胤則の領地である。先の酒井伯耆守康治・酒井左衛門佐政辰同様、小金城もまた、留守家臣のみである。
「下総ではな、千葉に原・原に高城・両酒井などという、風刺の狂歌があるらしい。その支えとなる家臣ことごとくを小田原に取られては、千葉も仕舞いよ」
「して、もう一隊は?」
 水軍を擁した三方作戦の残り一隊はどこか、図面の前で堀江能登守頼忠が呟いた。
「そう急くな。もうひとつは関白殿下に応じるものなり」
 そういって、里見義康は三浦半島を指した。
「野比村、ここに上陸し鎌倉を目指す」
「恐れながら、海路小田原へ向かう方が、早いのでは?」
 薦野甚五郎頼俊が怪訝そうに訊ねた。
「増田右衛門少尉殿からの書状によると、小田原へは西国の軍勢二二万が揃うとある。海は西国の船舶で埋め尽くされて、とても上陸など出来まいよ」
 成る程と、薦野頼俊は柏手を打った。
「して、三浦へは誰が?」
 堀江頼忠が間髪入れずに差し挟んだ。話が横道に逸れないよう、軍議を采配してくれる優秀な家臣である。
「三浦は里見の主力、すなわち儂と岡本城の兵力すべて、そして安房の城主ことごとくじゃ。勝山の水軍は兵站を支えるため、我らを野比村へ下ろしたあとは先に和賀江島(鎌倉)にて待機せよ」
「畏れ入りました。見事な布陣です」
 堀江頼忠が呟くと、誰もが同様に唱えた。
 先発として上総方面軍が動いたのは四月二日、このとき秀吉は箱根湯本に達していた。富田郷の布陣は二〇日。そして三浦方面は、一三日上陸した。

 里見家にとって不幸なことがある。
 この三浦半島上陸にあたり、制札を立てたことである。のちにこのことが、秀吉により
「私闘」
とみなされる。即ち〈惣無事令〉の違反、であった。

 五月、笠懸山天守閣には秀吉並びに豊臣秀次・徳川家康・織田信雄・石田三成・増田長盛等が揃い、秀吉の傍らに茶々の方が控えた。長陣に退屈した秀吉が、わざわざ淀から呼び寄せたのである。
 控える里見義康は神妙ながら、胸中に不安を抱えていた。そして、その不安は的中した。
「安房守に由々しき軍規違反、これあり」
 豊臣秀次が、沙汰状を読み上げた。
 義康は微動だにすることなく、ただ一言、承ると呟いた。
「ひとつ、御禁制を勝手に為したること、不届き千万。禁制は関白の許しなく行うべからず、それを犯しておる」
 秀次はどこから調べ上げたものか、四月七日付の船橋郷の禁制をはじめ、三浦半島上陸時の野比村・長沢村・津久井村の制札、四月二〇日の山武郷光明寺の制札の事実を読み上げた。
 その事実を、義康は認めた。
「いまひとつある。勝手に闘争したる罪である。覚えがあろう?」
 上総侵攻だろう。しかしそれは、小田原参陣のための出陣だ。義康は否定した。
「関白の断りもなしに勝手な戦さをしたる者、これ惣無事令に背きし大罪なり」
「我に、他意はなし。ただただ関白殿下への忠勤あるのみ」
 そう云いきった義康は、存分にと胸を張った。
「相判った」
 このとき秀吉が断じた言葉は、過酷なものであった。
「里見安房守の所領のうち上総領を召し上げるものなり。安房国のことは追って沙汰する。下がるがいい」
 義康は耳を疑った。
 上総領は、里見全領のほぼ半分である。
「暫く……!」
「以上、詮議を終える」
 義康は身動き出来なかった。
 上総南領の多くは、一族や有力家臣に委ねてきた。その領地が失われるということは、安房の家臣に与えた知行を削り、不足と承知で、引き上げてくる者等へそれを与えねばならない。家中が乱れ、それを理由に、今度は里見家が取り潰されるかも知れない。
 上総に展開する各方面軍は、里見家の存亡の瀬戸際を知ると、おとなしく義康に従う道を選んだ。上総領内の里見勢がすべて引き上げたのは七月中旬。里見の治世を恋みる者は、百姓漁師を問うことなく、その移転に従った。
 このとき、館山城へ拠点を移すことが決定した。岡本城下では家臣の屋敷割が困難だからだ。小田原征伐ののち、堀江頼忠は義康に従い、家臣たちの安房受け容れに奔走する。

 慶長三年八月一八日。従一位(贈正一位)前関白太政大臣・豊臣秀吉、死去。享年六三歳。一己の天下人の死により、世は大きく動く。
 里見義康は江戸に居を置く徳川家康に附いた。
 慶長五年、関ヶ原の戦い。里見家は結城秀康に附いて宇都宮で上杉景勝に備えた。この功績で、戦後、鹿島三万石が加増される。

 慶長八年、里見義康が急逝した。
 後継者・忠義は僅か一〇歳。後見人は正木時茂、補佐役は里見左京亮・板倉牛洗斎・堀江能登守頼忠・黒川甲斐入道が承ると表明された。
 慶長九年(一六〇四)正月、里見忠義は後見人・補佐役ともども江戸へ賀詞に赴いた。忠義は許嫁として、徳川家臣の宿老・大久保忠隣の孫が決定していた。徳川の世で、里見家の行く末は安泰かに見えた。

 慶長九年五月、堀江頼忠は新たに加増された鹿島領支配の奉行人として、鹿島神宮をはじめとする寺社の寄進等を進めていた。堀江頼忠は内政外交を上方から学んだ。ゆえに義康も重く登用した。当然、忠義も彼を頼みとしていたのは云うまでもない。

 慶長一二年、幕府将軍を辞した徳川家康は大御所となり駿府に居を構える。江戸と駿府、二元政治という複雑な状況が、徳川家に派閥を生み出していく。それは否応なしに、里見家に厄災となって降りかかることとなる。

 慶長一八年、大久保長安事件が起きる。
 徳川の二大派閥、大久保家と本多家の対立の渦中にいた男の死により、均衡が崩れた。傲り者と揶揄された長安の、生前の不正が本多派によって摘発された。結果として、大久保忠隣をはじめ姻戚や懇意の者も、次々と連座で改易となった。
 里見忠義の妻は、忠隣の孫娘。この例から逃れることは適わなかった。
 慶長一九年、里見忠義は江戸に召し出された。 九月六日の昼、忠義は大久保忠職の屋敷にて待機するよう幕府の沙汰を得た。忠義は疑いもなく屋敷に入り、明日の沙汰を待った。
 しかし、二日経っても音信がない。
 結局、何の音沙汰もなく、九日の朝を迎えた。この日になって、ようやく訪れた幕府の使者が延べた言葉に、里見忠義は耳を疑った。
「上意により安房国を召し上げ、常陸鹿島領三万石へ減封にて候」
 里見忠義はどう考えていいものか、混乱する脳裏のなかで、これが大久保長安事件の余波であることを、次第に理解していった。



 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


     ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ 

maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/02/11(火) 18:02:52|
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