散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

書籍紹介

里見氏が滅亡した状況がよくわかる書籍があります。


t_satomitadayoshi.jpg


平成20年の刊行です。
勉強になります。
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  1. 2014/09/29(月) 20:33:28|
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アフター倉吉紀行

全7回で終わったと嘯きつつ、番外編です。

DSC00026.jpg

現地に出ないと分からないことがあります。
実際に立って、四方を見回したときに感じる距離。直接歩くことで体感する時間と空間。資料は大事な羅針盤ですが、やはり官能に勝るモノはありません。このときのインスピレーションが、作品に反映されるんです。ただし、考えずに感じるままの状態では、間違ったまま走り出すことに繋がります。
今回の倉吉紀行発表中も、多くの疑問点をぶつけて、たくさんの方々からお答えを頂きました。
まずはこの場を借りて、厚く御礼申し上げます。

そのなかで、数点、Q&Aを御紹介しましょう。
普通の人は、こんなことを、きっと疑問には思わないのでしょうね。

神坂の屋敷は、現在の松原旅館周辺一帯と伺いました。なんとなく、抽象的です。
 現在の官公庁は得てして、旧城跡や陣屋跡というケースが多いです。倉吉市も恐らくは陣屋
 跡の一部が、庁舎敷地と思われます。
 この陣屋は江戸時代からのものでしょうか。山名時代の城下屋敷の延長線でしょうか。
 江戸時代以前なら、ここに里見忠義が最初の居を構えたと推察が出来ます。
 (夢酔藤山)
屋敷の位置とその規模については、後世の記録では現在の市役所の東側、賀茂神社の北側
 と言われています。大切なことですが忠義は厳密な意味では倉吉町に入っていません。
 その東隣の神坂村に屋敷を与えられました。
 倉吉町は幕府の代官の支配地と推定され、代官の屋敷があったと思われますから忠義
 は入ることができなかったと考えています。
 当時の記録では久米郡、河村郡のうち3万石を与えられたとしていますので幕府の直轄
 領のほうが広く残っていました。したがって2郡の中心地の倉吉は当然、代官の支配地
 と考えられます。
 倉吉藩3万石という説もありますが、明らかな間違いと考えています。規模は分かりません
 が立地の悪さから、扱いは悪かったと考えています。(倉吉市立図書館 山脇幸人)

下田中屋敷のある場所のすぐ近くには、天神川が流れています。このあたりは、見ように
 よれば川を用いた水利も期待でき、美作街道の交通で賑わったのではと想像して
 おります。神坂屋敷を追われても、自活の温情を池田家から貰っていたのでは
 という都合の良い発想すら浮かんで参ります。
 江戸時代初期、天神川は海からの水利が発達した恵みの川だったのでしょう
 か?(夢酔藤山)
天神川の水運について古くから発達していたと推測しています。
 古く山名時氏が田内に城を築いたのも天神川の水運を押さえるためと考えられます。
 ただ、下田中村は低湿地の天神川の氾濫原であり環境はよくありません。
 池田家の入部は忠義が正式に罪人と決まったことと連動していると考えています。
 (倉吉市立図書館 山脇幸人)

関金温泉の歴史は古いです。旧堀村に移ったのち、里見忠義には入湯の自由はあったもの
 でしょうか。 (夢酔藤山)
これはまったくわかりません。(倉吉市立図書館 山脇幸人)

全部ではありませんが、こんなやりとりをさせていただきました。
倉吉市立図書館の山脇幸人館長におかれましては、ご多忙中にも関わらず、稚拙な問いに応えていただきまことにありがとうございました。また、その他の方にも、メール並びに書簡にて、懇切にご指導を賜り厚く御礼申し上げます。


この旅が、きっと夢酔に刺激とインスピレーションを授けてくれると、信じています。


DSC00008.jpg


さて。
10月が近付いてきました。

各種イベントもございます。
来週10月5日(日)には、市原市の宝林寺において、里見供養の儀がございます。
同日、歴史教室「わたしの町の歴史探訪-館山城下町-」(館山地区内)が館山市立博物館で行われます。
10月9日、また旅倶楽部にて、バスツアー「戦国大名里見氏飛躍の拠点上総を訪ねる」が開催されます。
10月11~18日まで島津敬写真展「里、見渡せば里見人」が千葉県南総文化ホールギャラリーで無料公開です。
10月18日、館山城頂上広場にて里見氏安房国替400年の供養祭が房総里見氏主催で行われます。
同日、第33回南総里見まつりが開催です。
翌19日「房総里見氏170年の軌跡 ~里見氏安房国替400年~」が千葉県南総文化ホールで無料開催です。
同日、里見ウォーキングが富浦地区生涯学習推進委員会主催で行われます。
10月30日~11月1日、バスツアー「高野山 智積院」が館山市文化財保護協会主催で行われます。

このなかで、いくつもの行事に夢酔がお邪魔していると思われます。
現地に触れること。
感じること、考えること、そして想像の翼を拡げること。ごきげんよう、さようなら……と、まだ終わってはいけません。とにかく、現地に立つことが、とても大事なことです。

倉吉に次いで、また、皆さまから教えてもらいます。




2014年、里見メモリアルイヤー。
盛り上がりの、ご開帳です。




戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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  1. 2014/09/28(日) 21:59:54|
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倉吉紀行

ご静聴いただいております倉吉紀行。
いよいよ最終回です。



倉吉紀行その7

 いよいよ最後の行事です。「第29回倉吉せきがね里見まつり」、プログラムを頂戴して、準備に大忙しのスタッフや、演目に緊張する子供たちの表情を見つめる。プログラムをみると、兎にも角にも、子供たちが大活躍のお祭りと分かる。
 会場は倉吉市立山守小学校体育館だから、演じるも鑑賞するも、子供が多いのは頷ける。この山守小学校は、今朝、神事を行った山郷神社とは小鴨川を挟んだ真向かいの対岸に位置する。当然、目を凝らすと、山郷神社もよく見えるのだ。DSCF2542.jpg
 体育館の後方、仕切られた場所がある。野立ての場だ。茶道の心得は皆目ござらぬが、一服を相伴させていただく。DSC00028.jpg
そうこうしている間に、先ほど堀江能登守頼忠役で甲冑行列されていた石田耕太郎倉吉市長も平成人に武装解除され、こちらを訪れた。DSC_0449.jpg
     写真提供:田中直司事務局長
 この祭りは倉吉市の、というよりも、合併前の旧関金町による祭りだった。だから、旧関金町すなわちこの界隈のお祭りなのである。そこを弁え、あくまでお邪魔させて頂いている気持を忘れたら、この祭りの個性を見失ってしまう。その土地の、手作りな、風物詩なのである。

 脱線で恐縮だが、夢酔がむかしから楽しみにしていたのが、東京西部で年に一度の夏の風物詩だった「五日市映画祭」だ。公民館で手作り会場、椅子はパイプ椅子に座布団、朝から晩までその年のプログラムを5日間観るのだが、スタッフと観客に奇妙な連帯感が生まれた不思議なお祭りだった。過去形にしているのは、この五日市町も合併により、新たな自治体を冠する「あきる野映画祭」に生まれ変わったのだが、大きな会場に変わったことですっかり手作りの温もりが失われてしまったのである。開催ポリシーは不変であるが、箱物が変わっただけで、なんとも不思議なことである。
 【参考】あきる野映画祭HP
 この倉吉せきがね里見まつりは合併10周年の節目と聞く。
 10年間、大きな興業に昇華して華美にしない代わりに、当初理念を貫く。なんというパワーだろうかと、関心せざるを得ない。
「ここのお祭りは、一度観ると、癖になるんですよ」
 里見香華会長がそっと教えてくれた。
「こういう祭りは、忘れられなくなる」
 里見会の皆さまも口にする。毎年毎年、子供たちが積み上げて29年。卒業した子供のその子供も、その歴史に加わり、これからもきっと続いていく。積み上げる歴史、素晴らしいことではないか。
 それを、これから体感する。

