散文小径

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【里見八賢臣】加藤信景

第五 加藤信景


 里見家は義堯・義弘の時代、その領土を上総に拡大した。拡大したのみならず、上総に里見の拠点を構えるなど、戦略的に腐心している。すべては、対北条を想定してのことだった。
 里見義弘は佐貫城を拠点とし、安房を含めて領有した。自然、上総より召し抱える者も多い。
 加藤伊賀守信景もその一人だ。地域領主のひとりとして里見義弘に従い、すべてにおいて心酔し、従った。義弘という領主は、先代・義堯と比べて激しくないのだろう。恐れ平伏すというよりも、同心するという風に、家臣たちは従った。
 加藤信景は賢い人物だった。義弘の先回りをする所作で、信頼を得たところがある。この佐貫城時代、里見義弘は大きな派閥に挟まれて辟易していた。
 亡き正妻の血統で安房に庇護する小弓公方の系譜。これは安房の家臣団とも協調し、ひとつの派閥を形成していた。ただ悲しいかな、義弘はこの血統に実子を残していない。
 後に継室として迎えた古河公方の姫。この派閥は上総の家臣団と協調し、かつ、設けた実子・梅王丸を盛り立てる勢いだった。
 もともと足利一門でありながら、小弓も古河も仲違いの関係にある。自然、安房と上総の諍いの基となるは必定。旧来からの家臣団は小弓公方派を盛り立て、新参上総の家臣団は古河公方派となる。里見家は内紛ギリギリの状態といってもよい。
 加藤信景は義弘の本心をじっと読み取ることが出来た。やはり血のつながる実子に家督を譲りたい。これが人の情であり性であった。
「盛り立てます。心、安んじ給え」
 加藤信景はそう義弘に説いた。
 しかし、義弘は決断に挑めぬ優しい男だった。実子を設ける以前に後継者として養子に迎えた弟・義頼を切り捨てることが出来なかった。
 この優柔不断が、のちに安房と上総を割る内紛に繋がるのである。

 天正六年(一五七八)五月、里見義弘は没した。酒毒に冒されたともいわれる。決断に迷い、酒に逃げたのだとさえ囁かれた。
 後継者の決断は公言していない。が、家督継承の証したる印判等は佐貫にある。自然、梅王丸こそ後継者であると、古河公方派や上総家臣団は声を大にした。
 このとき梅王丸は幼少である。
 その母が実権を握るのは、世の常だ。それは古河公方の息の掛かる者が、里見家を支配することを意味する。傀儡領主を掌握し実行支配するのは、小田原北条家の手口に似ている。事実、このときの古河公方・足利義氏は、北条家の傀儡状態となっていた。すなわち里見家も北条氏に取り込まれる危険性があったのである。
 しかし、女というものは、母になることで高所対所の見方を失う。ただ梅王丸大事の執念だけで、このときも躍起になった。
 安房の家臣団は、長年にわたり北条と戦ってきた連中だ。講和は許せても、取り込まれることだけは由としない。
「後継者として御養子になられた殿を盛り立てることこそ、道理」
 こう宣言し、義頼を旗頭にして、打倒梅王丸の挙兵を行ったのである。

