散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

高野山1200年便乗コラム①

2015年。開創1200年の高野山は、内外からの観光客で大賑わいと思われます。皆さま、もう足を運ばれましたか?
1200年前、果たしてどのような時代だったか、想像出来ますでしょうか?
時の帝は、嵯峨天皇。平安京が誕生して約20年余、未だ魑魅魍魎や百鬼夜行の信じられていた頃、貴族は為政者ではなく権力者でした。当時の信仰は国家鎮護といいつつも、究極は己の欲得のためのものです。
空海がみた風景と、権力者のみるものは、同じ世界でありながら異なる感性だったのかも知れません。
816年、空海は嵯峨天皇から修験道場として高野山の下賜を請い、許しを得ました。衆人に形を示すためには、権力者に頼ることも必要だったのでしょう。

以来1200年。
真言密教の聖地は時代を超えて、現代に至ります。

藤原道長を頂点とした貴族の信仰は、あらたな支配者たる武士に受け継がれていきます。最初に厚い帰依を傾けたのは、平清盛でした。清盛は落雷で焼失した根本大塔を再建したと伝えられます。残念ながら、このときの大塔は、1521年の大火により焼失しました。現在の大塔は昭和12年に再建されたものです。
その後に高野山を信仰したのは、北条政子でした。ただし女人禁制ゆえ、山上世界を目にすることはありませんでした。
室町三代将軍・足利義満も厚く帰依しました。
とにかく武家の頂点を極めた者は、高野山を崇敬したようですね。
この風潮は、戦国時代になると色濃く反映されます。

天文22年(1553)9月、上杉謙信が高野山を詣でました。戦国武将が直接詣でる事例は、滅多にありません。代わりに使いが往還し、領国の信徒が足を運び、情報が飛び交ったことでしょう。その領国のための宿坊契約が顕著になり、戦国時代、ある意味では高野山の活性期を迎えたと考えられます。
はじめて高野山を歩いた方は、山の上が一己の町になっていて驚いたことでしょう。そして、随所に宿坊があってビックリしたのではありませんか?あれ、坊主民宿などと誤解しないで下さい。れっきとした塔頭というか、寺院であります。参詣の信徒を迎えて下さる、そういう意味ですので
「飯はどーだ」
「風呂はあーだ」
「居心地がこーだ」
などと罰当たりな我が儘はいけませんよ。般若湯が頂けるだけでも有難いと思わなければ♪
宿坊契約と戦国大名の関連も、理由はあったのです。寺社などには荘園経営というものが存在していました。この図式は戦乱の世で荘園制度の有名無実化に繋がってしまいます。これは、全国のあらゆる寺社総本山共通の悩みだったことでしょう。高野山は各寺院が所有していた荘園寺領を押領から守るため、特定の有力な武士との間に、一種の檀家制度である師檀関係や宿坊契約を結ぶことで、寺領の保全に務めたものと考えられます。ただでさえ、弘法大師空海のネームバリューは大きいですからね。その総本山との契約行為は、戦国大名のステータスだったかも知れません。弱小ならお呼びでない、戦国時代の力関係が如実に垣間見えます。
高野山奥之院には、実に多くの戦国大名の墓石が並んでおります。武将と寺院との師檀関係により、一族などの墓石や供養墓が数多く建立されたものと考えられます。云うなれば、師檀関係や宿坊契約を結べる大名だけの、特権だったのかも知れませんね。
IMG_.jpg今年、高野山に行く方。ぜひ奥之院に足をお運び下さい。
もう行ってきたよという方。奥之院を観ましたか?そこに並び立つ墓石群を観ましたか?壮観だったでしょう。
でも、里見忠義供養塔を観てきてないんじゃないですか?
あんなに大きくて立派なものを観てないのは、勿体ないですよ。











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  1. 2015/05/30(土) 07:38:57|
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利休