 午後2時、オープニングセレモニーがはじまる。
 主賓来賓の紹介や挨拶が続く。祝電のなかには、内閣改造直後で忙中であろう石破茂地方創生・国家戦略特別区域担当国務大臣のものもあった。ああ、そうか、鳥取は石破さんの基盤でしたね。
 倉吉のゆるキャラ「くらすけくん」が登場して和んだあと、倉吉里見時代行列の甲冑隊が入場してきた。ああ、ここまで一体のイベントだったのですね。大変だ。参じる皆さんは、本当にご苦労様です。DSCF2539.jpg
 実は、八犬士に扮しないかと、あらかじめ福井氏に打診を貰っていたんです。楽しそうですよね。でも、取材できなくなっちゃうから……今回は見守る側に身を置きました。いつか機会がございましたら、今度は、是非。

 オープニングセレモニーが終わると、いよいよ開帳。
 演目を転記させて頂きます。

1. 関金保育園お遊戯
2. 打吹童子ばやし演奏
3. せきがねドラマリーディングの会による朗読劇
4. 喜々の会による「ちゃっきり節」
5. 八賢士太鼓愛好会による演奏
6. 関金子供歌舞伎保存会による子供歌舞伎

 体育館は老若男女が演じたり見守ったり、まさに、この地区の皆さんがお集まりされているのかという熱気を感じる。子供が演じるということは、その関係者が大勢見守ることに繋がる。大人や兄弟それに友達が、晴れ姿を温かく見守るのだ。演目が変わると、客層もまた変わる。声援を送る人も変わるし、体育館外で遊ぶ子供たちの影が入れ替わる。
 一応、座布団まで用意くださり、前席で観覧こそしているが、訳の分からぬ余所者の己は、まるで邪魔者だ。
 ああ、この町の住民が、みんなで一体となって参加しているのだと悟る。
 こういう祭りを都内で見出すのは難しい。人も町も飽和して、町内会にすら疎遠となる者もいて、地域不参加が目立つものの、それでも充分に生きていける。そんな都内の環境と比べれば、ここには当たり前のような一体感がある。前へ、前へ、同級生を見守ろうとやってくる子供たち。申し訳ない気持で、そっと体育館の外へ出てみる。
 周囲を見回す。
 決して高くはない山が、小鴨川に沿うように、両岸の壁となって連なっている。そう、まるで壁だ。登ることは造作もない高さであろうが、それでも隔離された世界という錯覚が否めない。ここに閉じ込められたのだと思ったとき、里見忠義はどういう考えを巡らせたことだろう。
 9月の空は、清んでいた。ゆっくりと、雲が流れていく。
 ほどほどの高さの山影は、空の圧迫感だけは感じさせることがなかった。せめてもの救いといえる。そのおかげで、広く広く、高い空が続く。
「あの山に登れば、彼方の安房が見えるものだろうか」
 そんな児戯に等しい気持を、里見忠義は抱いたのかも知れない。

 さて。
 最後のプログラムである関金子供歌舞伎保存会。夏休みの間、子供たちは一所懸命練習を重ねてきたのだという。そう、まさに夏休み返上の、伝統泥能だ。
 こういう形で、里見のことが地域特有の教育として、受け継がれているのである。伝統は、等しく道徳にも似ている。その道徳の中心に、里見がある。とても素晴らしいことだと思った。
 出演する子供たち。
 出演しない子供たちも固唾を呑んで見守る。
 ひとり一人、役に応じて見得を切る。それが決まる毎に、喝采の拍手。全体の一体感が溢れだしている。これだ、これを観てしまうと、確かに、癖になりそうだ。DSC_0525.jpg     写真提供:田中直司事務局長
 すべてを演じきった子供たちは、隈取の下の素顔ではきっと安堵の表情なのだろう。大役を終えた達成感は、何物にも代え難い。そんな子供たちに、里見香華会長から、全国里見一族交流会を代表して、感謝状のサプライズが贈られた。DSC_0443.jpgDSC_0535.jpg     写真提供:田中直司事務局長

 倉吉では、改易による敗残の将としての里見忠義像がない。
 憐憫と哀惜と同情に支えられた愛着が、しっかりと育まれていたのである。

 歌舞伎が終わり、祭りが終わると、夢酔の倉吉の旅ももうすぐ終わる。

 欲張ればキリがない。
 もっと見たい処があった。もっと知りたいことがあった。もっともっと……しかし、欲張れば、キリがないのだ。これだけの行程で、むしろ多くを得られたと、納得しなければいけないだろう。
 足りないくらいで丁度いい。
 もっと勉強すればいいのだ。
 いまは、これで足を知ればいいことなのだ。

 恐らく、この祭りを終えると、旧堀村の夏は終わり、季節は秋へと移ろうのだろう。





 夕暮れ。
 倉吉駅まで送って頂いた市職員に御礼を述べる。二日間、ご迷惑をおかけしました。これからも、素晴らしい倉吉市のために頑張ってください。来たとき同様、ホテルセントパレスを覗く。食事はモーニングだけというので、近くの提携洋食店まで、わざわざご案内頂いた。
 辺りは、もう夜の帷が下りていた。
 いよいよ、バスがくる。
 あっという間の倉吉の旅は、夢酔の心を豊潤なものに満たしてくれた。この旅にあたり、多大な御支援御協力を賜りました全ての皆さまに、心から感謝申し上げます。

 この日は、名月だそうですね。DSC00033.jpg 
バスに揺られながら、鳥取の月を車窓より愛でました。




 夜を徹して走り続けたバス。ありがとう。DSCF2571.jpg品川バスターミナルにて、お別れです。







 皆さまも倉吉に行ってみませんか?
 素晴らしい温泉が、皆さんを待っていますよ。DSC00014.jpg







 倉吉紀行。
 御静聴ありがとうございました。

 
 10月は、千葉県の行事が目白押しです。まだまだ間に合う里見のイベント、どうかその目で見届けください。





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  1. 2014/09/27(土) 09:43:46|
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倉吉紀行

倉吉紀行その6


 平成26年9月7日(日)。
 この日は、午前11時から「倉吉里見時代行列」が執り行われる。旧堀村から、バスで市内へ移動です。
 時代行列は、大岳院からスタートします。DSCF2478.jpg
 さて、曹洞宗萬祥山大岳院。里見忠義主従の墓所で知られます。年に一度、里見忠義を偲んで、このお寺から甲冑行列を行うのだそうです。名のある武将や八犬士の甲冑は立派なものですが、随行する甲冑は手作りのものが含まれます。そう、全国里見一族交流会の山口幸夫幹事長が普及する、手作り甲冑。主材料は段ボール、つまり紙です。当然、軽量だから負荷が少ない。武者の恰好をした経験がある方なら分かりますよね。甲冑って、重いのですよ。立派な大将鎧になればなるほど、重くなる。よく大河ドラマで、立ち回りの所作も怪しい人気アイドルが、軽々しく戦場を走り回る姿をみるたびに、辟易します。あんなに動ける軽さじゃないって。それだけに、こういう紙甲冑、見た目も遜色なく、本当に軽いから、婦女子や子供にも最適です。今回は、山口幹事長指揮のもと、松戸手作り甲冑隊が行列に参陣です。この松戸手作り甲冑隊の皆さまとは、国府台供養で御目見得しております。
     参考までに南総里見手づくり甲冑愛好会
 この時代行列、ここ数年は里見忠義や伏姫の役にタレントが起用されていました。今年は節目の年と云うことで、県も力を入れているのでしょう。里見忠義役は平井伸治鳥取県知事、伏姫は県知事夫人、家臣堀江頼忠には石田耕太郎倉吉市長が扮します。行政カラーが強いことは、こういうイベントのために必要なこと。むしろ強い後押しは、自治体理解の象徴とも感じました。
 行事ということもあり、里見香華会長は終始高いところで挨拶をしたりと、大変そうです。

