散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見賢臣列伝】岩崎与次右衛門

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
でも、それだけでは納まらない魅力な人材は、まだまだいるんですよ。
本当の意味での8人を選ぶのは、皆様ひとり一人の熱い想いかも知れません……!



第十三 岩崎与次右衛門


 天正一二年四月、里見義頼は商人・岩崎与次右衛門に館山城下沼之郷へ屋敷を与えた。この商人は里見氏の臣下のように組み込まれ、やがては交易を支える館山城下商人頭取となる。
 この時代、織田信長が本能寺で斃れ、羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手で覇権を巡り激突した頃で、関東は天下の情勢に一歩遅れていた。
 やがて秀吉が天下人へ向けて、大きく一歩を踏み出そうとしたとき、里見氏は、いち早くそれに歩み寄った。
 商人の情報は諜報の基礎である。
 里見氏の耳となったのが、まさに岩崎与次右衛門等商人のネットワークだった。

 里見義頼の死後、新たな当主・義康は、躊躇いもなく、館山城移転を推し進め、城下の街割りや湊の采配に、岩崎与次右衛門の意見を取り入れ実行していった。岩崎与次右衛門にとって、若年なれど侮れぬ主君として、この両名の関係は阿吽のように綿密なものとなった。
 小田原征伐ののち、上総国召上げの混沌期にも、岩崎与次右衛門の内助が里見家の混沌を避けたといっても過言ではない。
 やがて、太閤検地が安房でも行われた。
天正一八年九月一三日昼過ぎ、五奉行の一人として知られる増田長盛の乗る舟が鷹ノ島へ停泊した。里見義康は、主立った家臣を従えて湊に出迎えた。
「安房守殿自ら、恐れ入ります」
 増田長盛率いる検地代官の決定は絶対だ。家臣一同は緊張を隠せない。
「我が手の者ともども、逗留先はどちらになりましょうや?」
 増田長盛の言葉に、里見義康は傍らの岩崎与次右衛門を指し
「この者は商人の束ねを任せている者にて、逗留の間は何なりと」
 岩崎与次右衛門は慇懃に挨拶し、寝食の世話をする旨を申し伝えた。
「いや、家臣の知行割に不服の声が出ては困るため、こうして商人の力に頼った次第です」
 義康の言葉に、増田長盛は感心した。
「それは、なかなか気づかないことです。そうして頂けてると、有難い。何をしても贔屓だ不公平だと恨まれる仕事ゆえ、中立の者の世話になりたかった。さすがは安房守殿です」
 このときの精勤ぶりは、さすが安房商人よと、上方の人間をも感嘆せしめたという。

 秀吉の天下は、束の間の出来事だった。その間に、大陸出兵や伏見築城など、目まぐるしい出来事に、里見氏も翻弄された。
 やがて、秀吉は往生する。

「そうか、太閤殿下はお亡くなりになったか」
 岩崎与次右衛門の報告に、里見義康は静かに呟いた。
 商人の嗅覚は敏感だ。戦さや損得話はちょっとした間者顔負けである。
 慶長五年。
 関ヶ原の陣営に、里見義康は徳川家康を選択した。これが功を奏した。安房一国の里見氏は、飛び地恩賞として鹿島の地を頂いた。