 加藤信景は大義名分として上総派の立場を貫いた。義弘への忠義がそうさせたとも思われるし、安房の者たちを理解していない部分も大きい。
 しかし、この内紛は長く続かなかった。
 外交能力に長ける義頼陣営は、遠く上杉景勝や佐竹義重といった大名たちと同盟を固め、遠交近攻の姿勢を布陣していくのである。このあたり、視野の狭い梅王丸の母には、遠く及ばないことだった。更にこの頃、房総では飢饉となり、その内政の目配りは明らかに義頼の措置が一枚上だった。民衆は、梅王丸支持から乖離していったのである。
 こうなると、上総衆のなかからも義頼に寝返る者が出る。
「先代の御恩を忘れる者は、不埒なり」
 梅王丸の母はそう叱責したが、流れは止まらなかった。加藤信景はこのとき、未だ上総派だった。
 この内紛の虚を突いて、小田喜の正木氏が独立の挙兵をした。義頼はたちまちこれを平定すると、その武威に気圧された者が、いよいよ安房方へと傾いた。
 加藤信景のもとに岡本氏元から誘いが届いたのは、その頃のことだろう。両名はもともと義弘の傍で働く顔見知りだった。
「殿の思惑は、梅王丸殿の助命。そのためには、母親や取り巻きから引き離し、庇護せねばならない。命を奪うことを、殿は望んでおらず」
 里見義頼の意思を信じた加藤信景は、時期を計り、有利な降伏を提言した。梅王丸の後ろ盾となって、これまで励んできた加藤信景の降伏勧告は、陣営を落胆させた。しかし、義頼の攻勢はもはや揺るぎがなかった。
「殿の一命は我が身を以て御守りいたす」
 加藤信景の必死の言葉に、とうとう佐貫城は開城した。梅王丸は岡本城域聖山に庇護され、加藤信景は開城の功で佐貫城代を任された。いわゆる戦後処理の一任である。
「普通は儂のような者は、役目を奪われるものだがな」
 能あれば降将でも適所に用いる義頼の胆力に、加藤信景は絶句した。そして、新たな里見の当主を盛り立てようと、心を新たにしたのであった。

 天正一三年、高野山西門院文書曰く。加藤信景の一子・太郎左衛門弘景は里見家伝奏役を任された。
 時代は秀吉を中心に廻ろうとしていた。
 加藤信景は義頼に仕えながら、新しい時代の流れを肌で感じていた。上総に従っていたときには感じたことのない、時代の風だ。加藤信景は急速に、老いを実感していった。
 里見義頼が急逝し、次の義康の代がくると、加藤信景は剃髪して〈伊勢入道〉と号した。この頃になると、老いからくる病さえ自覚した。
 天正一八年、小田原征伐。里見家は秀吉に従い北条討伐の挙兵に応じた。老骨に鞭打ってでも参加したいと、加藤信景は訴えた。
「若い者に任せて、そなたは命をいとえ」
 若き当主・里見義康に諭され、加藤信景はこの大動員に参加することはなかった。
「よいか、太郎左。加藤の家の手柄を立てよ」
 父に代わり出陣する加藤太郎左衛門弘景へ発する檄は、事実、悋気に満ちていた。

 こののち、加藤信景の記録が途絶える。
 程なく大往生を遂げたものだろう。





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  1. 2014/02/28(金) 20:27:05|
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【里見八賢臣】岡本氏元

第四 岡本氏元


 里見の岡本氏は、二系統ある。岡本城に派生する一族と、小弓公方旧臣として安房に移った一族だ。
小弓旧臣の岡本氏は、国府台合戦ののちに安房へ移り住んだ。外交に長けており、その力量が買われて里見氏が引き抜いた。代々の岡本氏は、里見氏の外交専門家臣として、上方にも及ぶ活動を展開してきた。