 献花の儀を終え、中村住職の口上が響く。順次主賓来賓の焼香が続き、八犬士の順番が来る。すっかり役になりきる彼らは、呼ばれる毎に力強く
「応」
と声を挙げ、会場もその気迫に解け合うように、緊張感が漲っていく。
 会場の全員で合掌。
 いよいよ出陣の儀である。八犬士はひとりひとり中村住職より八つの宝玉を与えられる。
「この玉を持って、堀村へ参りなさい」
 八犬士はこれを受け取る。DSCF2484.jpg
 人垣が動き、山門への道が開く。衆人観衆の見守るなか、行列が進む。倉吉の剣道道場の子供たちが先導である。柴犬サチも、この日は「八房」として、行列に加わる。
 
 Youtube「里見忠義公終焉の地で「時代行列」(倉吉市 日本海新聞ニュース)」で、はこの出陣の様子が動画公開されていました。よく観ると、一瞬、夢酔もしっかりと画面に入っています。  
クリック「里見忠義公終焉の地で「時代行列」 倉吉市 日本海新聞ニュース」

 ここまでは手作り感も大きい。しかし、温かみも大きい。これこそ、土地の祭りだ。プロの手で演出すれば、もっと綺麗になるかも知れない。しかし、アマチュアは、素人とはちょっと違う。この演出には温もりがある。これでいい、これがいいのだ。
 かくして、時代行列は、粛々と倉吉の街中へと消えていった。
 交流会のお歴々はここで分散する。
 夢酔も、せっかくなので、取材のために単独で動かせて頂く。考えてみたら、倉吉に来てから、初めての単独行動だ。
「お昼、電話ください。里見会長が携帯番号知っています」
 田中幹事長に云い置き、とりあえず昨日赴いた屋敷方面へと足を向ける。

 倉吉市役所北庁舎のところの手押し信号で県道38号線を渡る。松原旅館を過ぎ、昨日見た里見屋敷の看板のところまできた。その先は、T字路だ。このT字路を左に曲がると、すぐに〈それ〉はある。
 賀茂神社。
 山城国上賀茂神社の祭神を勧請したと伝えられ、貞観9(876)年に記された「三代実録」にも記される古社だそうな。賀茂神社という名称は明治維新後のものらしく、元は「賀茂皇大神宮」。維新後の神道格上げや廃仏毀釈の影響でしょうね、そのときから、ここは郷社となっています。なんと、倉吉の初詣の定番スポットだということで、初詣の参拝も毎年3万5千人以上が訪れるとかで、なんと鳥取県内での初詣人気第3位という話でした。
 夢酔はぼんやりと、石段を眺めながら、ここを里見忠義も訪れたのだろうかと考えた。その当時、ここには「賀茂皇大神宮」が確かに存在していたのです。いや、名称がひょっとしたらとは思いますが、間違いなくあった筈です。よし、登ってみよう。石段16段目の右手に御手水がある。ここで清めてから、更に登ること96段、境内敷地に立つ。蚊が多い。まだ山陰ではデング熱が騒がれていないが、大丈夫かなと、つい不安になる。
 清浄な空間は綺麗に掃き清められていた。
 ここは、尼子晴久ゆかりの社だと、案内板にも記されている。日頃より直接触れることのない、山陰の歴史を実感させられる。

 賀茂神社を下りたら、知識を求めて「倉吉博物館」へと赴く。打吹山の麓だから、むかしの城下屋敷領域の跡地だろう。とにかく、里見の足跡が少しでも知りたかった。例え根拠のない民間伝承でも、本では伝わらないその土地ならではの温もりがある。それを拾いたかった。
 しかし、残念ながら、倉吉博物館はどちらかというと美術館と土器等展示が主流で、たぶん指定管理の対象なのでしょうか、情報を知る者はおりませんでした。それでも一生懸命に対応して下さった職員の方々に、深く感謝します。図書館ならきっと分かるというお話しでしたが、ちょっと図書館は、遠いです。
 倉吉博物館を辞して街中に入ると、丁度、時代行列に遭遇しました。
 その脇を通り抜け、昨日立ち寄った大蓮寺にもう一度立ち寄る。モダンな山門脇に、見落としていた寺の情報が記されていた。
「あっ」
 思わず声が漏れた。
 霊巌譽雄上人の「一枚起請文」が墨蹟として残されているのだ。霊巌上人は里見家と懇意にしていた高僧で、徳川家康も敬ったほどの人物である。館山にも足を運んだことがあるほどの里見贔屓だった彼は、忠義が心配だったのだろう、ここ倉吉にまで見舞っていることが記録で分かる。一枚起請文は、そのときのものに違いない。かといって、素性の知れぬたかが物書きが訪れて、斯様な歴史的貴重な文化財を見せてもらえる筈もなし。ここに、こういうものがある、それを再認識しただけでも上々と、諦めるしかない。
 もっとも、霊巌上人の一枚起請文は数多く存在するらしい記述を、後日、「特定非営利活動法人(NPO) 安房文化遺産フォーラム」のネット記事にて知る。このNPO団体は稲村城を国指定史跡にするまで頑張ったことで、夢酔も敬服している。里見の恩人のようなものだ。その団体の記事がこれであるので、御紹介に留める。→http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=208

それにしても、まだ、電話がない。
 行列を追いつつ、豊田家住宅を目指す。豊田家は登録有形文化財に登録されている建築物だ。この古い建築物の温かさを生かして、講談なども催されているのである。前々から、気にはなっていた。行ってみて、驚いた。時代行列のゴールは、ここ豊田家住宅だったのだ。
「お疲れ様です」
 今回この行列のために奔走されていた福井功氏に声をかける。福井氏はまちづくりプロデューサーとして全国を駆け巡る多忙な方だ。夢酔はmixiを通じて福井氏とご懇意にさせて頂いた。彼は里見氏大河ドラマ化実行委員会副幹事長として、具体的な働きかけのプランナーとして手腕を発揮されている。この方なくして、この実行委員会は、実のある計画を得ることは難い。とにかくその東奔西走のフットワークと外交能力に多趣味他分野の知識は、とても夢酔の敵うところではない、凄い人である。
「知事の奥さんと撮りましょう」
 福井氏に勧められるまま、図々しくお写真を頂きました。後日、福井氏からデータで写真を頂きましたが、少しお恥ずかしいので、ここでは紹介しません。あしからず。
「なんか、お昼、電話ないんですよね」
「ああ、忘れられているかも知れないですよ」
 福井氏の指摘は、こののち的中するのです。DSCF5299.jpg                         
写真提供:福井功副幹事長

 皆さんがいるだろう食事所を探していたら、市の職員から
「もうお時間ですよ」
と呼び止められた。えっ、もうそんな時間?バスに乗ると、やはり皆さんは夢酔のことを忘れていた由(苦笑)。どうやら、色々と、忙しかったようですから、そちら優先でも当然でしょう。まあ、こういう飯抜きは通常の取材でもよくあることです。

