散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

【里見賢臣列伝】淳泰

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
でも、それだけでは納まらない魅力な人材は、まだまだいるんですよ。
本当の意味での8人を選ぶのは、皆様ひとり一人の熱い想いかも知れません……!



第九 淳泰


 里見義弘の後継者政策は、後世からみても決断力に乏しく抽象的だ。もともと後継者にと迎えた筈の、養子で弟の義継に対し、育てた足跡もよく見えていない。その甘さの中で継室に実子を為すことも甘い。
 その甘さが、後継者を曖昧にした。
 それでも、最後は実子に情が傾くのだろう。まず義継を岡本城に据えて安房を任せた。手元で薫陶せず、放任とも思える。が、義継は安房を上手に采配した。天性の才だろう。安房の国人は将来の家督相続者として、義継に心酔し信頼を寄せた。
 が、義弘は非情だった。
「義継をあらため義頼とすべし」
 これは世継ぎではなく、世継ぎを頼めという意味だ。つまり、実子・梅王丸を立てろと、義弘は決断したのである。
「左馬頭殿もご無体な」
このときより、安房衆が義弘に疑いを示し、義継あらため義頼を立てるようになった。その背景には、小弓公方派の意が込められている。先代・義堯の代に、小弓公方足利家は安房に庇護され、土着している。彼らは足利再興の希望を里見に託していた。が、義弘の継室は、その宿敵たる古河公方家の姫。
 義弘の決断には、慎重さや家中根回しという政治的な配慮に落ち度があった。
事実、上総と安房を割る雰囲気が漂い、しかもその修復を試みる義弘の叡慮が見受けられない。自身の病による焦りがあったのだろう。或いは安房上総の対立気運を軽視していたのかも知れない。
「儂が決断したからには、従って然るべし」
 そう発した言葉が素直に安房衆へ響かない理由を、義弘は探求しなかった。
 安房衆は犬掛合戦以来、義堯に心服していた。義堯は安房衆と苦労をして上総を攻め取ったのだ。しかし、義弘は若くして上総佐貫に身を置くことが多く、水軍動員以外の安房衆との交わりが浅い。
 里見の忠節は、偏に義堯への忠節。
 不覚にも、義弘はそれに気付いていなかった。

 天正六年五月二〇日、里見左馬頭義弘がこの世を去った。
「大酒故臓府やふれ候」
と妙本寺住持・日我が書き残すように、死因は中風であった。
 安房から義弘の焼香に参ずる者はなかった。この死が、里見の後継者争いの発端となる。
 当主の用いる印判が佐貫城にあり、そこに梅王丸がいるということで
「正当は上総殿(梅王丸)に候えや」
と古河系家臣団が擁立に走った。
と同時に、義頼こそ謀叛を企てていると並び立てて、過激を煽動する上総側の家臣団も現れた。義頼は小弓公方勢力や安房国内勢力の旗頭として
「このまま捨て置けば、北条の餌食となるは必定。ゆえに力で平定するもやむなし」
と、ついに挙兵せざるを得なかった。
 義頼は心を鬼にして、安房統一に踏み切った。
 天正八年四月、久留里・千本・造海の諸城を陥落し、その月末には佐貫城を陥落して、梅王丸を捕らえた。幼い梅王丸は幾重もの軍勢に囲まれて、岡本城内へ幽閉された。これにより里見の内訌は鎮まる筈であった。
 が。
 平定して間もなく、小田喜城主・正木大膳亮憲時が反旗を翻し、里見からの独立を企てた。尻の温まる間もなく出兵した義頼は、翌年、小田喜城を陥落し正木憲時を討ち滅ぼした。
 正木氏は伝説の家臣・時茂ゆかりの代々里見を支える家系であり、それの断絶を惜しんだ義頼は、次男・別当丸にその名跡を継がせた。のちの二代目・正木時茂である。この時茂は里見の眷属として、その兄・義康を支えたとされる。
 梅王丸は幽閉先で出家を条件に命存えた。
 法名を淳泰という。