 第一次国府台合戦。中原の雄として台頭した小弓公方・足利義明の、最期の合戦となったものだ。この戦いに与力として参じた里見義堯は、ほぼ無傷の状態で、戦場から撤退することに成功した。足利勢が壊滅し、里見氏が無傷という状況から察するに、与力としての里見義堯は義明から敬遠されていたものだろう。結果として損耗を免れたのである。
 小弓公方軍は総大将を失い総崩れとなった。重臣・逸見山城入道祥仙は、陣中に義明の末子・頼淳が無事であることを知ると、殉死を試みる馬廻り衆を叱責し
「かくなるうえは、若様をなんとしても生かせ!小弓公方家を絶やすことこそ、最大の不忠と知るがよい」
と諭した。まだ周囲には無事な将兵がいる。
「無駄死にはするな。退き陣じゃ、一人でも多く退いて、こののちは若様を盛り立てよ!」
 祥仙の叫びに、混乱していた小弓公方勢は息を合わせながら撤退を開始した。傍らにいる一族の逸見八郎へ、祥仙は叫んだ。
「儂の分まで御曹司を盛り立てよ。皆には済まぬが、儂だけが御所に準じるとする」
「祥仙様」
「いざとなれば里見を頼るのだ。里見はしたたかにして思慮深い者と見定めたり。里見のもとで御家再興を果たすべし!」
 そう云い残して、逸見山城入道祥仙は槍を振り回しながら敵陣深くへと突き進んだ。
 里見勢のあざやかな引き際とは対照的に、その後の小弓公方勢は惨めなものであった。小弓城へ続々と入城する敗残の兵たちの凄惨な様に、城内の者たちは顔を背けた。間もなく佐々木源四郎や逸見八郎等に抱えられるように、足利頼淳が戻ってきた。
「御所様は討死になされた」
 その言葉に、城内は絶望感で溢れた。
このまま籠城できるかという不安が誰の胸にもあった。
「ここは里見に頼るより他なし」
という逸見八郎の言葉に、異を唱える者はいなかった。
 こののち小弓公方家の面々は、安房へ逃れた。里見義堯はこれを庇護し、宮本城に一時は匿われた。やがて石堂寺周辺に足利頼淳は居を構え、側役がそれに従った。側役以外の者たちは、自然と、能力を買われて里見氏に仕官していく。岡本但馬入道元悦は外交能力を認められ、義堯に引き立てられた。
 岡本兵部少輔氏元は、元悦の子である。

 里見氏の外交は、義堯の代までは小さなものであった。北条や千葉といった近接する敵対関係しかなかったこともあり、遠交近攻という高度な政策が執れなかったのである。
 義堯・義弘父子の時代、関東は巨大な勢力による、三国志にも似た様相を示した。小田原の北条氏と盟約しながら関東進出を企てる甲斐の武田氏、これらと敵対しながら旧来の秩序回復を目指す越後の長尾氏。この三大勢力が、しばしば激突する時代を迎えたのだ。
 北条に対する協調者として、里見義堯・義弘は、長尾景虎との同盟を望んだ。その交渉役に尽力したのが、岡本但馬入道元悦である。
 永禄三年(一五六〇)、長尾景虎は関東管領上杉憲政を旗頭として、関東への遠征を開始した。そして、長駆、北条氏の居城である小田原城を包囲したのである。この陣中、里見勢も長尾勢に同陣した。
「岡本入道ほどの者、頼りといたすべし」
 長尾景虎の名代として、太田資正が里見義弘に語りかけた。義弘にとっても、鼻の高い出来事だった。
 小田原遠征の際、長尾景虎は鎌倉鶴岡八幡宮に参内した。ここで一大儀式を挙行するためである。
 関東管領上杉憲政は長尾景虎を養子とし、その権威を譲渡するつもりだった。つまり、関東管領就任式典を、古式に則り、鎌倉で執り行うのである。小田原に参じた関東の諸将は、その儀式を謁見する栄誉を賜ったのだ。
 里見勢もその例に洩れない。義弘は反北条の旗頭となる、新たな関東管領の誕生に、胸を躍らせたことだろう。
 長尾景虎はこのときを以て、名を上杉政虎と改めた。のちの上杉謙信である。
 里見氏と越後上杉氏との間には、反北条の強い絆が設けられた。のちにこれを〈房越同盟〉という。この上杉外交の中核となったのが、岡本但馬入道元悦、そして、子の岡本兵部少輔氏元だった。