 里見義康が急逝した慶長八年一一月一六日。この年、日本の歴史は、ひとつの大きな転換を迎えた。
 徳川家康の征夷大将軍就任。
 これにより、里見の新当主・忠義は、徳川家のもとで生きていくこととなる。
 翌年一二月一六日、東海南海西海を震源地とした巨大地震が発生した。世にこれを〈慶長の東海・南海地震〉という。
 犬吠崎から九州までの太平洋沿岸に津波が来襲し、八丈島で死者五七名。加えて紀伊西岸広村で七〇〇戸の流失。阿波宍喰で死者一五〇〇名。土佐甲ノ浦で死者三五〇名そして室戸岬付近で四〇〇名以上が死んだと記録される。
 房総半島の被害は、当然のことながら沿岸部を中心に甚大である。
 発生場所は駿河湾から徳島沖、今日でいう〈南海トラフ〉と呼ばれるところで、津波による被害が甚大とされ、陸地の揺れが小さかったと伝えられる。このときの津波は、夕方から夜にかけ、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せたらしい。
 この震源地は、阿波沖および房総沖の二箇所というのが、一般的な観測記録である。
 房総半島東岸および伊豆半島に押し寄せた津波の高さは、ところによって約五間半(一〇m)以上、特に房総沖が震源であるため、発震から間もなく襲来した。しかし、房総半島における地震の記録はあまり残されていないため、この地震の現地仔細は伺い知れない。
 この被災状況、『房総治乱記抄』によると、次のとおりである。
『慶長九年一二月一六日大地震山崩れ海埋て丘となる。この時安房上総下総の海上俄かに汐引きて、三〇余町干潟になること二日一夜、続いて一七日子の刻沖の方大いに鳴動して汐大山の如く巻上り、浪は山の7分に打ちかかる。
早く逃ぐる者は遁れ、遅く逃ぐる者は死たり。この汐災に遭いしは辺原、部居浜、小湊、内浦、名太、江見、和田、御宿、岩和田、岩舟、和泉、東浪見、一宮、一松、牛込、反金不動堂など四五ヵ所なり。』
 この震災復興にあたり、岩崎与次右衛門は寝食を忘れて励んだ。館山城下の復興なくして里見の屋台骨は立て直すことができない。この努力に、忠義も感謝を繰り返した。
 こうして里見との二人三脚で励んだ岩崎与次右衛門であったが、その運命が大きく変わる出来事が起きた。
 里見氏転封。
 減封であり、家臣のすべての扶持もままならない。この騒動の結果、転封先も変わり、最終的に因州倉吉と決した。
多くの家臣が口減らしのため、浪人の道を選んだ。岩崎与次右衛門の道もひとつしかなかった。
当主不在の安房を抑えるのは、大家老の堀江頼忠である。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと、暇乞いを申告してきた。そうはいうものの、口減らしの覚悟は重々誰にも伝わっている。新しい領主は徳川の臣下だろう。きっと、虐げられるに相違ない。
去るも地獄、残るも地獄、彼らの覚悟は並々ならぬものだった。
 安房の商人衆は、大半が残留する道を選択した。口減らしは多く、そして早い方がいい。商人を代表して、岩崎与次右衛門が館山城を訪れた。
「余所では商いの旨味がございませぬ。里見との御縁も、ここまでということで」
応じる堀江能登守頼忠は、その憎まれ口の心底を悟り、黙ってこれに応じた。引き留められることを嫌い、殊更嫌味を口にする与次右衛門である。里見家と寄り添い発展してきた彼は、どんなに辛い立場だったろうか。
 同じように、海将の多くが禄を捨て、浪人の道を選んだ。倉吉では水軍も役には立たぬ。どこかに仕官を探すしかない。移転を嫌い、このまま土着帰農する道を選ぶ者もいた。
 次々と、人が去っていった。
 名のない兵卒の大半は農民や漁民である。里見家では兵農分離の余力がなく、従って彼らは新生活を望んではいない。現実は、実に厳しい。その程度では、口減らしにもならないのだ。困窮することは、必至である。

 その後、安房は徳川の代官が治世を行った。
 岩崎与次右衛門は前歴を評価され、名主として、城下の商人や浜の漁師たちの取締を行い、生涯を終えた。




 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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【里見賢臣列伝】印東房一

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
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第十二 印東房一


 どの家中でも、滅亡に際し、佞臣に仕立てられる者は少なくない。里見家にも、その不幸な人物がいた。
 印東采女佐房一。
 里見家を崩壊に導いたという、在られもない罪を張られた彼の真実は、その悪評とは真逆の忠臣であった。