 上総国琵琶首館。この要害は養老川の断崖に三方を囲まれ、西側の台地基部方向は岩盤むき出しの、城館を築くにはもってこいの場所であった。
 ここに、梅王丸こと淳泰の母と妹がいる。
 城館を築くに長けた場所は、幽閉所としても秀でていた。ここに彼女たちを幽閉したのも、すべては家督争いの末でしかない。
 琵琶首館にふたりを訊ねた者がいた。千本城主・東平喜右衛門重国である。
「御方さま。ご機嫌はいかが」
「……いいはずなど、ない」
 淳泰の母は、世の変転を呪い、すっかり心が変わってしまった。こうなってしまうからには、相当な辛酸を舐めただろう事が垣間見える。
 すべては後継者を明確に定め、家臣団を説き伏せる、そういうけじめを義弘が怠ったがゆえの悲劇と云えよう。
 義弘の死後に繰り広げられた家督争いは、小弓・古河双方の覇権争いであった。結果として、義頼がそれを制したまでである。
「喜右衛門、若はどうされておる?」
「淳泰さまは、聖山に、いまも」
「おいたわしや」
 かつての家督争いにおいて、東平重国は淳泰派であった。降伏して生き存えたが、しかし、彼がいるからこそ、淳泰の母は時折の差入れにも事欠かなかったのである。
「御方さま、世は大きく変わりそうです」
 東平重国は呟いた。
 織田信長の名前くらいは里見義弘存命の頃に聞いていたものの、本能寺での横死は、さすがに淳泰の母を驚かせた。
「家臣に欺かれるなど、日頃の行いが悪いということだの」
「さて、考えも及びませぬ」
「さもありなん、若がいい例だわ。あの子が何をしたというのか。悪いことなどしておらずとも、こうして国を奪われる。神も仏もあるものか……」
 東平重国は程なく琵琶首館を辞した。そして、造海城へと赴き、琵琶首館のことを報告した。この報せが、逐一、岡本城へ届けられるのである。東平重国は同情を装い、実は里見義頼に服していた。淳泰に殉じた者以外の生き残りし者は、こうして新しい主君の下で務めているのである。
 里見義頼は家督争いに勝利した。
 だからこそ、慎むべきを徹底し、勝者の驕りを戒めた。諍いの先には勝敗があり、敗者には未練と恨みしかのこらないことを、義頼は承知していた。
「淳泰殿を生かしても、利はなし」
 義頼を担ぐ小弓公方派は、古河公方の血を継ぐ淳泰を討つべしと繰り返した。その都度、義頼は押し留めてきた。岡本城の一角である聖山に淳泰を封じるのは、幽閉に非ず、短慮の者から守るためでもある。
 義頼はその実、淳泰の母には容赦しなかった。
 琵琶首館という牢獄に封じるのは、決して野に放さぬ証である。
 これは義頼と、淳泰の母の戦いだった。
 しかし、この戦いの終焉は早かった。
 翌天正一一年、淳泰の母は琵琶首館で変死した。淳泰の妹も同じであった。死因は不明だが
「里見の悪霊となって、今より三代を過ぎずして潰すべし」
 淳泰の母はそう云い残したと、伝えられる。

 淳泰には里見の家督を脅かす野心はなかった。それだけに、義頼は寛容に接した。時折り小弓公方派からの嫌がらせを被るばかりで、それさえ受け流してしまえば、誰もが誠実な彼を受け容れたとされる。
 
 天正一五年一〇月一五日。里見義頼は息を引き取った。病死である。
 その遺言により、家督は長男・義康が継いだ。淳泰はその後見のひとりとなった。義康の代に里見氏は館山城に移り、城下の整備に乗り出した。出家者であるが、淳泰も内政の相談に乗り、充実した時期を迎えたのである。

 天正一七年、豊臣秀吉は惣無事令に叛いた北条氏政・氏直父子に対して、宣戦布告状を突きつけた。世にいう〈小田原征伐〉である。
 淳泰は出陣にあたり、留守を守った。
 その後、里見氏は惣無事令違反の名目で安房一国に減封され、苦しい内政期を迎えるが、淳泰はこれも助けた。
 秀吉時代、里見氏は領土仕置こそ締め付けられたが、比較的厚遇な環境だったとされる。秀吉に気に入られていたこともあり、かつ、関東移転の徳川家康に接近し親密を得たためとも察する。大陸出兵の折も徳川与力の名目で、半島渡海を免じられたし、とにもかくにも家康との関係は太くなっていった。淳泰も使途僧として、江戸との往還を重ねただろうと思われる。
 太閤検地にあっては、淳泰は上方の役人を接待したことだろう。こういうことは僧籍の者が当たり障りもないからだ。
 義康時代の淳泰は、甥当主に惜しみなく尽力しただろう。
 秀吉時代、小弓公方・古河公方の婚姻融和で喜連川氏が誕生する。長年、これを庇護してきた里見氏も、肩の荷が下りた。淳泰にとっても、目の上の瘤が取れた瞬間だった。