 永禄六年(一五六三)閏一二月五日。武田勢と連携する北条勢は、このとき連合軍を仕立てて、利根川を越えて上州金山を囲んだ。金山城主・横瀬成繁は厩橋城まで使いの乱波を走らせた。
「北条とは、居留守を窺う、泥棒猫の如き輩なり」
上杉謙信は憤怒した。関東出陣を上州へ沙汰すると同時に、小泉城の富岡重朝および岩附城の太田資正に
「金山城への牽制の動きを取るよう」
と命じた。これらが動き出した一九日、上杉勢は越山し、厩橋城に布陣した。
「南敵(北条氏)の枝葉を絶やすはこの時なり。関左長久安全の基であるゆえ、出陣を要請するものなり」
この打診に応えるべく、里見義弘は太田資正との綿密な連携を求めた。ただちに安房・上総に陣触れがなされ、佐貫城へ軍勢が招集されたのである。
 太田資正を主将とし、連合の形で里見義弘が国府台に陣を張ったのは、程なくのことである。永禄七年(一五六四)正月。北条氏康・氏政との間に、第二次国府台合戦が火蓋を切った。
 上杉勢は下野方面の戦局が芳しくない。そのため、思うような動きが取れなかった。このとき、国府台の局地戦に背後から攻め入る予定が、見事に狂ってしまったのである。第一回のときは無傷の里見勢も、二度目の国府台では大きな損耗を招いた。
 岡本兵部少輔氏元にとって、試練の季節は、このときの敗戦から三年ほどだろう。三船山合戦で里見氏は失地を回復し、ようやく上杉外交が軌道に乗り始めたときに、ひとつの事件が起きた。なんと、上杉謙信が北条氏政と和睦してしまったのである。
「上杉には失望した」
 義弘は激しく怒りを露わとした。
 このとき里見が庇護していた宗教団体が、日蓮宗だ。安房は日蓮生誕の地であり、その総本山は身延にある。その宗教を通じたネットワークにより、北条と手切れになった武田信玄の存在が浮き彫りになった。
 義弘は岡本氏元を招くと
「甲斐に赴き盟約を固めて参れ」
と命じた。房越同盟時には敵国だった甲斐である。うまくいく保証はない。しかし、岡本氏元は甲斐に乗り込んだ。折衝に応じたのは、武田御親類衆の穴山信君や、譜代の土屋昌続だった。甲斐もまた、このとき西を目指していた。背後の北条を抑える盟約者を欲していたのである。
 岡本兵部少輔氏元の努力により、対等の房甲同盟が結ばれたのは、それから間もなくのことだった。上杉と北条が断絶するのは、その後のことである。房越同盟は復活するが、甲斐との関係はその後も良好のままであった。

 天正五年(一五七七)、江戸湾を巡り、里見と北条の攻防は苛烈化していた。
 既に武田信玄も北条氏康もこの世にはなく、里見義弘も病弱だった。この時期、義弘は内政をまとめるために北条との和睦を願っていた。
 ここでも岡本兵部少輔氏元が尽力した。
 一二月、房相同盟が約され、海上の攻防戦が静謐を迎えた。里見家は後継者選びの内紛が囁かれていたが、翌年、次代を定めることもなく里見義弘は没した。
 岡本兵部少輔氏元は里見の中枢に身を置きながらも、早い時期から、次期後継者は安房の義頼と見込んでいた。そのため内乱時には義頼陣営に駆けつけていた。
 里見家は義頼を中心にした時代を迎えた。岡本氏元一族は、その外交の中核を担い、やがて天正一〇年を迎える。この年、甲斐武田家は滅亡し、織田信長が本能寺で斃れた。世の中は関東だけで計れない時代となり、何事も情報の中心にあったのは、京であり畿内だった。
 義頼が強く求めたのは、情報だった。
 その情報将校としての役割を発揮したのが、岡本兵部少輔氏元だった。徳川家康か、羽柴秀吉か。究極の二択に際し
「羽柴を」
と推挙した氏元の慧眼は、実績に基づく決断といえよう。徳川に傾倒した北条は、やがて孤立の道を歩み、秀吉によって滅ぼされる運命にあった。