 印東房一は里見忠義が幼少の頃から仕えていた。忠義は秀吉の存命中は伏見、死後は江戸に留め置かれ、安房へ入ったのは父・義康急逝による家督相続よりのことだった。
「案ずるに及ばず。殿のことを誰もがお支え申すことでしょう」
側近のひとりとして、印東房一は忠義の不安を払拭するよう腐心した。当主の世代交代には、少なからず家臣の処遇が左右される。古い側近に変わり新しい側近が台頭するためだ。義康時代に表へ出る機会の少なかった印東房一は、その例に洩れることなく、里見の内政の重きを担うのである。
 幼少の当主が据えられた際、得てして家臣が重きを負い、ときとして主義主張が割れて派閥を構成し対立することもある。里見家はまさにその状況となっていた。
 印東房一は保守派として、正木時茂に与していた。しかし、大きく国内を改革し、世代交代とともに時代に合わせた政策を一新する必要があった。この改革派の筆頭が、堀江頼忠等である。
「このままでいい筈もなし」
と、堀江頼忠は派閥を越えて訴え続けた。これに印東房一は応えた。結果的に、印東房一は保守派から、裏切り者と罵られる恰好となった。
 保守派の里見揚安斎は房一にとっては、妻の兄にあたる。里見揚安斎は妹に詰め寄り、強引に房一と離縁させ岡本四郎兵衛頼重に再婚させた。これでは哀れであると、堀江頼忠は妹を印東房一に嫁がせた。
この家中が割れた状態が、里見家にとって、よい影響を及ぼす筈がない。内政の滞りは様々な形で領内を不安定にする。
 この当時、里見忠義は徳川幕府における大久保派という派閥に属す。派閥争いは徳川家でも行われており、その厄介なしがらみに多くの者が難儀していた。里見忠義の妻は、その派閥の中心である大久保忠隣の孫である。
この派閥の均衡が動けば、里見家は充分に巻き込まれることとなる。そのきっかけが、大久保長安事件と呼ばれるものだった。大久保派はこれにより、失脚への道を歩むのである。里見家は、内輪で揉めている場合ではなかった。
慶長一九年(一六一四) 九月六日の昼、忠義は幕府の御召しで江戸に赴いた。大久保仙丸(忠職)の屋敷にて待機するよう忠義は幕府の沙汰を得た。
 忠義は疑いもなく屋敷に入り、明日の沙汰を待った。しかし、二日経っても音信のないことに不審を覚えた忠義は
「済まぬが、将軍に伺いを賜れぬものか」
 大久保家の家臣にそう打診した。結局、何の音沙汰もなく、九日を迎えた。この日になって、ようやく訪れた幕府の使者が延べた言葉に、里見忠義は耳を疑った。
「上意により安房国を召し上げ、常陸鹿島領三万石へ減封にて候」
 里見忠義はどう考えていいものか、混乱する脳裏のなかで、これが大久保長安事件の余波であることを、次第に理解していった。
 安房一二万石から鹿島三万石、これは過酷な処分といってよい。あたら家臣を手放さなければ、領内を立て直すことも適わない。
 安房召上げおよび鹿島減封の沙汰は、館山城へも速やかに伝わった。留守を任されている堀江能登守頼忠は、大家老としてこの青天の霹靂を現実として享受し、領内に具体的な指示を行う大任を負ったことになる。
「納得できぬ」
 強行派は大騒ぎした。
 もともと武断派として、山本清七や里見揚安斎を中心につくられた派閥が、真っ先に声を挙げ、せめて一戦に及ぶべしと息巻いた。
 しかし、結果として、主君を江戸の人質とされている以上、里見家臣団は恭順せざるを得なかった。
「いまは大家老の采配に、皆々従うしかなかろうて。神妙に承るべし」
 混乱する城内に向けて、印東采女佐房一が檄を飛ばした。大家老の山本清七と堀江能登守頼忠の言葉に、一同は耳を傾け凝視した。
 里見家は大久保派ゆえ、必然のなかで被った本多派からの報復というよりない。
「上州板鼻の讃岐守殿の改易は去年のことである。これも報復の声が高い。我らは取り潰されることなく減封である。まだ、ましと忍従することこそ肝要なり」
 印東房一の言葉はもっともだ。さりとて、人はそれほど物分かりのよい生き物に非ず。ましてや印東房一は家中で人気のある者ではない。よき言葉さえも素直に響かぬところがある。