 豊臣秀吉死後、徳川家康は挙兵した。関ヶ原合戦である。里見氏は前哨戦となる宇都宮城に据え置かれ、上杉景勝の南下に備えた。
 この出陣中も、淳泰は館山城で留守を守った。
 家康は勝利し、里見氏も加増した。何もかもこれからという矢先、里見義康が急逝した。残されたのは一〇歳の嫡子・忠義。淳泰は里見の長老として、これを後見しなければならなかった。
 しかし、里見氏の運命は衰退に向かっていた。忠義が迎えた正室の祖父は徳川幕府の重鎮・大久保忠隣。この頃の幕府は、大久保忠隣の派閥と本多正信の派閥が諍っていた。この派閥争いの結果、大久保派が敗れたのである。当然、関係のある大名も冤罪を被った。里見氏は安房を没収され、倉吉に転封という憂き目に遭うのである。

 倉吉の禄高は少なかった。家臣すべてを連れて行くことは出来ない。淳泰は出家を理由に、残留を希望した。すると、多くの者がこれに従った。食い扶持を削らねば忠義が立ち行かない。残る苦渋の選択も必要だったのだ。

 安房に残った淳泰は、里見を案じながら出家として余生を過ごした。里見忠義が遠く倉吉で病死した頃、淳泰も安房で没したという。


 彼は家督を継がぬことで、才を発揮した、稀なる人だったのかも知れない。


 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

ここで、緊急告知!
上記「里見氏大河ドラマ化実行委員会HP」において、2014年4月から、連載小説を掲載します里見氏を皆さんに知って貰いたい一心での、試みです。このblog同様、御愛顧賜りますようお願い申し上げます。

2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
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【里見八賢臣】正木頼忠

第八 正木頼忠


 里見家臣団に正木氏は多い。しかし同族ということもなく、その派生の過程は謎である。ただ、大多喜正木氏が、一際輝くのみである。それは伝説の正木時茂の存在もあるが、その名跡を継いだ里見義康の弟の存在も大きい。義康の弟は正木氏の名跡を継いだとき、諱に時茂を頂いた。従って里見の歴史には、二人の正木時茂が登場し、異なるその時代の柱石を担っている。
 題記の正木頼忠は、外房正木氏とよばれる血統だ。これは伝説の正木時茂の弟で、勝浦城を切り取った正木時忠の五男である。時忠は第二次国府台合戦で里見氏が敗退したとき、あろうことか北条氏に寝返った人物だ。よって頼忠が歴史にその足跡をはじめて刻むのは、父によって小田原へ人質に送られたことで始まるのである。この人質時代が、のちに彼の運命を左右するのだから、歴史とは気紛れで面白い。

 小田原に送られた正木頼忠。人質といいながらも、軟禁状態ではなく、むしろ寄騎のように扱われたようで、あらゆる戦場に加担したようである。というのも、当時はまだ北条氏康が存命で、とかく人物と見込めば大事にされていた風潮が小田原にはあったようだ。
 ここで長じた頼忠は、北条一門の北条氏隆の娘と結婚した。これで名実共に北条の眷属という運命が、彼に待っている筈だった。北条氏隆の娘とは仲睦まじく、子宝に恵まれた。
 ここで最初の、運命の歯車が廻る。
 父・正木時忠は晩年に里見氏に詫びを入れ帰参し、やがて没した。相続した嫡男・時通は家督を継いですぐに病没した。おりしも里見と北条の房相和与の時期である。
「実家の家督を継がれよ」
 北条氏政は頼忠を安房へ帰参させたのだが、離縁をもさせたという。嫡子だけを安房へ同行させ、妻と他の子とは離別させたのである。
「妻子と暮らしたくば、よく家中に分け入り、里見を弱体せしめて小田原へ戻られよ」
北条氏政のまとわりつくような言葉が、頼忠の耳から離れない。氏政は手を汚さずに事を為そうとする男だ。悪くいうなら、他力本願の誇大妄想癖。そのためか、正直なところ、頼忠は氏政のことが大嫌いだった。
 帰参の折、岡本城で里見義頼に触れ、頼忠の心は氷解した。
「苦労しただろう」
 その第一声に、頼忠は目を丸くした。
「外房正木氏の過去は不問じゃ。今はそなたという人材こそ大事である。過去は忘れて励んで欲しい」
人の上に立つ資格をもつ人間の器に触れて、頼忠は圧倒された。この瞬間、頼忠は北条の過去を捨て、里見氏にすべてを捧げる決心をした。