 畿内との巧みな外交により、里見家を長らえたのは、氏元とその一族だった。この一族は里見氏が改易される時代まで、外交の柱石として支えたといわれる。





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【里見八賢臣】岡本安泰

第三 岡本安泰


 里見の家臣として、岡本氏の存在は大きい。安房の有力氏族として、聖山を中心に勢力を奮ったと云われる。その居城である岡本城は、海の城である。太房岬に包まれるように、城の前面は湾を為して、戦国水軍基地としての一面が想像できるのである。
 この岡本城は、ある時期より、里見の居城となった。城主だった岡本氏は快く譲り、城将として変わりのない精勤に励んだという。
 このような城の明け渡しも、珍しい。通常は、その替え地を宛がい、加増で慰撫するものである。その痕跡が、資料として残っていない。岡本氏は、誇りを持って、城将に降格してもなお、この城に愛着を持ち続けたのかも知れない。
 里見の岡本氏は、二系統ある。岡本城に派生するこの一族と、小弓公方旧臣として安房に移った一族だ。
小弓旧臣の岡本氏は外交に長けていたという。そのため、代々里見氏の外交専門家臣として、上方にも及ぶ活動を展開してきた。
 岡本城の岡本氏は、どちらかといえば土豪であり、在地領主という、地の家臣である。里見氏にいつ頃から仕えたものか定かではないが、前期里見氏の頃から被官となっていたことは想像に易い。
 この前期里見氏が倒され、後期里見氏が統治する転換期となったのが〈犬掛合戦〉だが、岡本氏はこのとき、いち早く先を見越していたと思われる。以来、里見氏の活躍を支える一翼に、岡本氏がいたのである。

 岡本安泰の時代、里見氏の当主は義弘であり、この時代、安房と上総が内乱期であった。
 里見義弘は最愛の正室を失ってのち、弟・義頼を養子に迎えて、ゆくゆくは後継者にと考えていた。子のない義弘にとって、まっとうな判断である。しかし、後添えを迎えて子を為した頃から、風向きがおかしくなったのである。
 このときに、岡本城へ義頼が留め置かれた。身辺から遠ざけられたとも、考えられなくもない。義弘夫婦と実子は、居を佐貫に置いている。安房へ義頼を追うのは、誰の目にも尋常ならざる事態だった。
「太郎(義頼)殿が世継ぎとなることは、定められたこと。安房の衆は、殿の理不尽を承服いたしかねる」
 小弓公方の系譜は安房に匿われており、彼らは一様に義頼を推して義弘を非難した。この系譜の岡本氏も、義弘の傍にあって、これに同調した。無論、岡本城の岡本氏も、である。なんといっても、岡本安泰は城将として、義頼にもっとも近い位置にいる。これを盛り立てるのも、道理といえた。
 里見家の後継者問題は、このような安房の勢いもあってか、義弘は決断の意を示すことを嫌った。そして、酒に逃げるようになった。実子に継がせたくとも、養子に筋道を立てた以上は道理が立たず。
「構うことはございません。血の繋がりし御子が跡目を継ぐことに、なんの憚りがございましょう」
 上総の家臣団は、安房に反発して左様に唆す。ますます決断が鈍る一方だ。
 そして、里見義弘は後継者を定めきることもないまま、天正六年(一五七八)五月、酒が原因で病没した。義弘は優しすぎた人物なのだろう。どちらかを立てれば、片方が立たず。その感情の矛先となることが、堪えられなかったに違いない。
 が、この死によって、安房と上総が、二つに割れることとなった。安房からは誰も弔問に来なかったともいわれ、後継者を争って、武力以外に頼る方法はなかった。
 内乱はおよそ二年余。制したのは安房派であった。このときより岡本城は里見家当主の居城となり、義頼を中心に支配を行っていくこととなる。
「御館様」
 岡本安泰は義頼をみた。
「虜囚はいつ斬りますか?」
「虜囚ではないぞ」
「敵の総大将にて」
「まだ年端のいかぬ子供じゃ」
 上総勢の旗頭となった義弘の遺児・梅王丸を、義頼は岡本城域の聖山に監禁していた。少なくとも安房勢はそう見ていたのだが、義頼は思いの外、情けをかけていたことに、岡本安泰は歯がゆさを覚えていたのだ。
「あのな、監禁でも幽閉でもないぞ。庇護じゃからな」
「上総勢が取り戻しにくるから、ですか?」
「それもあるがな、安房の者たちが狼藉しかねないからな。儂は血の繋がらぬ弟を殺めるつもりは毛頭ない。いまは、刻を置かねば済まぬこともある」
 のちに梅王丸は幼くして剃髪出家し、淳泰と号する。淳泰は生涯を里見家のために尽くした。