「夏の波濤」の今章は千利休切腹のパートです。
利休と里見家、関係ないと思っていませんか?いえいえ、ちゃんと繋がっているのですよ。
PAGE04.jpg
新田源氏の系図です。
里見氏を名乗った義俊の子・義清が田中氏を姓とします。利休はもとの名を〈田中与四郎〉といいますが、この先祖が田中義清ということです。全国里見一族交流会事務局長の田中さんは、この流れの末裔ということになります。
「夏の波濤」でかなり利休のウェイトを高くしているのは、そういう意味もあるのです。
全景は画像クリックしてね。
136338100348913111436_20130310tanaka000.jpg
でも、この説が定説かといわれると、まだまだハードルが高いかも知れません。
たぶん、異論も多いでしょう。
とりあえず本編は、学術書じゃないので、娯楽の一端でこの説を根底におきました。とはいうものの本編中にそれを強調してもおりません。折衷の曖昧さで、あしからず。

千利休が信長の外で生ませた娘・風(ふう)の養い親のような存在というのは、小説上でのフィクションです。それは、申すまでもなく、皆さまご承知の上で作品を楽しんでおられることと解釈してございます。この娘こそ、利休の茶の神髄を継承しているという設定も、これからのお楽しみな訳ですが、これが為に里見家はこののちの困難を切り抜けていく。茶は得がたい里見の武器に変わっていくのです。
そのあたりを、房州日日新聞愛読者各位はお楽しみください。

夢酔は茶心というものが、てんで解らぬ無粋者です。
利休を語るのも、烏滸がましいですねDSCF2814.jpg
141031_112111.jpg
でも、実は宇治茶は好きなんですよ~
いつだったか、京都を歩いたときに宇治の中村藤吉本店でまったりお茶を楽しんだことがありましたが……いつかまた行きたいなぁ。。。

あと数回で利休回も終わります。
楽しんでください。












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  1. 2015/05/25(月) 21:12:11|
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続・房総武田氏考

 あれから少し考えてみました。
 一度は房総武田氏の足跡を歩かなければいけないのかなあ。でも、どこを歩けばいいかなあ。分かんないので、有識な先生に
「どこを廻る」
「だれに尋ねる」
あたりをお手紙で相談しているところです。でも、まだ歩くのが些か不自由な夢酔でございます。


 庁南武田豊信は「夏の波濤」に登場した人物ですが、時代的には里見義弘・義頼の頃に活躍した者と認識しています。里見家宛の文書史料に、このようなものがございました。


  急度令啓達候、
  然者台(長福寿寺)と藻原(藻原寺)之沙汰ニ付而、
  我等取扱申、事余申候者、急速ニ申上御談合可申候処ニ、
  今日十二日令落着候、若横合候て違変候ハヽ、
  重而可申達候、御陣触させられ、
  両屋(里見義堯・義弘)形御出馬肝要ニ存候、
  済申候儀しらせ為可申、早飛脚を以申述候、恐々謹言、
                   武田兵部太輔
            二月十二日      豊信(花押)
       佐貫(里見義弘)       御宿所


 年月日不詳文書ですが、里見義堯に触れてもいるので、その生前だろうと想像できます。義堯は天正四年に没したので、その前のものでしょうね。少なくとも、その頃の庁南武田家当主が、豊信だということは読み取れますね。

 豊信が信玄三男だったという説は、公式なものではありません。
 公式ではありませんが、よく出来た俗説以上の面白さもあります。そして、よく出来た俗説には、それなりの根拠めいた伝承があるものです。夢酔がこの説を「夏の波濤」に盛り込んだのは、熱烈にその説を支持したわけではなく
「歴史は勝者の都合でつくられる」
という持論に乗ったものと思い、エッセンスとして取り上げただけです。嫌な物云いすれば、里見家の歴史に房総武田家は大きな影響を与えたとは考えていませんでした。関与はあったと思いますが、御家を左右する関係ではなかったと認識しています。だからこそ、こういう説を安易に受容れたとも云えます。柔軟性というよりも投げやり感……お恥ずかしい。黙っていればバレないことを、夢酔はついつい露呈してしまいます。