 時代は動いた。
 本能寺の変により、羽柴秀吉が世の寵児として躍り出た。里見は秀吉に接近したが、北条は徳川家康に接近した。立場が異なれば、和睦も危うい。
 正木頼忠は北条氏隆に密書を送った。頼忠は子供たちをすべて引き取るつもりだった。まずは当面、次男の為春を要求した。この想いは、氏隆によく伝わった。可愛い孫の前途のためなら、北条に置くより里見の側がいい。氏隆は秀吉にことごとく張り合おうとする氏政の狭量に、北条家もこれ一代と、褪めた判断をしていた。使者の申し出に応じた氏隆は、為春をよく諭して送り出した。これは氏政の知らぬことである。のちに氏隆は役目を終われ伊豆に引き込んだ。

 やがて、天下総仕上げの小田原征伐が起こる。北条氏は豊臣の大軍勢の前に滅び去った。
 頼忠はこの合戦にあたり、子供たちの安否を気遣い、戦後、手元に引き取る。ただ一人、娘の万だけは、この合戦中、徳川家康に見込まれ側室として迎えられていた。このことが、更に頼忠の運命を左右するのである。

 小田原征伐で上総国を失った里見氏は、家臣団を安房一国に迎えなければならなかった。勝浦を失った頼忠は安房にて出家し、禄を切りつめる一助に徹した。しかし外房正木氏の総帥たる頼忠にはまだまだ役目も多く、簡単に出家も出来なかった。

 慶長三年、徳川家康は秀吉の五大老として重い立場にあった。側室となった万の口添えで、頼忠に徳川家への仕官の誘いがあった。頼忠は里見氏に骨を埋めるつもりでこれを固辞したが、当主・義康のはからいで次男・為春が徳川家に出仕した。この頃には、徳川家康と里見義康は緊密な関係となっていた。
 この年、豊臣秀吉が没した。
 慶長五年。関ヶ原合戦。里見家は宇都宮城で結城秀康に従い上杉景勝に備えていた。この功で里見氏も加増された。
 間もなく義康は病没し、一〇歳の忠義が里見の家督を継いだ。忠義は幕府年寄・大久保忠隣の孫娘を妻とし、徳川家との関係は良好だった。家康が駿府に城を構えて、大御所と呼ばれる頃、万のはからいで正木頼忠も駿府に屋敷を置いて里見家との仲介役に徹した。
 しかし、大久保長安事件により、幕府で派閥争いが生じ大久保派が粛正された。里見家もそのあおりで倉吉に改易となってしまうのである。
 頼忠は駿府に留まり、娘からの情報を頼りに、倉吉の里見家を救済する道を摸索した。
 しかし、里見家は遂に許されず、滅亡するのである。

 徳川家に仕えた為春が紀州徳川家の家老として迎えられると、正木頼忠もこれに従い、和歌山へ赴き、そこで生涯を終えたという。




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  1. 2014/03/21(金) 05:48:43|
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【里見八賢臣】中里実次

第七 中里実次


 中里備中守実次という人物の詳細は、前期里見氏の最盛期ということもあり、このような者がいたという範疇が主である。その出自も明確でなく、伝承によれば、房総初代・里見義実の子とも囁かれる。
 前期里見氏は義実から義豊までの当主系譜期間を指す。義豊を傍流の義堯が倒してのちは、後期里見氏と学術的に大別される。後期は書状や資料により全容が浮き彫りとなるのだが、前期となれば、『南総里見八犬伝』の創作部分に触発されて、事実と虚偽が綯い交ぜな状態といっても過言ではない。
 今日、前期里見氏は、初代を義実、その子が二代目義通・実堯・実次、義通の子が三代目義豊と位置付けされている。これまで二代目といわれた成義の存在は、架空と思われているようで、中里実次は安房支配の黎明期を支えた里見の眷属と考えてよい。

