散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

高野山1200年便乗コラム⑤

 2015年、開創1200年の高野山。
 房州日日新聞で連載されている「夏の波濤」前半は、豊臣秀吉の時代を描いています。織田信長に代わり、一気に時代を駆け上った、一己の麒麟児であり寵児ともいえる天下人です。この天下人は、旧主・織田信長のやり残した事業を成し遂げていくのですが、そのひとつが高野山仕置でした。その同盟勢力である根来寺の寺社勢力の中核が〈雑賀衆〉。信長を苦しめた本願寺一向衆に加勢し、鉄砲でその名を馳せました。秀吉と家康が直接武力衝突をした唯一の一戦が〈小牧・長久手合戦〉、このとき秀吉の背後を脅かしたのが雑賀衆でした。
 秀吉の根来征伐は容赦のないものだったと伝えられます。圧倒的な物量の前に、根来寺は屈しました。その直後、秀吉は高野山に降伏を促します。高野山側は受け入れざるを得なかったそうです。
 
 この畿内抗争の頃、里見家は北条との駆引きをしつつ、上総進出の機会を窺っていました。海商の情報から、秀吉のことは耳に入っていたでしょう。西門院からの情報もあったかも知れません。
 この頃でしょうか。里見義頼は羽柴秀吉との縁を結ぶよう、行動を起こしています。

 豊臣秀吉が高野山に登ったのは、文禄二年(一五九三)のこと。このとき建立されたのが、青巌寺です。その隣に建立されたのが興山寺。この寺は秀吉に降伏交渉を行った木食応其により建てられました。この青巌寺・興山寺の二つを合併し、明治以降にここを〈金剛峰寺〉と改めたのです。現代の金剛峰寺は、まさにここです。しかし金剛峰寺はこれまでも称されていました。高野山全体をして、金剛峰寺と称していたのです。DSC00063.jpg                         ここが青巌寺と呼ばれていた頃、ひとつの出来事がありました。
 関白秀次切腹です。
 秀吉の甥にあたる豊臣秀次は、人倫甚だ卑しく〈殺生関白〉と蔑まれる程で、遂に秀吉の逆鱗に触れ、青巌寺へ蟄居させられたというのです。そして切腹を命じられ、果てたとされます。秀次切腹の間が残されています。ここを〈柳の間〉といいます。
 豊臣秀次は本当に非人道的な人物だったのでしょうか。
 恐らくは違うと思います。
 これは常々夢酔が提唱する
「勝者・為政者の都合よい歴史」
の純粋な犠牲者だろうと考えています。たいがい非業の最期を迎えた人物で体制にそぐわない人物は、総じて悪逆非道が誇張されています。誇張されればされる程、体制に抹殺された人物といっても過言ではない。
 里見義康はたびたび上洛して、秀次とも面識はあっただろうと思われます。
 この切腹が豊臣家の命運を縮める要因になったことは、間違いない。秀吉の縁者である男子は、秀次が没したことで誕生したばかりの秀頼だけとなります。秀吉死後の豊臣政権は、この切腹で土台が崩れ去ったといえるでしょう。
 得したのは、やはり徳川家康だった。

 里見家はこの頃から、徳川家と緊密になっています。家康の懐柔策だろうと思いますが、秀吉死後、関ケ原において里見義康は宇都宮城で結城秀康に従い上杉景勝に備えた功で加増を得ました。おかげで江戸幕府開設当初は、関東最大の外様大名となります。


 話は変わりますが、皆さんは高野豆腐好きですか?
 その製法は、冬期に豆腐を屋外に放置してしまったことからという偶然説だそうですが、豆腐って、屋外に放置しておくものなのか、突っ込んではいけない部分はスルー。いわゆる凍り豆腐ですね。
 こうや豆腐普及委員会なるものを発見しました。
 ここ。  
      http://www.kouya-tofu.com/
 インターネットでは色々な調理法が紹介されていますね。精進料理の和洋折衷を楽しめます。
 高野豆腐はおよそ800年前の鎌倉時代に高野山の僧侶たちの手によって作られたそうです。精進料理として食べていた豆腐が冬季に凍り、翌朝それを溶かして食べてみたところ、美味しい食感に変わっていたということらしい。動物性食品を禁じつつ、厳しい修行と勉学に明け暮れる僧侶たちを支えたのが、この高野豆腐なのです。
 夢酔も行ったときに買ってきましたが、お土産としてこれほど喜ばれたものはなかったです。あと、高野くんのマーク入りお菓子も喜ばれた。1200年イベント中は、お土産屋さんも大忙しですね。









戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
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  1. 2015/06/25(木) 20:34:06|
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安房2015年6月

高野山に縋ってばかりではいけないので、たまには足を使ってカキコしよう。

2015年6月20日(土)、連載作品の打ち合わせや四方山で、安房国へ赴きました。150620_060812.jpg                  昨日までの雨が嘘のように、穏やかです。いまの季節、朝の4時には明るいのですね。いちばんの東京湾フェリーで金谷港へ向かいます。

今日は、「夏の波濤」で挿絵をお願いしている山鹿先生のところへ向かいますが、その前に、このblogでも散々おんぶにだっこしていることもあり、妙音院さんで大師様詣で。150620_081625.jpg           朝が早いので、御住職にはお声を掛けませんでしたが、帰宅後、きちんとメールで挨拶をしておきました!
さてさて、3月1日のblogにありましたように、本当はこのときに山鹿先生の手に取って貰いたかったモノがございました。遅ればせながら、持ってきました。
150620_074959.jpg                                                                                    本とか原稿じゃありませんよ。
この袋のなかにあるものです。夢酔の愛用品です。高野山にも持参した、コレ141031_130224.jpg                                                             鉄扇です。
これはだいたい1㌔くらいの目方です。運動不足なので、丁度いい。そして、ちょっとした護身にもなります。だから外歩きするときは、袋に入れているんです。特に銃刀法には引っかかりませんが、危ないものには違いありません。
この鉄扇と脇差しが、おおよそ似た重さになります。
この重量感を知るのと知らぬとでは、絵を描くときに気分が変わるでしょう。本当は、3月のときに持たせたかった。
単純に、忘れ物しただけなんです。3月じゃ扇子を持ち歩きませんからね。
こういうことも含めて、山鹿先生とのお話は、単純に事務的なやりとりだけではないことが多い。むしろこういう雑談から、作品の相互理解を確認することばかりです。
いつも、思います。
みんなにも聞かせたいような、いい話が出たりする。対談トークだったら、秀逸なことだなぁって、いつも思います
今度、ギャラリートークショー、したいですね……山鹿先生

本日のメインデイッシュがこの確認だとしたら、当然寄り道もあるのが、夢酔なりけり。
せっかく安房まで足を伸ばしたのだから、里見会長の声くらいは聞いておくのが仁義というもの。電話してみたら、北条海岸におられるとのこと。さっそく行ってみたら、そこは「立教大学キャンプストア」の準備中の場所。ここで、里見氏大河ドラマ化実行委員会とコラボレーションを企画しているそうで、里見会長と山口幹事長が打ち合わせしていたようです。ちょこっとだけ、夢酔もお邪魔しました。学生さんは無限の可能性を秘めているので、2015年の素敵な夏を演出してくださいね~若いってスバラシイ
お昼、山口幹事長と御一緒しました。
こないだテレビで観た、渚の駅たてやまの2階。以前きたときは、まだ改装中だったので、楽しみにしていたんです。150620_123121.jpg150620_123804.jpg                                                                    メニューにないけど、オススメして頂いたので、シラスの二色丼ウメー!
みんなも一度は食べにおいで~渚の駅たてやま

山口幹事長と別れて、館山市立博物館のある館山城へ。
今日みたいな日は、お城が映えるね。150620_130948.jpg                                                                                          ほらっ
今日は岡田館長にお会いできませんでした。残念。

もうひとつの御用があったので、急ぎ房州日日新聞社へ。
先日、記者さんから、枇杷を送ってもらいました。夢酔生息地では、このような大きな枇杷は高級品、スーパーでは買えません。嫁はんから、きちんと御礼をしておくよう命じられてたので、キチンとお返ししました。
先月に房日新聞に載っていた記事が、菜の花餃子。
相川精肉店というところの商品です。房州きよっぱちというところで冷凍のものを買いました。菜の花メンチなるものも。一個、あつあつのメンチを頂きましたが、美味しいです。
150620_140759.jpg                                                                        まだの方は、お試しあれ。イカメンチの次に、来るかなと、期待しています。

もう、すっかり夏の準備も整った感じの南房総へ、皆さま足をお運び下さい。
そして、房日新聞の連載小説を目にしたときは、ぜひこのblogにご感想をお願いします。










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高野山1200年便乗コラム④

 2015年、開創1200年の高野山。
 こないだ、「夏の波濤」で挿絵を描いてくださる山鹿公珠先生から
「なんか機会があれば高野山行きたいんだけど」
とお電話を頂戴しました。個人的に足を伸ばすのは、関東者には凄くキツイです。去年、館山市文化財協会に同伴した際はバスでしたが、1日仕事でしたものね。後から合流くださった堂本前千葉県知事は関空から乗り継いでお出でになられた様子。まあ、遠いから、それはそれで高野詣とはありがたいものなのでしょうけどね。
 今年はどこも予約でいっぱいかな。団体でないと難しいでしょうね。
 山鹿先生、あきらめずに祈りましょう!