「采女佐殿が御館の采配を誤らせたのではないか?」
 譜代と異なり、印東房一は忠義幼少からの付人上がりである。一門衆は彼を疎んでいた。
「采女佐殿の申し分におかしなところはない。また、采配を曲げた根拠もない。いまは私的な物云いを控えられたし」
 堀江能登守頼忠が割って入った。
 それでも不服そうな武断派は、堀江頼忠にさえ噛みついた。
「斯くなる上は、城を枕に幕府へ抵抗すべし」
 里見揚安斎が呻いた。
「それこそ幕府の思うところなり」
 堀江能登守頼忠が反論した。
「減封は手心である。これに応じなければ、里見家改易は必定!」
 改易という言葉の重みは大きい。
 里見揚安斎が堀江頼忠へ悪意を向けるのは、私的なことだ。かつて妹婿だった印東房一が堀江頼忠の妹も妻としたことで、揚安斎は両名と険悪になったのである。房一から妹を離縁させ、岡本四郎兵衛頼重に再嫁させたことで、里見家中を二分する元凶としたのは、紛れもなく揚安斎だ。
私怨は、仕方ない。しかし、この場では、大義を語る堀江頼忠の云い分が正しい。
「我らが心得ることはただひとつ。御館の御身こそ、第一義なり。たとえ墳墓の地を失おうとも、里見の家は断じて残す。これが、我ら家臣の忠節なり」
 一二万石から三万石。各々の俸禄を七割召し上げ、なおかつ、浪人も出さねばならない。苦衷の決断だ。
さりとて、他に道はない。
「江戸に御館の身柄がある以上、滅多なことをしてはならぬ」
 武断派を代表して、山本清七も、血を吐く想いで、強く叫んだ。こうなると、もはや里見揚安斎とて私怨を胸中に押し留め、為すべきことを最優先に考えざるを得ない。
 城内のいたるところで、啜り泣く声が満ち溢れた。
「無念」
 ただただ、その言葉以外に例えるものはない。
 こうして、家臣団は黙々と、各自荷造りするため屋敷へと去っていった。
 館山城に幕府からの追加伝令が駆けつけたのは、翌日のことである。
城受取りの及び破却の使者として、内藤政長・本多忠朝が軍勢を率いて来るとの報せに、城内はざわめいた。
内藤政長・本多忠朝の出立は、九月一三日のことである。
 血気に逸り武力を用いぬよう、堀江頼忠は領内に檄を発した。蛮勇は一時のこと、それで全てを損なうことに繋がる。恭順の徹底を、頼忠は繰り返し叫んだ。
 すべては忠義のためである。
 一二万石から三万石へ減封されることは、深刻な問題だった。
 すべての家臣を賄える禄高ではない。浪人を出さねば立ちゆかず、しかも、留まりし誰もが、いまの扶持の七割を返上しても苦しい台所となる。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと、暇乞いを申告してきた。そうはいうものの、口減らしの覚悟は重々誰にも伝わっている。新しい領主は徳川の臣下だろう。きっと、虐げられるに相違ない。
去るも地獄、残るも地獄、彼らの覚悟は並々ならぬものだった。重臣たちは白装束で、内藤政長・本多忠朝の両名を迎え入れた。
「安房より鹿島への減封を謹んでお受け申し上げます。何卒、江戸に留め置かれる御館の御身をお返しあれ」
 重臣を代表して、堀江能登守頼忠が口上した。
「上意である」
 本多忠朝は懐より書状を掲げ、ゆっくりと広げていった。
「館山城を没収し、破却すべし。破却は徳川の手で行い、里見の臣下は鹿島領行方郡への転居を急ぐべし」
 悔しさは拭えないが、誰にも異存はなかった。
「謹んでお受けします」
 堀江頼忠の震える声が、重臣一同の一致した無念を表していた。
 九月二〇日。里見重臣を代表して、堀江能登守頼忠・山本清七・板倉牛洗斎が陣所に呼ばれた。三人は内藤政長の言葉に、言葉を失った。
「鹿島転封を改め替地を沙汰する」
 その替地は、無縁の遠国だ。
「倉吉ですと?」
 穏和な表情を失った堀江頼忠が、噛みつくように理由を質した。内藤政長もつらいのだ。接収の最中に、江戸から追って報せが届いたばかりなのである。。
 この国替にあたり、印東房一は安房に留まる道を選んだ。
「口減らしは、早い方がよろしゅうございます」
 里見家の禄を離れた印東房一の、その後の足跡は定かでない。




