散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

シリーズ・里見家のおんなたち 12

里見家に生を受けた女。
里見家に嫁いだ女。
円満な者も、不遇な者も、女たちの数だけ笑いもあれば涙もあったことでしょう。そんな里見家のおんなたちは、おおよそ、実名の残されていない者が多かったのです。院号または通り名で後世に伝えられる女性の逸話を、ひととき一緒に語りましょう。


 里見義康の側室。
 きっと、いたはずです。
 と、申すのは、小田原陣ののち、諸大名は豊臣秀吉のもとへ、妻子を人質に出しているのです。当時の秀吉は京・聚楽第におりました。天正19年(1591)12月に秀吉は豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥・秀次(姉・日秀の子、当時23歳)に譲っています。だから、その間に諸大名は妻子を京へ送り込んでいるのです。

 里見義康がこのとき妻子を上洛させている形跡が記録から見受けられます。
 天正18年(1590)9月、義康の妻子が人質として一足先に上洛した際、義康の御ふくろ様(龍雲院)がこれを拒んだとされています。この時点で、義康には妻子がいたことを知ることが出来ます。
 嫡男・忠義の誕生は文禄3年(1594)のことです。天正18年9月は小田原役終息の2ヵ月後、恐らく正室との婚姻はまだありません。
 とすれば、婚姻前に女性にお手付けし、一子を為していることになります。
 二次資料によればこの子は女子。もし男子なら、忠義誕生により何かしら足跡が残される筈です。しかし、それが見受けられません。

 一説によれば、このお手付きされた女性は、正木左一右衛門頼定の娘とされます。龍雲院付の奥勤めをしていたのかも知れませんね。

 肝心の話として、この妻子。
 どういう末路か、皆目見当がつきません。
 

                  ◆     ◆     ◆



 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!
 宛先は、ポスターのとおりです。

ポスター

里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)国史跡指定記念―シンポジウム
「関東戦国史のなかの里見氏」と祝賀のつどい―


下記の「里見氏城跡シンポ」というファイルに、
「0227 案内チラシ:里見氏城跡国史跡指定の記念」
「里見氏城跡「国史跡」シンポ・祝賀会案内状(挨拶文)」
「国史跡つどい返信ハガキ」
「国史跡記念のつどい参加返信FAX」
「記念のつどい・郵便振替用紙」
の、5種類の書類がアップしてありますので、ご利用ください。
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-3cwv2wfiuh32cvdru3iad3wwoe-1001&uniqid=2d7aa5b6-f45f-4466-a3cc-791790f941d0
(引用blog「福井功@まちづくりプロデューサーのブログ」)




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  1. 2012/03/24(土) 09:05:35|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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