 織田信長が為したことのひとつが、比叡山焼討ち。高野山は焼かれずに済みましたが、蜜月だったのでしょうか?どうやら、そうではなかったようです。
 天正八年、信長に反旗を翻した荒木村重の残党は、根来寺や高野山宗徒と結託し〈高野大衆一揆〉を結成したのです。荒木残党は高野山に逃げ込む、信長側は引渡しを要求する、高野山側はこれを拒否。
 なんとなく、比叡山の法則に似ていませんか?
 あっちは浅井・朝倉の兵力が比叡山に籠もり、勧告を拒否したから信長は焼討ちを実行に移したわけです。薄っぺらい反仏教徒理論ではなく、合理的にぶっ飛んだ行動を起こしたというのが、比叡山焼討ちなのですね。高野山側では、ほんの一〇年程前に行われたこの事実を、十分に認識していたと思います。彼らは、絶対、信長なら平然と「何事か」をやりかねないと思っていたことでしょう。
 天正八年から約一年半もの間、織田信長の周辺は慌し過ぎました。
 結果的にこれが高野山に幸いしたようです。
 当時、織田の重臣たちは方面軍として四方へ配置されていました。信長自身も武田討伐や毛利征伐遠征準備をしています。強大な武力を背景に、高野山が圧力に屈するのを待っていたのかも知れません。よく信長は短気といわれますが、実は根気よい武将です。ただし行動に転ずれば迅速なだけで、一切の迷いの片鱗も見せません。高野山にも人材がいたでしょう、この気長な時期に、じっくりと交渉を重ねて、御山の焼討ち回避を試みたと想像するべきです。
 しかし、この緊張関係は、あっという間に解決してしまいました。
 天正一〇年六月二日。
 織田信長はこの世を去りました。〈本能寺の変〉です。幸か不幸か、高野山は壊滅を逃れることが出来ました。
 こういう部分は、小説にしたら面白いかも知れませんね。夢酔が高野山近在に住して、なおかつ近隣の地形に熟知していたら、きっと創作を交えて作品にしていたかも知れないな……残念。
 
 来年の大河ドラマの影響でしょうか。大阪あたりでは幸村で町興しの兆しを感じています。当然、高野山でも九度山から集客する流れを組んでいるんじゃないでしょうか。
DSC00071.jpg
 このあたりはネームバリューの強い真田を感じますね。
 同じ配流なのに、里見家は粛々という印象を受けます。まあ、倉吉という土地柄、ギラギラした雰囲気を感じませんから、仕方がないし比べるのも筋違いですけど。
 高野山に直接的な里見家の足跡をみつけることは、実に困難です。
 古文書のなかに、ときどき西門院とのやり取りを見出しますが、そのときに然るべき人物が往還の使者を務めていると思います。その人物の特定や、逸話のようなもの、それらは全く読み取れません。
 ひとつ、具体的な足跡があります。


   急度令啓達候、仍疾仁茂可有御登山候処、
   至昨今抑留被申候意趣者、
   大勢院第三年之弔、於此方雖致之候、
   同高野山仁卒都婆一本被立度念望候、
   其供養為御布施、黄金拾枚渡御申候、
   路次中御大儀候得共、頼入之由、
   自拙夫両人委細可申届段、被申付之間、
   以連判申達候、如何様来春御下向之時分、以貴面可申達候、
   恐々謹言、
                   加藤太郎左衛門尉
                          弘景(花押)
    九月十五日       黒川甲斐入道
                          弘重(花押)
       西門院
          御同宿中