 このあと、バスは旧堀村へと向かいます。







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倉吉紀行

倉吉紀行その5

 昨夜は完全に電池切れ状態でした。
 気持ばかり若ぶっても、歳には勝てませんね。
 6時を待って朝風呂へ。せきがね湯命館のように本格的な趣向を凝らした温泉ではございませんでしたが、まずは節々を伸ばしながら窓の外をみる。湯煙の向こうは、青い空と、山々の頂部にあたる陽の光。
 ああ、いい天気になりそうだ。
 朝食はバイキング式だが、多くはいらない。和食でいいな。山陰だけど、納豆があるのは、嬉しい。テーブルには、点々と、部屋番号の札が立っている。高知から参じた里見脩氏が、粛々とバイキング盆を持って同じテーブルに集まってくる。いつの間にやら、みんな揃う。おかげで会話も弾んだ。

 この日は、「第29回倉吉せきがね里見まつり」と「倉吉里見時代行列」を軸にした行事がてんこ盛り。そこに列席を許して頂きつつ、合間合間で取材を行おうというのが、夢酔の試みである。

 倉吉市職員のお車で、山郷神社へ。
 ここは、旧堀村に移された里見忠義最後の屋敷があったとされるところである。鳥居を右手に通り過ぎ、やや置いて、駐車場へ。そこから、屋敷跡とされる場所へと、ゆるゆる登っていく。
DSCF2476.jpg
 忠義屋敷跡と伝えられる場所は、現在は田圃が三枚つくられている開けた空間で、木々に囲まれた場所である。ぽっかりと空いた空からは、強い陽射しが刺すようだ。果たしてどこで、どのように、どんな構造で、里見忠義の屋敷があったものか、今となっては知る術もない。
 この空間の西端に、大きな椎の木がある。この木を切ると祟りがあると、脇の看板にも記されていた。椎の木の面前にある祠が、「六人塚」と呼ばれるものです。里見忠義の死に際し、6人の家臣が殉死したのだと伝えられるが、具体的に誰がという点は解明されていないと思う。
 当時、この屋敷から見える世界は、眼下に広がる小鴨川を挟んだ谷間の田畑。人の手を介さぬ対岸に連なる山々。天下人の人質として過ごした環境とも、安房で統治した領地とも違う、まことに変化のない辺境そのものだった。ここで生きていくことを余儀なくされたとき、里見忠義は自らの手で土に触れることを覚悟したのだろう。そうでもしなければ、生産が適わぬ。糧を自ら生まねばならぬ程に、家臣を抱えることも許されない窮乏が強いられていたのである。
 ここは、安房の一大名が、生涯を通じて最後に辿り着いた、凄惨と悲愴と覚悟の修羅場と呼ぶに相応しい。それだけに、これまで観てきた、どの屋敷跡とも異なって、空気が重く、切ない。ついつい、そんな気分にさせられるのである。
旧関金町が設置した説明板を転記する。

  房州・館山藩主 里見安房守忠義終焉之地
    清和源氏新田氏の裔・房州・館山里見家十代の里見安房守忠義(十二万二千石)が、
    終焉の地は、ここ伯耆国堀村である。
    慶長十九年(一六一四)里見忠義は、安房国館山から、伯耆国倉吉(神坂)に、三万
    石で転封。(実質四千石とか。)
    元和三年(一六一七)下田中へ移住。のちにこの堀村へ移され、三年近く配流の身同
    様の生活を送った。そして、元和八年六月十九日、二十九歳の若さで悲運の生涯を閉
    じた。里見氏は、忠義をもって断絶した。
    家臣達は、三ヶ月後の九月十九日殉死。主従の墓碑は、倉吉の大岳院にある。
    里見忠義の住居跡は、山郷神社の近くであったといわれ、この小祠に、里見主従が、
    祭祀されている。

DSCF2461.jpg

 午前9時。神事が始まる。突如、照り付ける陽射しが、増す。その蒸すような暑さに、背中を汗が伝う。額からも、汗が溢れてくる。激しく、激しく。全国里見一族交流会のお歴々も、倉吉市館山市のお偉方皆さまも、神妙に頭を下げる。行政の長が、神事にこうして集う……そう、倉吉では里見忠義を誰もが慕うのだ。
 この暑さは、恐らく標高の伴わない山地ゆえのものだろう。
 このような暑さが、当時、里見忠義を苦しめたのではなかろうか。暑さから逃れるために、軒下や木陰に逃げ込んで、恨めしそうに、じっと天を仰いだに違いない。
 この神事の最中は、無風だ。
 誰もが、地の底から湧き上がるような蒸し暑さを口にすることなく、恭しく祠に対して頭を項垂れ、柏手を打った。
 不思議なことがある。
 この神事のリアルタイムをmixiに送信したが、なぜか送ることが出来なかった。アンテナは三つ立っていた。普通なら送信可能である。首を傾げ、数度繰り返す。やはり、駄目だ。
 やがて、神事は終わった。
 途端、無風の田圃に、風がそよいだ。まるで神事を労うかのように、風は心地よい。そして、あれほど出来なかった送信が、易々と行うことが出来たのである。
 この不思議を思い返すたびに、今でもつい首を傾げる。

 この山間の只中が、里見忠義最期の地である。
 渡海暮らしに疲れた現代人が、ふとカミングアウトし、憧れの田舎生活に飛び込みそうな、そんな雰囲気の旧堀村。そういう脱都会者が終の棲家に望むなら、きっとこういう土地は最高なのかもしれない。
 しかし、里見忠義は望まぬままに、この地を強いられた。戦国大名の最期の地としては、あまりに侘びしく、悲しい。
 きっと、当時の里見忠義は、物的にはかなり不自由だったことだろう。
 西の天空に聳えるのは、日本百名山で知られる大山。春になっても容易に雪が溶けぬ1,729mの標高は、旧堀村からは神々しく映えたことだろう。

 山郷神社境内は清潔だった。
 地元の信仰がしっかりしているのだろうと思った。
 しかし、里見忠義の時代。ここには神域があったのだろうか。特に里見忠義を祀っている風でもないので、そのあたりは不透明である。のちほど、どなたか、ご教授ください。

 旧堀村にいた頃の里見忠義は、何か娯楽があったのだろうか。関金温泉に浸る自由は許されていたのだろうか。
 関金温泉は鶴が入浴しているところを行基が発見したとも、いや弘法大師によって発見されたとも伝えられている。すなわち里見忠義の時代には、存在していたことが考えられる。源泉温度は40 ~60℃、泉質は放射能泉。
 入湯の自由さえあれば、せめてもの慰みにもなったことだろう。
 現地妻と語らいの持てる裸のひとときが許されたら、この山間の暮らしにも僅かな灯火が点るに相違ない。どうだろう、入湯、したのでしょうか。していて欲しいな。
 倉吉の方。〈里見忠義公の隠し湯〉なんて、いいコピーになりませんか?
 だけど、本当に入湯したのかな。
 迷うな。








2014年、里見メモリアルイヤー。
盛り上がりの、ご開帳です。





戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2014/09/24(水) 21:04:14|
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倉吉紀行