 資料に乏しい中での小説です。
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  1. 2014/04/19(土) 17:57:45|
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【里見賢臣列伝】ふたりの兵法指南

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
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第十一 ふたりの兵法指南


 どの戦国武将も、兵法指南役を用いるものである。これは当主自らの鍛錬のためでもあり、あるときは組織の調練のためでもある。
 兵法者は仕官の先を求めて諸国を放浪する。放浪しながら己の武芸を磨き、それを用いてくれる主君を探す。御家付となっても、新たな兵法者に取って代わられることも少なくない。
 戦国時代の関東は、塚原卜伝や上泉秀綱等、優れた兵法者の坩堝であった。
 里見家もまた、兵法者を召し抱えていたことが、記録から伺い知ることが適う。

 里見義頼の頃、里見家兵法役に任じられていたのは、木曾庄九郎という人物だ。
念流の使い手である。
 念流は、応仁の頃、もと臨済宗の 僧上坂半左衛門安久が太刀先に一念をこめる極意に達して創始したとも、また僧・慈恩(俗名相馬四郎義元)が京都鞍馬山で剣術を学び創始したともいわれる。念流・神道流・陰流といった剣術流儀を指し、〈兵法三大源流〉ともいわれる。
 木曾庄九郎はその使い手だ。
 彼のことは表の歴史であまり知るところではない。講談本で登場することもある。里見義弘家臣・木曾庄左衛門の子で、岡本に道場を設けていたとあります。が、講談は娯楽の虚構も多く、このあたりは信憑性を問うところではない。彼は、義頼の時代から改易されるまで、里見家の兵法指南を務めた。里見から去ってのちに、新しい流派創設に苦心し、〈源流〉の創始者となる。

 里見義康の頃に鹿島三万石が加増となり、兵法者をそこから求めた。このとき木曾庄九郎はそのまま留めたため、記録では、里見家はふたりの兵法指南を置いたことが理解できる。

 鹿島より迎えたのは、塚原五左衛門。
 新当流の使い手である。『鹿嶋志』によると、新當流(新当流)の元になったのは、鹿島の太刀という名の上古の時代から伝わる兵法だ。塚原卜伝によって新当流の名は勇名を馳せた。
塚原五左衛門はその名の示すとおり、恐らくは卜伝の係累だろう。
 この塚原五左衛門を兵法役に据えた際、義康は試合を以て人材を発掘したと考えてよい。加増の新領地から人材を引き上げることで心服させる。里見義康は人心掌握術に長けた人物だった。
 このときの試合は、きっと家中を賑やかとしたイベントだったに相違ない。