 これは天正一七年の文書です。加藤太郎左衛門尉弘景と黒川甲斐入道弘重という二人の人物が名を連ねておりますが、両名は高野山西門院との取次役なのでしょうね。大勢院こと里見義頼の供養をほのめかす文面ですが、現在の高野山に里見義頼の墓所らしきものはございません。
 墓所を高野山に置く武将の場合、肖像画も併せて奉納するケースがあります。御影というか、供養の一端として納めるのか、そういうこともあるのです。だから、この文書を読む限り、里見義頼の肖像画も納めたりしなかったのかなと思わずにいられません。
 有名な武将や高名な人物の肖像画、よく収蔵先をご注視下さい。実は、高野山に納められているものが多いのです。例えば、成慶院には武田信玄・武田勝頼夫婦と信勝、持明院には浅井長政・お市の方、金剛峰寺(旧青巌寺)には豊臣秀吉、等々。一二〇〇年の歴史がある高野山、実はまだ世に出ていない肖像画などがあるのかも知れない。でも、それを本気になって調査しようにも、膨大な量の品があって、とてもではないけど何かを特定するような調べ事は無理らしい。
 里見家の人間は、実は誰一人とも肖像画がありません。
 房総の各所に木像くらいなら収蔵されているけど、殆どは後世の作品だし、その衣装も烏帽子杓子なものばかり。当時を表わすものはどこにも感じられません。だから、以前、妙音院の福岡住職に
「高野山に眠ってませんかね、肖像画」
なんて聞いてみました。
「あるかも知れません。否定はしません。でも、探そうと思っても、それを特定することは、非常に難しいです」
「(ある)かも、ですか」
「いつか何かのついでで、ひょっこり出てくる機会があれば、いいんですが」
 高野山には様々な物心が積み重なっているのですね。
 少なくとも、この四〇〇年間、もしあったとしても里見家は隠れ続けてしまいました。こののち、いつまで〈かくれんぼ〉を続けるのでしょう。
 もういいかい?
 まぁだだよ……。DSCF2783.jpg







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  1. 2015/06/14(日) 06:06:03|
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高野山1200年便乗コラム③

 2015年、開創1200年の高野山。
 奥之院の墓石群は、まさに高野山の聖域の証。弘法大師伝説の源流といっても過言ではありません。
 むかし、青年誌で「孔雀王」という漫画を読んだとき、高野聖はみんな術で火を吹いたり突風を起こしたり出来るものなどという勘違いをして、人から笑われたことがありました。密教という世界観を、漫画で読み取ることはいけないと痛感しております。
あれは、娯楽でした!
鵜呑みにして、すみません(汗)!

弘法大師空海は、今もなお、生きて世の安寧を祈り続けておられるそうです。そのため日に二度の食事が献上されるのです。維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が、毎日午前六時と午前一〇時三〇分に食事を運ぶのです。これは千年以上続く大切な日課だったのですね。大変なお務めだと思います。このあたり、何かのテレビで観た気がしますが、食材さえ精進なものなら和洋折衷あらゆるメニューだったかなと。それこそ見た目はファミレスでおなじみなメニューなのに、肉を用いないんですよね。そう、どこから見てもハンバーグランチなのに、肉じゃない。唐揚げなのに肉じゃない。こういうことを考案し形にしていく調理人は、ツライでしょうか。それとも楽しいのでしょうか。とにかく想像と工夫を毎日描くクリエイターですよね。
昨年、光明院で相伴した膳も、たしかに肉を用いておりませんでした。でも、山間の宿で普通に馳走になるものと遜色のない印象でしたね。ちゃんと般若湯も戴けましたし♪
そのときは全く為っておらず、今をして反省しているところですが、精進料理にはちゃんとした御作法がございます。堅苦しいことではなく、基本的な心得、自分が生かされていることを思い感謝の気持で頂戴するということです。そして、沢庵を一枚残す。この沢庵で食器の汚れを落とし、その際に用いた白湯はすべて飲み干し、最後に一枚の沢庵を食する。こうすることで食器を洗う手間を省くとともに、お米一粒に至るまで無駄にしない。
あ~~~~~~~~!やってませんでした、反省!
空海の入滅は八三五年三月二一日。
食事の献上は千年を超える大切な務め。
畏れ入ることだと思いませんか?
DSC00046.jpg

 高野山は云わずと知れた女人禁制の聖地。今でこそ、老若男女がケーブルカーで労なく参ずることが適いますが、明治三九年までは女人禁制だったのです。そもそも空海自身、その禁制に従い、麓の九度山にいる母親のもとを通った。御山に入れず麓に留めたところに、空海自身が律する姿勢を垣間見る思いです。
 今でこそ九度山と聞けば、多くの歴女は
「真田!」
と答えるのでしょうが、そもそも九度山という地名も空海が月に九度も母親のもとへ通ったという所以の地名です。歴女の皆さん、九度山は真田だけではございませんよ。