倉吉紀行その4


 タクシー営業所の真向かいに関金へ行くバス停はある。
 暑くて、風もなく、日蔭だけが憩いの、ちょっとした小休止。こういった長閑な時間が、ちょっと気の抜けるひとときだ。タクシーで回った場所は、実に充実したものばかりだが、絶対に万人受けしないのだろうな。
 タクシー会社の数件隣のスーパーで冷たいお茶を3本買い、みんなでホッとする。
 田中事務局長曰く、今日はもう一人参加する会員がいるのだが、丁度同じバスじゃないだろうかと、三人で談笑した。やがてバスが来ると、果たしてその方は乗客のなかにいた。
 伯耆里見会副会長の里見理生氏。里見武利副会長ともども、この旅の初対面の方だ。とても博識なので、こちらの浅学がバレバレで焦る。やはり一族会の方々は、直接な歴史なだけに、広く浅くではなく、ピンポイントに勉強しているから、とても敵わない。
 とまれ三人旅から四人旅。
 ちょっとした路線バスの旅は、おおよそ30分というところだ。
 風景がみるみると自然豊かな姿へと変わっていく。ここはもう都市部ではないなというところで、降車のボタンが光る。関金温泉に到着した。
 中国地方が初めての夢酔、当然、山陰の温泉も初めてです。DSC00010.jpg
 里見忠義は下田中を追われて、この関金を通過して、更に上流の堀村へと居を変えた。神坂や下田中とは一変した環境といってもよい。当たり前のように往来していた人の影が、恐らくは皆無に等しくなったろう。土地の村人を除けば、訪れる者も稀なる山の奥である。現代こそ、舗装された道路にエンジンのついた車を用いて、造作もなく往来が適う。里見忠義の時代は、倉吉中心部からでも、ちょっとした小旅行に等しい、環境の隔たりと距離と時間を要したに違いない。

 この日は、午後から記念講演会がある。
 大岳院の中村住職、そして作家の平岩弓枝先生だ。
 会場の「倉吉市関金都市交流センター」までゆるゆる坂道を登って、ようよう到着する。まだ受付は完全に設置されていないが、はつらつとしたスタッフたちがテキパキと動いていた。DSC_0333.jpg
写真提供:田中直司事務局長
 一族会ではないが、大丈夫か?スタッフの方がすぐに、承知の旨を応対してくれた。とりあえず到着確認を終えたので、我々は会場に隣接する「せきがね湯命館」に赴く。
 クリックせきがね湯命館
 まだ、お昼を食べていないから、食事処の存在は有難い。
 食事を終えて、まだ時間がある。暑くて汗だくだったから、カラスの行水でもしようかと、田中事務局長とふたりでザブーン。温泉施設だけあって、カラスの行水では勿体ない温泉だ。しかし、のんびりし過ぎるのも、いけない。次が控えている。
 会場には、一族会の皆様と一緒に席が用意されていた。恐縮しきりである。

DSC_0336.jpg
写真提供:田中直司事務局長

 中村住職のお話は、今日のように、倉吉に里見のことが定着するまでのことなどが上手な語り口調で奏でられた。僧侶の視点から語られる事柄は、学者や書物の情報とはひと味違う。これまでも執筆取材の際に、たいがい資料館や博物館に奔ることが多い。思えば、寺社の取材は少なかったなと、省みる。もっとアンテナを拡げなければ駄目だ。反省。
 平岩先生はもはや有名人だが、実直な語り口調に好感が持てた。
 得てして著名な方は腰の低い方が少ない。我が強く、揺るぎない自信に漲っている。しかし、夢酔は腰を低く努めるよう心がけている。別に大した輩ではないし、価値観は世間が決めるものであり自画自賛するでなし。そういう意味でいえば、キャリアの長い大作家にも関らず、素晴らしいものだと、圧倒された。
 平岩先生は「南総里見八犬伝」を連載されていた際に、毎回読者からお手紙を頂いたそうですが、その内容は
「素晴らしい挿絵」
のことばかりで、いつも文を褒めて貰えず、いよいよ最終回を迎えたときも、最後まで挿絵だったとお話下さいました。それを聞いて、ふと、我がことを思い出した。夢酔が連載した「春の國」、あれも、挿絵評判のお手紙ばかりで、たまに来る文章へのお言葉は
「濡れ場がない小説は駄目だ」
という叱責。ああ、里見の小説は、挿絵が命なのだなぁと、ついつい噛み締めた次第。
 平岩先生のお話は、物書きには一々染み入る。
 素材が勝れば技術能力はカバーできる、いい素材に巡りあうこと、発掘する努力をすること。こういうお話は、一般的には面白い話で終わるところだが、ようは、時代や流行に流されない物を見る目を養えということだ。未熟を、ヒシヒシと実感する。長谷川伸先生についての話は、重くて、聴講者すべてが瞬きすら忘れる程だった。このことは聴講者だけの特権だから、あえてここで内容を書きません。とにかく夢酔は、まだまだヒヨッ子です。

 この講演会、実は全国里見一族交流会の里見香華会長が飛行機の都合で間に合わなかったため、雛壇は里見武利副会長が対応されました。お疲れ様です。

DSCF2440.jpg
 この日は交流会が催され、里見香華会長と山口幹事長が合流。
 このあと山口幹事長から、お誘いを頂いたのですが、どうもバス疲れとやや寝ていない感で、せっかくのお申し出であるのですが、バタンキュー。今宵は、21時頃には記憶も意識もなく、夢もなく、昏々と泥のように落ちました。

 初日、終了。
 今日一日お世話になりました全ての皆さまに、感謝です。



追伸
世間の里見に関する視線は、まだまだ厳しいということも知っておかなければいけない。
たかが2chでも、侮れない。
耳は広く声に傾けておこう。

クリック里見家400年、「南総里見八犬伝」の刊行200年







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  1. 2014/09/23(火) 06:45:04|
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倉吉紀行

倉吉から帰って3週間が経過しています。
実はその間、疑問点等々を倉吉の方々に問い合わせているところです。
うち、倉吉市立図書館長と、今回話題となる曹洞宗金地福山定光寺から、お手紙およびメールを昨日頂きました。この紀行文は、その当時その瞬間、思ったこと感じたことを、つらつらと書き留めたものです。そのなかの誤解も、当然、3週間を経て知ることがございます。
しかし、とりあえずは、このシリーズに関しては勘違いもひっくるめて、旅の感動を感じていただけたら幸いです。



倉吉紀行その3

 倉吉は安房と気候風土が異なることを、先に記した。
 こういうことは、体感して、はじめて知る。なるほど、黒潮の影響で温暖な館山ではあるが、照る陽は乾くように痛い。潮風は否応なしに、南国を意識させる。が、倉吉の気候は南国とは異なる。
 タクシー運転手曰く、暑くて蒸す、海から10キロ未満の内陸だが、さらりとした暑さではない。確かに、立っているだけで、じっと背中を汗が伝う。
 湿気の伴う暑さとは、陽に曝されれ続けると、ともすれば体力を著しく損耗する。結果として、気力を失い、ついついグデッとさせやすい。
 里見忠義がはじめて倉吉に足を踏み入れたのは、大坂冬の陣の頃。山陰の冬の季節である。夢酔は初めての倉吉入りだから、当然、冬の気候を体感したことがない。ゆえに、里見忠義がどのようにして、凍てつく寒さと向き合ったものか、想像すら難い。少なくとも、季節が廻り豊臣家が大坂夏の陣で滅び去った頃に体感する、倉吉の夏を察するだけであるのだ。
 冬に、また来なければ、駄目なのかな……。
 後々のことは、ゆっくり考えよう。