「武芸盛んな土地である。兵法指南を志すなら家柄に関わらず、申し出させよ」
 義康の言葉をそのまま伝えると、応募者が殺到した。この報せににやりとした義康は、木曾庄九郎を差し向けて、人材発掘をさせた。
 木曾庄九郎は面倒を省くため、自らが木剣を持って吟味し、選抜した者等に試合をさせることとした。
 鹿島の腕自慢は、こうして館山にやってきたのである。
 木曾庄九郎からの報せでこのことを知った義康は、館山城内に試合場を設けさせ、陣幕で囲んだ。こういうことは万人受けすることではないので、人の目から遮断するつもりだった。ところが、里見家臣団のなかでも観戦の要望が存外高いことが判明した。
 会場は急遽、北条の浜に移された。ただし、陣幕を張るのは海風を避ける為である。
 初夏の北条の浜は、異様な熱気に包まれていた。茶屋や餅屋が俄に店を構えるなど、まさしく祭の様だった。
「なんだ、家臣領民こぞって武芸好きだったなどと、今まで知らなかったぞ。先代も年寄りも教えてくれなんだ」
 そういって、義康は笑いながら床几に腰を下ろした。
 その両脇には甲冑武者、槍武者、鉄砲武者が控えている。この用心は、仕方のないことだった。
「鹿島の武勇、しかと見届けたい」
 義康は言葉少なく、木曾庄九郎の選抜した面子を見渡した。
「御館、暫く!」
 正木弥九郎時茂が進み出、今度のことは神事の如し、鹿島大宮司家に家臣・緒形加賀を使者に立てたと報告した。これが遺恨の場であってはならぬとも告げた。
「是非もない」
 義康は笑った。
 かくして、武芸者たちの試合が始まった。木剣とはいえ、死者が出ることもある。そのため勝負が見えた時点で、木曾庄九郎が割って入れるよう支度していた。
「はじめ!」
 木曾庄九郎の掛け声で、武芸者たちは気合いを発した。総当たりの筈だが、負傷につながれは、落伍と見なす。
 順当に勝ち残った人物は、風体は冴えないが、気負いもなくどんな剣気も受け流す不思議な存在だった。
「あれは何者か」
 義康は傍らの者に訊ねた。塚原五左衛門だと、やがて答えがあった。皆々歩幅を広くとり、肘を前方に出す姿勢を取る。これが鹿島新当流の構えなのだろう。そのなかで、塚原五左衛門の動きには素人目にも淀みがなく映った。気がつけば、塚原五左衛門の一人勝ちだった。
「天晴れなり。塚原五左衛門を里見家兵法師へ新たに加える。なお、鹿島衆は新参なれど下に置くものではないと心得よ。まずは鈴木対馬入道を安房に引き上げ、調整役となす」
 義康の沙汰に、誰も文句はなかった。
 試合に勝った塚原五左衛門は、その日、さっそく館山城に招かれ義康直々に杯を賜った。
「今後ともよろしく頼む」
 義康はそういって微笑んだ。
 塚原五左衛門は不思議そうな表情をした。
「安房守様は、見栄とは無縁なのでござりますか?」
「見栄?そんなもので家臣が潤うなら、いくらでも見栄を張りたいものだ」
 そう云って、笑った。
 この笑みに、人は惹かれる。塚原五左衛門もこのとき以来、義康に惹かれた。
「塚原とは、あの卜伝の流れか?」
「姓は同じですが、足下にも及びません。未熟者です」
 塚原五左衛門は謙虚な物云いだ。義康はそれが気に入った。
 この日以来、里見の兵法役は、新当流の塚原五左衛門、念流の木曾庄九郎の二名となった。

 こうしてふたりの兵法指南が里見家に誕生した。それよりおよそ一〇年ものちに、里見家は安房を没収された。倉吉へ赴く家臣団のなかに、ふたりの名はない。



 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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【里見賢臣列伝】二代目・正木時茂