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高野山1200年便乗コラム②

 2015年、開創1200年の高野山。
 関係されている僧侶やその家族も、大忙しのメモリアルイヤーだと拝察します。夢酔がご懇意にさせて頂いております館山の高野山妙音院の福岡住職におかれましては、きっと目が廻るような毎日ではと思います。
PA020353.jpg
 夢酔が福岡住職とご懇意にさせて頂いたのは、もう4年も前。はじめてお話しさせて頂いたのは、2011年10月1日の南総里見まつり後に開催された、全国里見一族交流会総会懇親会の酒席でした。そのときはよくお話ししなかったけど、翌日に妙音院を訪れたときに、確か梨をお土産に貰ったんですよね。
 以来、なかなかお会いする機会がございませんでしたが、昨年はたっぷりお世話になりました。
 10月18日の里見供養式典。
 http://musuitouzan.blog.fc2.com/blog-entry-145.html
 10月30~31日の高野山。
 http://musuitouzan.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
 そして今年の3月1日、妙音院ご訪問。
 http://musuitouzan.blog.fc2.com/blog-entry-181.html
 本当に勉強させて頂きました。まだまだ浅学ですけど、高野山は深く広大ですね。つくづく無知を思い知らされます。

 よく挿絵の山鹿先生が、夢酔のことを
「でっかい熊ちゃん」
とか云ってますが、福岡住職も充分な巨漢です。僧籍の方は鷹揚か謙虚かどちらかですが、福岡住職は間違いなく後者ですね。
 最近、妙音院のサイトをみていたら、福岡住職の奥様が
「寺嫁ブログ」
なるものを開設していたことを今更知り、慌ててリンクに加えた次第です。
 http://musuitouzan.blog.fc2.com/blog-entry-181.html
 
 妙音院と里見家のつきあいは、とても深かったそうです。
 正式名称は〈光照山醫王寺妙音院〉といいますが、通称〈安房高野山妙音院〉という名で親しまれている当山の歴史は、里見義康の時代から始まります。天正17年は小田原征伐の前にあたりますが、里見家は豊臣秀吉に臣従していた頃です。その年に里見義康は発願し、高野山別院・里見家の祈願寺として、当山は安房国へ開山され寺領161石を与えられたとされます。
 妙音院には薦野家の墓所があるのですね。薦野神五郎頼俊という人物がおりますが、里見義弘の実子で、薦野家の名跡を継いだ人物です。ときどき「夏の波濤」にも登場する人物です。武勇に優れた人という印象があります。
 余談ですが、こういう実在の里見家中はなぜか陽の目を見る機会がございませんね。南総里見まつりでは架空の八犬士をクローズアップしていますが、ぜひ、こういう実在家臣団も武者行列させるべきだろうなと痛感しております。それも、一種の供養かなと。

 紀州高野山と里見家の結びつきは、西門院との宿坊契約が大きな軸だったそうです。里見家が安房から上総にかけて勢力を拡大した頃に、宿坊契約をしたのでしょうね。西門院は里見以前、官領とされた上総国の神野寺と安房国の清澄寺を通じて房総と関係を持っていたのでしょうね。その支配者に成長した里見家との密着は、自然なことです。
 現在、「夏の波濤」は利休回を終え、新章である〈名護屋の行方〉に入りました。文字通り肥前名護屋を中心にした秀吉の大陸出兵の回です。この章において、こののち西門院が登場します。これは、今日現存する書状により、当時の高野山と里見家の関係を明らかにしたものと考えられます。

  借用申候黄金之事
  合而壱枚但其方秤也  
  右、請取申所実正也、此返弁来秋俵子を以、
  妙音院ヘ如相渡申 候、皆済可申候者也、
  仍如件、
    (文禄元年)
     壬辰
       卯月十三日
        西門院ヘ

 つまり、借金の証文のようなものですね。里見家は名護屋出陣を控えて、西門院から黄金一枚を借金したのです。その返済は、米俵にして館山の妙音院に渡すことが記されています。

 はい、ここで疑問。
 西門院と妙音院の関係は、どういうものだったのでしょうね。
 というのは、昨年高野山に赴いた際、福岡住職より古地図を解説してもらったんです。当時の西門院の場所、当時存在しており現在は残されていない妙音院の場所、その日宿を頂いた光明院の場所。光明院は形式として妙音院を併せております。
 つまり、西門院と妙音院は、別の塔頭と考えられるのです。
 西門院の借金は、西門院に返すものかなと考えてしまいます。たまたま館山にあるから、妙音院に米で返してくれというのは、何だろうと思いますよね。総本山の中でも貸し借りが頻繁なほど緊密な関係だったのでしょうか。その答えは、もう見つけることが困難でしょうね。

 高野山1200年。
 里見の足跡はマイナーかも知れませんが、一人でも多くの方に感じて貰えれば嬉しいです。








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  1. 2015/06/04(木) 05:50:22|
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