 さて。
 新田源氏の末として血脈を保つ里見氏。里見氏の入府した倉吉へ、数百年も先に城を構えたのは、同じ新田源氏の山名氏。奇しくも新田源氏の集う倉吉であるが、ここにもうひとつ一石を投じたい。
 大岳院より西へ歩くと、弁財天で賑う一寺がある。大蓮寺。田中事務局長が、どうしても寄りたかった場所だ。大通りにタクシーを停めて、小路を100mほど歩くと、モダンなデザインの、そこに弁才天の浄財箱がなければ寺とも思わない構造物があった。すっかり住宅街に溶け込んだような、不思議なお寺である。山門を入り、左手に、大きな五輪等がある。その足元に、石に刻まれた五輪の主の名前。
 脇屋義助。
 思わず声が漏れた。南北朝動乱を彩る数多の英傑は、歴史にその名を刻んでいる。そのなかの一人が、この脇屋義助なのだ。勿体つけた物云いで恐縮だが、すなわち新田義貞の実弟が彼なのである。DSCF2412.jpg
as_tanak.jpg
 里見家発祥の地である群馬で主に活動されている田中事務局長にとって、同じ上州が生んだ英傑の足跡を見届けたかったのだろう。太平記の時代の息吹を、予期せずに発見した。事務局長は、ここに墓所があることを知っていたのだ。浅学ゆえ、夢酔はそこまで知らなかった。
 たしかに山陰地方は、南北朝動乱の要の土地だった。西の隣国には船上山を居城とする名和長年がいた。彼は隠岐を脱した後醍醐天皇をここに匿い、鎌倉幕府が倒れたのちは南朝の中核に身を置く。脇屋義助も兄に劣らず後醍醐天皇を敬う南朝武士だ。この南朝の勢力圏に五輪塔があっても、考えようによっては不思議ではない。この人の背よりも大きな五輪塔がいまなお大事に残されているのが、何よりの証というものだろう。
 倉吉に集う新田源氏の輪が、更に広がった。
 偶然にしては出来すぎだと、ついつい苦笑を禁じえない。

 余談だが、田中事務局長をはじめ、群馬で里見氏会の活動をされている皆様は、その発祥にちなんだ季刊誌を発行している。1227615829_223.jpg今年第二号が出たので、おそらく来年は第三号か。
 田中事務局長……脇屋義助のこと、書きたいんです今回のことを寄稿しますから、ぜひ第三号に載せて下さい。云われる儘の枚数で、きっちり書きますので……!
 心からのつぶやきでした。

 里見忠義が荼毘に付されたとされる場所が倉吉にある。
 定光寺河原。
 小鴨川と国府川が合流する辺りが、その定光寺河原という。といっても、ここは観光地として紹介されているわけでもなく、地元の方々にしてみれば生活環境の一部に過ぎない。いわば取り立てて特別視する意識もない、ただの、川の合流箇所に過ぎない。
 タクシーの運転手は、我儘にも似た我々のお願いに快く応じ、狭い道を進んでくれた。一応工場が近いので、舗装状態はしっかりしているのが有難い。
 川の合流箇所。道路は国府川沿いの土手の上にある。その眼下には、河原というよりは夏草に覆われた雑地の様相が広がり、所々に小石が覗く。川の流れと土手は、そのような状態で隔てられている。下へ降りることは、危険だ。小鴨川がぶつかるあたりで、土手の道路はUの字を描くようにゆるやかに曲線を描いている。その曲線の先端の左側すなわち川側に、まるで駐車場とも思える広い空間があった。ここの先端から見下ろすと、眼下でふたつの川がお互いの水圧をぶつけあうように合している。当然、夏草が風にそよぐ。降りる気にはなれなかった。
 ここが、里見忠義荼毘の地。
 当然、何ひとつ足跡を残す標もない。案内板すらなく、もし、ここがそうだよと知らなければ、我々でさえ素通りするであろう長閑き河川の風景が広がっていた。
 ふと、妙なものに気付く。
 ホームセンターで市販されているようなブロックを積み上げ、それに屋根を乗せて室を作ったような祠があった。最初は、何かの集積場かとも思ったが、中には年代を感じる古めかしい塔のようなものが見えた。これ、供養塔?しかし、何の供養塔だ?DSCF2416.jpg
ここで事故があり、そのために設けられた新しいものか、水に関した地鎮に関するものか、さっぱり分からない。どうしたものか。ふと、この河原の名前に気付く。近くに定光寺というお寺はあるのだろうか。
 国府川向こうのすぐにあると、運転手が教えてくれた。
 さっそく、我々はそちらへ行ってみることとした。定光寺は曹洞宗のお寺のようで、大岳寺と同じ宗派である。少し期待が膨らむ。
 本堂は真新しい。しかしお寺の案内板にあるその歴史は古い。山名宗全・尼子経久といった中国地方の大大名に庇護されてきたという。
 あいにくと御住職はお留守であった。
 里見に触れる伝承のことも、あの河原の名前に定光寺が冠されているのかも、残念ながら情報を得ることは出来なかった。それはそれで、残念なことなのだが、この定光寺のことは、里見から差し引いた話題として、十分に拾い物だった。何といっても真新しい建替え本堂は、京都から宮大工を呼んで古の構造であるという。屋根も銅拭きでなく、一枚一枚瓦を焼いたのだそうだ。
 歴史上有名などの構造物も、最初はこういう白木の、まるで無垢という言葉が相応しい輝きに彩られていた筈だ。この定光寺本堂は、こののち何百年、この姿に年季を刻んだ貫禄を纏っていく。旅の途中でそれに出会うことは、思わず胸がときめくものである。
 この無垢な時間は、きっと瞬く間のことだろう。
 里見の収穫はなくとも、こうした歴史の立会いが出来た偶然こそ、歓ばずにはいられない。


 さて。
 タクシーで回る時間も終わった。慌しいながらも、倉吉に刻まれた里見忠義の足跡にも触れた。大きな収穫だ。
 経験からいえば、散策で得るその土地のインスピレーションは、第一印象によるところが大きい。知識は二度三度の訪問で深まるが、感動は大概最初に勝るものではない。これが夢酔の経験則だ。
 倉吉もその例に漏れないのだろう。
 ふと、そう思った。





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  1. 2014/09/21(日) 05:28:56|
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倉吉紀行

倉吉紀行その2


 平成26年9月6日(土)、倉吉駅の路線バスには高校生たちが賑っていた。東高校の学生という。みんな礼儀正しい。丁度、登校の時間なのだろう。
 午前7時代、朝食を得られる場所は、ホテルセントパレスくらいしかない。田中事務局長は、以前もここで相伴したという。朝食バイキングの形式だ。さっそく、お世話になる。ここで一心地がついたら、午後までの時間、いろいろと回れる場所を三人で検討する。欲張っても仕方がない。数点を厳選し、フロントからタクシーを呼んでもらう。観光タクシーだからやや高額だが、時間内で巡るにはむしろ丁度いい。