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第十 二代目・正木時茂


 天正六年五月二〇日、里見左馬頭義弘がこの世を去った。
 この死が、里見の後継者争いの発端となる。
 天正八年四月、里見義頼はこれを平定し、内乱は終息した筈だった。
 しかし、平定後間もなく、小田喜城主・正木大膳亮憲時が反旗を翻した。
 正木氏は伝説の家臣・時茂ゆかりの代々里見を支える一族だった。これの離反を誘因したのは、里見の弱体化を望む北条氏の調略ともいわれている。彼自身が独立を望んだところで、里見に取って代わることは難しい。ただ、一六年前の国府台敗戦で、正木氏は当主・信茂を討たれて散々な境遇にあった。憲時はそのことを苦々しく思い続けていたのかも知れない。
 しかし、正木家挙兵は、大義名分に乏しいものだった。家臣のすべてが正木憲時に賛同したものではない。
 里見義頼の攻撃に小田喜城は陥落し、憲時も最後は家臣に背かれて討たれた。里見家臣中、もっとも重んじられた御家の末期にしては、なんと呆気ないことだろうか。
「これでは、なんとも偲びない」
伝説の家臣・時茂ゆかりの御家断絶を惜しんだ義頼は、次男・別当丸にその名跡を継がせる決心をした。
「幼子に過酷なことを!」
その生母が悲鳴を挙げた。
「ゆえにそなたが補佐せい」
 この生母は時茂の娘だった。つまり、正木の直系である。義頼との間に産まれた子は、充分な名跡相続の資格がある。そういう大義名分も、彼女の補佐で成立する。
実家の断絶を惜しむ心が勝り、とうとう別当丸は正木家の跡を継ぐ。この別当丸こそ、のちの二代目・正木時茂となる。

 時茂は正木の名跡を継いだのみならず、長ずるにあたり、小田喜の領民に慕われる才覚を発揮していった。父・義頼が病没し、兄・義康が家督を継いでも、正木家の者という分を弁え、主家を支える立場に徹した。
しかし、小田喜領主という立場は、長く続かなかった。
 豊臣秀吉の小田原征伐において、里見氏は上総を召し上げられた。小田喜は上総に含まれるため、時茂も安房へ引き上げねばならない。この屈辱に耐え、沈む家臣を叱咤しながら、時茂は里見本家を盛り立てるため、その後も尽力する。
 小田喜は徳川四天王のひとり本多忠勝が入城し、今日の大多喜という地名に改められる。

 里見家にとって幸いなことに、この時期の当主・義康は類稀れなる才覚で、中央政権と渡り合ったことだろう。秀吉・家康といった大物と懇意を取り結んだことで、少しずつ安房国内も落ち着きを取り戻していった。この兄の影のように、正木時茂は内政や外交の補助に勤しんだ。
 やがて、豊臣秀吉は没した。
 義康は家康に接近し、関ヶ原のときも宇都宮に留まり上杉南下を阻んだ。
 時茂は何においても兄を慕った。子のない彼は、自身同様、里見当主からの養子を得て正木の家督を望んだ。養子は義康の次男である。その養育は、時茂生母・龍雲院が請け負った。

 里見義康も短命だった。
 その急逝ののち、跡を継いだ忠義は僅か一〇歳。里見本家のため、立場上、時茂は里見の副将のように立ち振る舞う必要があった。
 世は江戸に幕府の開かれた徳川の時代である。二代将軍・徳川秀忠に偏愛された忠義であったが、その反面、徳川家の派閥争いに巻き込まれる憂き目も避けられなかった。
 大久保忠隣と本多正信の対立。
 この派閥争いで里見忠義の婚家・大久保氏は敗退した。この報復が里見家にも迫っていた。
 正木時茂が里見の要と、本多派は目をつけた。ただちに時茂は駿府に招集された。追って忠義も江戸に招集された。正副両翼を人質として、里見家は安房を没収された。
倉吉に転封された里見忠義を、正木時茂は支えた。しかし、その補佐を奪うように、徳川家康は時茂を駿府に呼び寄せ幽閉する。
 里見家はこの倉吉で断絶した。
 忠義の死後、家康は時茂に里見再興を迫るが、遂にこれを承知しなかった。家康死後もこの再興打診は続いたが、時茂はこれを固辞し続けた。
 倉吉を統治する池田家預かりとされた正木時茂は、最後まで意地を張り続けて、この世を去ったとされる。
 



 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

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上記「里見氏大河ドラマ化実行委員会HP」において、2014年4月3日から、夢酔の小説が連載開始!毎週木曜日に更新されます。どうぞ末永く御愛顧賜りますようヨロシクお願いします。里見氏を皆さんに知って貰いたい一心での、試みです。このblog同様、御愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2014/04/05(土) 16:56:32|
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