 里見義通の時代は、在地豪族を支配下におく創業から起業へ向けた時期だった。従う者を遇し、与して勢力を拡大し、反面、逆らう者を屈服していった。義通を中心として、実堯と実次の弟たちは奮戦したことが想像に易い。実堯は万能型の人物で、内政や合戦の巧者と伝えられる。主に内房方面に勢力を拡大し、金谷や上総の一部まで支配力を拡げたらしい。内房水軍にも影響力を及ぼした。この実堯と両輪の如く、正木通綱が実力を発揮した。義通の時期に安房はおおよそ平定されたとみてよい。
 中里実次は先鋒方ではなく、どちらかといえば内政肌の人物だろう。義通の時代は当主を補佐する立場を弁えたと考えられる。

 里見家にとって、大きな転換期が訪れたのは、義豊の時代だった。
 近年の研究によれば、壮年の頃に家督を継いだことが判明している。義通は老いて大殿とし後見役に徹した。長老として実堯・実次は若き当主を支えた。
 里見義豊という人物は、その活動の足跡に含まれる思惟が、よく解らない。内政面で領民に支持されていたか、それとも不人気か、全く読み取れなかった。ただひとつ判ることは、小舅的な里見実堯を敬遠していただろうことだった。その実堯は内政・軍事とも、義通の時期から安定していた補佐官だった。
 つまり、他意もなく新しい当主を支えていた筈だったのである。

 大永六年(一五二六)五月、内房の海を内陸へ帆を張る船団があった。二つ引両の紋を鮮やかに染め抜いた、里見の水軍である。
この船団の旗船に乗るのは、正木大膳大夫通綱。この船団の進軍目的は、北条氏の港湾拠点のひとつ品河湊を襲撃するためである。品河攻撃は、完全な奇襲となって、里見勢に軍配を上げた。
 品河奇襲の報告に、里見義豊はすっかり舞い上がった。見事な海賊衆の手際に歓喜し、すぐにも再度の奇襲をしたいとさえ漏らした。
 その言葉を待って
「是非にも鎌倉を」
と、実堯が進言した。
「鎌倉は北条に支配されております。かつての栄華はござりません。殿の手で偽の都を焼き払うことが、武門の倣いと心得ます」
 義豊はこれに応じた。
 鎌倉を焼き討ちにした義豊の評判は、『快元僧都記』や北条方の文献から憎悪となって伝わっている。察するに、予想以上の戦果だったのだろう。
 敵から畏怖され憎まれることは、武士の名誉のようなものだ。
 が、義豊はどこかでそれを疎んだ。義豊の気質は文治派で、自ら手を汚すことが堪え難かったのだろう。程なく、実堯を逆恨みし、排斥する企てを側近たちと語るようになっていた。
 それを制したのは、中里備中守実次である。
「今は内輪揉めなど考えるときでは、ねえっぺ」
「叔父上には解らぬ」
「兄は里見のために滅私奉公しておるのだ。当主がそれを理解しないで、なんとする」
 しかし、ついにその流れを留めることは出来なかった。
 天文二年(一五三三)七月二七日。里見義豊は実堯と正木通綱を暗殺した。

 後世、〈犬掛合戦〉と呼ばれるものがある。里見実堯の遺児・義堯が、当主である義豊に対し兵を挙げたものだ。義豊に非がなければ、義堯のそれは、ただの謀叛に過ぎない。が、民衆の多くが支持したのは、義堯だった。
 中里実次は一貫して義豊に附いた。
 実次の娘は義豊の側室だったから、叔父甥だけの関係ではない〈しがらみ〉もあったのだろう。
 この戦いで、中里備中守実次は討ち死にした。主家に殉じたといえば聞こえがいいが、こういう事態になることを回避するため、影となり諫めていたことだろう。その責任を負ったのかも知れない。

 前期里見氏の歴史とともに、中里備中守実次もその役割を終えたのである。


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【里見八賢臣】薦野頼俊

第六 薦野頼俊


 里見家臣団のなかでも、薦野甚五郎頼俊は異彩を放つ。彼は家臣の系譜ではなく、里見家の生まれだからだ。薦野頼俊の父は、里見義弘である。母は薦野時盛の娘と伝わっている。すなわち母方である薦野氏の家督を、頼俊は相続したことになる。
 薦野の家は安房にあって早くから里見氏に仕えていたのだろう。弘治三年一一月の那古寺鐘銘写に、〈薦野神五郎多々良平時盛〉という名がある。弘治三年は里見家にとって苦難の渦中にあり、北条氏康の調略で内乱さえ生じていた時期だ。その頃に、里見氏の別当寺である那古寺に帰依していた薦野氏は、奇特な存在だったのかも知れない。
 多々良という地域は、太房岬の付け根にあたる地域だ。その土着の武士という意味で、〈薦野神五郎多々良平時盛〉と名乗ったのだろう。ここは安房の重要拠点である岡本城にも近い。里見氏にとっても、無視の出来ない、頼りとなる存在だったのだろう。