 最初に向かったのは、旧下田中村の里見屋敷跡。
 現在は、勝宿祢神社と民家があり、往時を偲ばせるものは何一つ残されていない。
 勝宿祢神社は倉吉東高校の南にある。先ほど言葉を交わした高校生たちの学校だ。タクシーの運転手曰く、市内でもかなりレベルの高い学校なのだそうな。礼儀正しかったのは、そういうことか。
 東を流れるのは天神川。運転手曰く、鳥取三大河川のひとつという。この天神川は高い堤防を有している。恐らくは古来より〈暴れ川〉だったのだろう。海からも10キロと離れていない。干満の具合によっては、潮が遡ることもあったのだろうか。この豊かであり畏怖すべき大河を間近にする下田中の里見屋敷は、倉吉における忠義二度目の居場であった。屋敷の規模は、最初の居留地である神坂より、きっと格段に劣ることだろう。神坂は城下町の歴史を持つが、下田中にはそれがない。
 里見家主従は生計を維持するために、知恵と工夫を迫られたことだろう。
 第一印象で、根拠もない話ではあるが、なんとなく、ここが僻地という感覚が思い浮かばなかった。世評というか、同情というか、神坂の屋敷を追い立てられた先の屋敷地という記述や論調は、下田中に対する勝手な思い込みを「悪いもの」に刷り込んでいた。しかし、もし天神川を水利として支配することが出来たのなら、ここは僻地なんてものではない。むしろ商工の拠点になり得る立地だ。美作街道から得るものもあるだろう。
 百聞は一見にしかず。暗い印象を勝手に描いていたが、それらは全て吹き飛んでしまった。甘い憶測をするならば、池田家は捨扶持こそ幕府への立場があり渋ったが、自活の行動を取るなら好きにしてよいという目こぼしを暗黙に与えていたともいえる。生かすかどうかは里見家次第という、格別のお情けがそこにあったのではと、思いを廻らせてしまう。小説家とは便利なもので、こういう推測を、読者が納得する辻褄合わせで成立させることが出来てしまう。ただし、研究者は創作できないから、こういう推理の合理的裏付を求められてしまう。大変だなと、ついつい考える。

 勝宿祢神社の境内は清潔に保たれている。氏子の手入れが肌理細やかなのだと感じた。この鳥居をくぐったすぐ左手に、里見屋敷の案内板がある。
DSC00006.jpg
ここの屋敷区域の想定は、「里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書」に略図として記されている。勝宿祢神社社殿の裏手に、数軒の民家がある。やや狭い生活道路を縫って、その民家の玄関口に回りこむ。そこが、鈴木家だ。こちらのお庭に、下田中里見屋敷跡の碑が立っている。
 田中事務局長は幾度かお伺いしたこともあるようで、鈴木家の方に立入のご了承を頂く。碑の足元には祠があり、榊が飾られている。祠を綺麗にしているのは、既にお亡くなりになられたご主人の頃からの生活リズムなのかも知れない。丁寧な気配りというか、保存しようという心配りさえ感じられた。昔は井戸の跡もあったという。それも既に埋め立てられて、こうして碑だけが、往時を伝える標となっていた。鈴木家の庭からは、なるほど、フェンスの向こうが勝宿祢神社である。ここが古には一体だったことを、静かに頷くのである。
 聞くところによると、下田中には小字名で「里見屋敷」というものがあるという。市役所で確認したわけではないので、事実かどうかは分からないが、察するに、この字内が神坂屋敷以降の里見家に与えられた領域だったのだろうか。残念ながら、碑はそれを語ってはくれない。DSC_0281.jpg   写真提供:田中直司事務局長

 再びタクシーに乗る。
 神坂屋敷のあった方向へと向かう。こういうカルト(苦笑)な乗客には不慣れなようで、本部と盛んに連絡を取り合いながら、運転手は先を進む。しかし、本部の指示で到着したのは、大岳院だった。近くに屋敷跡とされるものがあるが、それは池田家臣・小谷家だった。里見の屋敷跡の行方を調べたら、それは市役所の東側にあった。DSCF2404.jpg
 松原旅館の先に、その看板はあった。道を少し行くと、賀茂神社へ至るT字路がある。見上げれば、鳥取地方検察庁倉吉支部倉吉区検察庁入り口と、その奥の民家屋根の向こうに山がある。
 打吹山。
 かつては城山として機能しただろうこの史跡には、現在、壕跡といった構造物のない名残だけが留まる。山名氏の居城とされ、恐らくは城下に平素の屋敷や、町割が施されたことだろう。あるいは倉吉の現街区に関する礎が、このときに為されたのか。とすれば、里見忠義が最初に見た倉吉の景色は、構造物の違いこそあれ、街区的に現代と大差がなかったとも考えられる。
「いや、そんな安易に云って貰っては困る」
 研究者の諌言は、一々御尤も。こういう推測癖は、小説書きの悪いところだ。
 新田源氏の山名氏が残した跡に、同じ新田源氏の里見氏が立つ。奇縁なことだ。が、倉吉に入ったばかりの里見忠義にとって、奇縁などどうでもいいことだったろう。安房とは異なる気候風土にただただ途方に暮れるだけだったのではないか。
 
 この日の気温は、東京と比べても遜色ない暑さだった。しかも、蒸すような湿度を孕んでいる。基本的に、倉吉の夏はカラリとした暑さだろうかと、疑問を運転手に傾ける。
「いえ、今日みたいな、ちょっと湿度がある暑さですよ」
とのこと。
 ここは日本海に面している訳ではなく、どことなく低い山に囲い込まれた盆地にも似ている。暑さの源は、それだろうかと、勝手に解釈をしてみた。少なくとも、館山の気候とは一致しない。
 里見忠義ほど、気候の変化に富む地で育った人物も珍しい。
 幼少期は豊臣秀吉の人質として、母ともに京や伏見で育った。盆地特有の寒暖の差が激しい京、当時は巨椋池があり淡水湊街の涼夏を得た伏見。その後、家督相続するまで、忠義は安房入りせずに幕府創世記の江戸に留め置かれたと想像できる。新開発真っ只中の江戸は、まだ入り江や溜池の多い湿気地、暑さも一入だ。安房は温暖な気候でカラリとした暑さが特徴だ。きっと、これまでの中で最高の環境を得た心地だろう。それが、倉吉に転封である。
 倉吉は、「くらしよし」という言葉に通じるという。
 果たして里見忠義はどう思ったことだろう。
 ついつい考えてしまうのである。




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倉吉紀行

三連休、南房総におりました。
房州日日新聞、山鹿先生、館山市立博物館にはお世話になりました。
特に博物館の企画展示、いいですよ。ぜひ、観ておいてください~



倉吉紀行その1

平成26年9月5日(金)、時刻は午後9時を回った。東京品川バスターミナルより走り出したバスは、都会の慌しい路上へと滑り出していく。
倉吉へ赴くのは、初めてだ。
そこがどのような場所で、いつかは行かなければいけないという自覚を持ちながら、ずるずると来てしまった。きっかけが欲しかったのだ。そのきっかけを、今回、幸いなことに得ることが出来た。
一ヶ月前、倉吉市から「第29回倉吉せきがね里見まつり」に関する、全国里見一族交流会事業のご案内を頂戴した。そのときは、また多忙を理由にお断りしようかとも思っていた。しかし、いま動かなければ、この先もずっと動けない、そんな気持ちが、自分の背を押す。正直なところ、じっとしていられない性分ゆえ、決断すると行動が早いところが唯一の取り柄だ。やったことのない高速バスの予約を決め、宿を押さえる。あとのことはあとから考えよう。
そうこうして、当日を迎えたのだ。
今回、偶然同じバスにご一緒したのは、全国里見一族交流会事務局長の田中直司氏である。勿論、席が離れている夜行バスでは、会話は儘ならない状態である。やがてバスは、浜松町バスターミナルへ。ここで全国里見一族交流会副会長・里見武利氏が乗車する。
これよりバスは鳥取県をめざして、おおよそ10時間近くに及ぶ旅に出る。首都高速から東名へ、みるみると東京が遠ざかっていく。