 この豊信のことを夢酔が知ったのは、実はかなり以前でした。歴史読本昭和52年7月号の中頃の文中に、この養子説の記述があったのです。以来、何か機会があったら、影響のない範囲で作中に盛り込みたいなぁという願望はあったのですね。その願望を、ここで満たした訳です。
 昭和52年の歴史読本を読んでいたなんて、まあ、夢酔も歳をとったものだ……その頃の歴史読本には新田次郎氏の「続武田信玄(武田勝頼改題刊行)」や早乙女貢氏の「会津士魂」などが連載されてまして、いつかこのような小説を書けたらいいなと、罰当たりなことを考えたりもしたものです。
 この歴史読本のことは、3月に開催しました小山田情報館開館時の講演会でもちょろっと紹介したので、聴講された方のなかには
「寝てて聞いていなかった」
という方以外、なんとなく聞き覚えがあったのではないでしょうか。
 
 次回作のなかに、この豊信のことを盛り込むべきかどうか、ちょっと悩んでいます。次回作はかなり通説に逆らった冒険も試みているので、そのくらいは大したこともない筈です。でも、本当は、盛り込まなければいけないんですよね。
 武田信玄は嫡男・義信の死にあたり、凡その作家さんはさくっと四男・勝頼に後継者のレールを導き出しています。次男が盲、三男夭折という定説に従えば自然ですし、みんなの先入観があるから勝頼で落ち着きます。
 ひねくれた人はどう考えるかな。
 大谷吉継も目が不自由なのに独立の大名をしてたし、関ケ原で名を残すいい仕事をした。だから盲な次男が後継者でもいいじゃないか。そういう考えもあるでしょう。信玄の次男・龍宝には、直属の〈御聖道衆〉がいたそうです。その意思を行動に示す術もあったんです。でも、恐らく信玄は五体壮健な者を後継者にするビジョンを持っていたんじゃないでしょうか。その前提があったから、後継者から弾いたのでしょう。
 三男・豊信が仮に夭折でなく庁南家に養子になった前提としましょう。他家の当主となった豊信を呼び戻すことは、どうでしょうか。やろうと思えばやれたかも知れませんね。どうせ房総なんて殆ど無縁の国だし、ドライに徹すれば償還もあり得た。しかし、やらなかった。他家の当主だからでしょう。
 四男・勝頼。既に諏訪の当主でした。前者の理由なら、これだって後継者から弾かれて当然だと思いませんか。でも、こちらが後継者になった。信玄が推したのか、家臣団が推したのか、誰が推したのか。理に適わない。
 こういう問題に飛躍する可能性があるので、ちょっと悩んでいます。
 でも、いきなり勝頼は不自然だなと思っています。

 歴史読本昭和52年7月号にはもうひとつ。仁科盛信の子・信正が房総武田氏を頼ったというものも記述されていました。この信正も「夏の波濤」に登場させましたね。この刊行当時の御子孫は林姓だということですが、こういうことは、どうしても大きな正史に載せてもらえない。
 日本の歴史は、時の勝者や為政者の都合で〈不都合〉や〈どうでもいいこと〉が省略されて積み上げられたものです。立場に応じて評価の見方を変える柔軟性がどうにも貧しいです。
 それでも、静かに再評価されることもあります。
 奥州藤原氏、足利尊氏、今川義元、明智光秀、石田三成、会津藩と新撰組等々。酷評から少しずつ実績が見直されている傾向は、これだけではない。近年の研究は顕著だと感心します。
 里見氏は酷評以前に、知られていないというハンデがあります。
 なぜ知られないのだろうか。誰にも知られないという〈呪いの原点〉が、きっとあるはずです。その呪縛から、そろそろ解き放たれてもいいのではと、思わずにいられません。












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  1. 2015/05/23(土) 13:21:35|
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腰痛天国

もう1週間も腰痛です。どうも前回の滝山城歩いた頃から、内臓が疲れたなあなんて思っていて、1週間前の朝にいきなり
びしっ
ときました。紹介された病院では当初、尿道結石を疑われましたが、何も出てこなかったので次の日腰痛だけ特化して診て貰い
「ぎっくり腰と考えてください」
という明言からやや浮いた診断を頂きました。
あれから1週間。すごい不自由です。
夢酔はもともとヘルニアを持病にしていましたが、ぎっくりと両刀使いになってしまいました。
嬉しくない二刀流です。
おかげで遠出は出来ぬ身の上でございます。