 幼くして薦野家に迎えられた頼俊は、恐らくは里見家の血を信じることなく、祖父・時盛の薫陶のなかで長じたと考えられる。疑いもなく、やがては薦野氏の家督を継いだ。その頃には冷静に、己の出自も受け容れたことだろう。
 薦野頼俊は野心家ではなかった。血を分けた眷属に仕えることへの抵抗も、さほどに持ち合わせていなかった。どのみち傍流の弟は、主家を支える存在にしかなり得ない。卑下するまでもなく、現実を、薦野頼俊は穏やかに受け止めたことになる。そこに、下剋上とは遠い安房の気風が、どことなく垣間見える。

 里見義弘とその弟で養子の義頼との関係が冷え始めた頃、〈房相一和〉の動きがあった。江戸湾を巡り、長年係争してきた北条氏との和睦は、考えようによっては有為であった。
 北条氏政の娘・鶴姫が義頼正室として嫁いでくると、人質交換として、義弘は薦野頼俊に白羽の矢を立てた。薦野頼俊は内偵という志で、堂々と小田原へ渡った。鶴姫は薄命だった。同盟維持のため、今度は氏政の妹・菊姫が継室として嫁した。これも長い関係ではなかった。ふたりの姫がいなくなれば、薦野頼俊が小田原に留まる理由もなくなる。人質交換の期間は、短かった。その間に、里見家は義頼が当主になっていたが、薦野頼俊は変わらぬ忠義を主家に傾けた。

 里見義頼の時代は、世の転換期である。
 織田信長の死後、豊臣秀吉の台頭で、天下は大きく動く。その渦中、里見義頼も病没し、家督は義康が継いだ。薦野頼俊はいつしか一門衆の中核となっていた。

 天正一七年一〇月二三日。世にいう〈名胡桃事件〉が生じた。これが〈小田原征伐〉に発展し、里見氏もこれに応じる。が、些細なことで秀吉の怒りを被り、上総を召し上げられた。
 北条氏の滅んだのちは、徳川家康が関東に入る。里見氏は内憂外患の危機を迎えるが、義康は家臣団を上手に束ねて安房一国を維持した。その内政維持の中核で尽力したのが、薦野頼俊だった。
 
 豊臣秀吉が天下人として君臨したのは、その後一〇年ほど。秀吉の死によって、徳川家康が脚光を浴びる。
 関ヶ原。里見氏は前哨戦となる宇都宮布陣に参じ、そのまま上杉景勝の南下に備えた。その陣中には薦野頼俊の姿もあった。
 戦後、功績が認められ、鹿島三万石が加増。ここまでが、里見氏にとっての絶頂期だった。やがて義康が病没すると、一〇歳の里見忠義が家督を継いだ。一門の長老のひとりとして、薦野頼俊の立場も重くなっていた。
 里見忠義の正室は、大久保忠隣の孫娘。徳川幕府の中枢に最も近い姻戚だった。しかし幕府のなかでは、大久保氏を快く思わない本多正純の派閥が対立していた。この派閥争いのなかに、里見氏は巻き込まれていった。
 大久保長安事件により、大久保忠隣は失脚した。連なる縁戚は改易されていく。里見氏もそれに含まれた。倉吉に改易された里見忠義へ、多くの家臣が附いていかなかった。それは石高が家臣を賄える額に満たないため、泣く泣く残留を余儀なくされたためだった。
 薦野頼俊も残留した。残る側とて、辛いのである。
 
 伝承によると、薦野頼俊は館山城引き渡しを拒み挙兵したことになっている。そこで里見の意地を見せつけ、果てたというのだ。が、そのようなことになれば、改易すら許されまい。ただちに里見氏は取り潰されよう。
 里見氏改易は、房総の人々の同情を買った。
 薦野頼俊の挙兵伝説は、悲哀の心が生んだ、ひとつの御伽噺に過ぎない。事実、薦野頼俊は現実に堪え、屈辱に耐えて、生き延びた。
 子孫は水戸徳川家に仕えたとも伝えられている。


 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/03/08(土) 12:10:45|
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