事務局長の田中氏であるが、あれ、里見姓ではないと思われた方もおいでと思うので、簡単に補足する。
里見氏は新田源氏の一族であり、その同族は上野国、現在の群馬県に多く派生した。源氏の一族は土着開墾していったその土地を姓に戴き、徐々に勢力を広げていったのである。応仁の乱で有名な中国地方の大大名・山名氏もこの新田源氏である。そして田中氏も、新田源氏だ。里見一族会は、こういう血族を広く包括している。余談であるが、田中の系統を下れば、茶人・千利休にも行き当たるという。事務局長は、その系譜の方なのである。

バスでの就寝というのは、慣れぬ身にはかなり辛い。まどろんでも、浅い眠りは、ちょっとした振動ですぐに現へと引き戻す。当然、寝ているようで、寝ていない、妙な境地に身を置くこととなる。
 この曖昧な睡眠のなかで、一瞬、夢をみた。里見研究をされている、日頃よりご指導を賜る学識ある先生方のお姿だ。そのなかに、いまは亡き川名先生のご尊顔もあった。この川名先生とは、一面識もない。里見を素材として執筆する機会を設けたとき、既に鬼籍におられたからだ。そのご尊顔は、残された膨大な資料書籍から得た情報だろう。事実、「里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書」をギリギリまで読んでいたし、この旅にも携行している。それで頭に刷り込まれていたのかも知れないし、恥じぬ取材をしようと意識していたこともある。
t_satomitadayoshi.jpg

「里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書」は読み込んでヨレヨレになり、白い表紙も手垢で汚れていた。来月、館山に行ったとき、新しく買い改めよう。
 
 カーテンの向こうが明るくなってきた。寝ている乗客もいるので、そっとカーテンの隙間から車窓を覗く。「武蔵の里」という看板が目に入る。佐用あたりだろうか。やがて、鳥取駅が近づく。既に通り過ぎており、当たり前なのだが、東へ向かう道路の案内板に京都の文字が白く眩しい。ああ、中国筋にやってきたという自覚が、静かに湧き上がってくる。
 バスの乗客は、鳥取駅で大半が下車する。
 砂丘もある。観光名所も多いし、なによりも地方都市として発展している。乗客は仕事や帰省と、多岐な理由を抱えていることだろう。僅かに残る乗客も、こののち倉吉を前に途中下車していくこととなる。
 さて、鳥取といえば、ここに入府した池田家によって、倉吉の里見氏も生活を一変させることとなる。幕府の命令だから、まあ、池田家そのものに罪はない。が、里見忠義の倉吉生活が先細りになるきっかけとなる事実も認める必要がある。
 鳥取城は駅のターミナルを出て、ビルの拓けたところから望める。こんもりとした、大盛りの飯のような形相の山頂にあった。ここから領内は一望できよう。かつては織田帷幕の一人だった羽柴秀吉によって、悲惨な兵糧攻めの舞台となった地も、池田家が来た頃には、今は昔の出来事である。
 里見の運命を変えた強大な幕府権力に代わる象徴。
 それが、鳥取城だった。

 バスの旅は鳥取よりおおよそ40キロ。その距離は、例えるなら東京新宿から青梅あたりに匹敵する。この行程は日本海を右手に進む。白兎海岸は神話をいまに語り継ぐ神聖な場所だ。現在のバスルートは、この海岸に近いルートを行く。
 里見氏が倉吉にいた時代。鳥取への往還はどの道を用いていたのだろう。たぶん、古い道がきっとあった筈である。里見氏が二度に渡る居留地移転をする、その沙汰をもたらしたのも、きっとその街道だ。死した里見忠義は幕府の検死役を以てようやく荼毘に付されたとされるが、そのときも鳥取から倉吉にきたことだろう。
 このたび、知りたいと思う情報のひとつである。

 はわい温泉、三朝温泉と、案内看板が出てきたら、いよいよ倉吉は目の前だ。

 この二日間、何が待っているだろう。楽しみでならない。
 午前7時代の倉吉駅に、ゆっくりと、降り立つ。今日は天気に恵まれそうで、嬉しい。DSC00003.jpg  追伸。「里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書」は9月14日に館山市立博物館にて再度購入し直しました




2014年、里見メモリアルイヤー。
盛り上がりの、ご開帳です。





戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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  1. 2014/09/15(月) 21:45:21|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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新連載「夏の波濤」

報告が遅くなりました。
あらためまして、新連載のお知らせです。

「夏の波濤」
房州日日新聞にて9月10日から連載が開始されました。

挿絵は、前回の「春の國」を手掛けてくだされた山鹿公珠先生。
前回は
「素晴らしい挿絵で、よかったです」
「素敵な絵でした」
「絵が綺麗」
という読者の声8割に支えられて、おんぶにだっこの、情けない状態でした。
今回は、少しでも文にお褒めを貰える比率を高めて行きたいと思っております。

今回は、試みとして、様々なエッセンスを盛り込みました。
里見正史に寄り添いながら、信長・秀吉・家康の時代の空気。数多の武芸者との緊張感、茶の湯、地震津波といった気象の歴史等々。その手のプロや本職の方からは、一側面しか断片的に描いていないことを厳しく苦言賜るだろうことも覚悟しなければいけません。
小説は事実ではなく、娯楽であり、機微なフィクションも織り交ぜております。
しかし、読者にとって、鵜呑みにして
「事実は違う!」
とお叱りを頂く土壌であることも事実です。
過日、倉吉で平岩弓枝先生の講演を聴講しました。
作品を描くうえで、沢山の方々とお会いし、助けて頂き、厚情を賜る。これに応えていかなければ行けない、その心得を教えて頂いたばかりです。
こういう作品を書けることは、幸運です。
その恩に報いるための、いまは出発点に立たせてもらいました。

作品を発表できる機会を与えてくださいました房州日日新聞社に心から感謝します。

房州日日新聞HP
遠方でも、気になりましたら購読してみてください。
南房総、いいところですよ。

頑張ります


本編を無事に倉吉までつなげることが、当面の戦いです。IMG (8)
  1. 2014/09/13(土) 10:07:24|
  2. ご案内
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倉吉、行ってきました。

ただいま戻りました。
得るものが多かったです。そして、疑問が増えました。
学者ではない感性なので、そういう立場の方からは苦笑される疑問かも知れませんね。

DSC00008.jpg

少しずつ、丁寧に、疑問を解きほぐして、
明後日からの新連載につなげようと思っております。

房州日日新聞をご購読の皆さま。
お待たせしました。
明日、ご案内が載せられる予定と思われます。

倉吉の実り多き旅の記録は、このblogにて、おいおい記したいと思います。
いまは、荷物の整理をしておりますゆえ。

尻の温まる間もなく、
三連休は、安房のどこかにおります。
もし見かけましたら、ご感想を、そっと教えてください。

2014年、里見メモリアルイヤー。
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  1. 2014/09/08(月) 21:15:20|
  2. 里見関連広告板
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いよいよ倉吉

あと22時間経ったら、高速バスに乗ります。
お初の倉吉、じっくりと見聞を深めて参りますよ。
2014里見チラシ-3
画面をクリックしてくれ。全体が表示されるぞ。

里見忠義公 伯耆国倉吉入封400年―「南総里見八犬伝」刊行200年―記念関連行事
とりあえず9月6-7日行事には、参加の予定です。
西国の勇者よ、夢酔を見つけたら、どうか声をかけてください。励みになります

そして、安房の皆さまにお知らせです。
房州日日新聞にて、いよいよ来週から夢酔の新連載がスタートです。
連載開始日は、誌面を要チェック

10月も目白押し。
satomi_banner2.jpg
公式サイト
こちらにも、夢酔は行くよ。
maingazo3-624x227.png

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  1. 2014/09/04(木) 22:53:53|
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