戦国時代も腰痛なんてあったのだろうな。
凄い鍛えて腹筋背筋マッチョな人が多かっただろうと思いますが、ぎっくり腰は突然きますからね。
合戦場での腰痛は命取りだし。
こういうことは、あまり資料でみない歴史。里見家関係の資料でも、やはり見たことがない気がします。

梅雨入り前の好機を、こうして逸してしまうのは悲しいことですが、やはり歳には勝てませぬ。
昨日、BS-TBSで新選組の番組を観ていましたが、伊東潤先生のように矍鑠とした姿勢を保っていたいと痛感しました。言動も美しいですし、いつメディアで拝見しても、姿勢が美しいと感じます。素晴らしいな。夢酔は下品な属なので、足下にも及びません。

高野山、今頃は綺麗なのでしょうね。
でも式典満載で混んでいるのだろうな。
これだけテレビや雑誌に特集されているのに、どこも里見忠義供養塔の紹介をしていないのが悲しいです。DSC00049.jpg
信長よりも奥の、いちばん一等地にあるというのに……

腰痛以前に、やはり高野山は遠いから簡単に足を伸ばせませんね。












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  1. 2015/05/18(月) 06:11:51|
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【北条五代】大河ドラマ化のライバル

今日、滝山城に行ってみた。
ここは北条氏康次男・氏照の居城だった。
当然、このような幟が立っている。
DSCF4003.jpg

里見家と北条家は、こうして現代においても、静かな戦いを繰り広げているらしい。

こういう前置きをしたのは、そうでも書かないと、今回里見のネタがないからで、ずるい大人の詭弁として触れたまでだ。
本音で云えば、青色吐息な準備作の現地確認のためという下心が丸出しのハイキングに過ぎない。一応、里見氏応援blogなだけに良心が痛むから……そういうことにしてください。

今回ははじめての試みだが、嫁はんの山blogとの奇蹟のコラボレーションである。
行き先が一緒でも、感受性が全く違うので中身は似ても似つかないという結果になりました。まあ、当然ですね。
一応、そっちも見てやって下さい。
  クリック背負子マウンテン

とりあえず、滝山城のことを知らない人がいたらいけないので、プチ解説。
っつか、関東戦国史ファンはたいがい知ってます。安房の人は余り知らないかも……いい機会だから、知っといて。
DSCF3993.jpg
滝山城はもともと大石氏の居城。
北条氏は有力豪族に婿養子として一族を送り込み、付家老も差し向けて、ゆくゆくはその家そのものを乗っ取るという策謀を多々みせます。大石氏もそうやって城を取られました。
永禄12年、武田信玄が滝山城に攻め寄せた。氏照は必死で防戦するが、あと一息で陥落するという瀬戸際まで追い詰められた。結果的に信玄は小田原包囲の寄り道だからと、滝山城を捨て置いた。
この城では信玄に勝てないと確信した氏照は、滝山城を廃してあらたに八王子城を建造したという。
DSCF3977.jpg
当時は多摩川がもっと城に寄って、天然の濠だったことでしょう。DSCF3987.jpg     城からは多摩川北岸が一望できる。

DSCF4051.jpg 
武田信玄は多摩川対岸の大日の森と呼ばれるところに本陣を構えた。日吉神社や拝島大師も一体と考えていいと思われる寺領に、およそ30,000の軍勢が収容されたらしい。拝島大師からみると、滝山城はよく見える。DSCF4036.jpg

現在の中央自動車道八王子IC付近に武田勝頼も本陣を構えた。
これで滝山城の東を固めたのだとされる。
が、これだけで留まらなかった。
当時まだ開発道路ではなかった小仏峠から、小山田信茂の別働隊が奇襲を仕掛けたのだという。このとき高尾近くで合戦があった。P4210203.jpg
この信玄襲来で滝山城は放棄されることとなり、八王子城が完成するのである。

この頃は、反北条という共通の敵がいたことから、里見家と信玄の間には「房甲同盟」が成立していたものと想像する。

まだまだ、この戦闘については、八王子市に問い合わせる必要があるくらい、理解をしていません。
学ばねば!










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  1. 2015/05/05(火) 21:29:33|
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