 里見義頼は岡本安泰の人間臭い一挙一動をこよなく愛で、よく用いたと思われる。
 やがて、時代そのものも、大きく動いた。
 甲斐の武田氏が滅亡して三ヶ月、織田信長が本能寺で斃れた。その信長を討った明智光秀を、中国大返しで羽柴秀吉が制した。天下そのものが混沌としていた。
 その頃、里見家は江戸湾を挟んだ北条氏と睨み合っていた。表向きの和議など、役にも立たぬ。内房の水軍は、常に三浦半島に向いていたし、いつ号令があっても応じることが出来た。
 岡本安泰は義頼の嫡子・太郎の世話をすることが多かった。元々この城は岡本安泰のものだ、近在の立地に秀でるからには、世話役となるのも道理といえた。岡本安泰にも子があり、最近、出仕が許された。子の名前は頼元。この出仕に伴い、岡本安泰は随縁斎と号し剃髪した。
 天正一四年(一五八六)、里見義頼は病を理由に、僅か一〇歳の太郎義康に家督を譲った。そして翌年、義頼はこの世を去った。
 若い当主を支えようと、誰もが発憤した。
 しかし、若者は、時として緊張感のない行動に奔ってしまう。その日、岡本頼元は城の見回りをしていた。 秋の夜長、月は青々と映えて岡本城から見る江戸湾を照らす。
「よい月じゃ。酒でも呑みたいものよ」
 戯れている間はよかったが、ついつい一杯ならと欲が出て、とうとう頼元は深酒をしてしまったのである。
 すっかり寝入ってしまった頼元にとって、この日は不幸な事件が起きてしまった。賄い所で不注意の失火を出したことに、気がつかなかったのである。気付いたときは既に遅く、城内の一郭が焼失してしまったのである。
 岡本城焼失の一件は、極めて大きな失態となった。主立った家臣団は岡本城へ参集し、岡本頼元に対し今度のことを強く糾弾した。
「左京亮(頼元)よ、酒を飲んでいたこと、お役の自覚がないにも程がある」
「腹を斬らせるべし」
 そう詰られても仕方のないことだった。
 しかし、義康は家臣の命をこのようなことで奪う愚かな仕置を嫌った。
「左京亮、いい月であったか?」
 場違いな明るい声で、義康は訊ねた。蒼白で狼狽える岡本頼元は、一瞬呆気にとられ、小声で応えた。
「腹など斬らぬでよい。月に免じて一命は保つべし。されど、お役の合間に楽しんだ分、罰は受けねばならぬぞ」
 義康は出仕停止を即断した。
「恐れながら、これでは余りに軽い処分。城を焼いた責務は、一死を以て……」
 諫言する正木淡路守時盛をやんわり制して、義康は岡本城賄い方の女房がひとり、失火より行方知れずの件を質した。
「あれは他国の間者よ。いま当家に騒動を起こして得をするは、誰か?」
「それは、北条……」
 そういいかけて、正木淡路守時盛は口を噤んだ。
「そういうことだ。女ひとり、まんまと江戸湾を逃れられたとしたら、内房水軍の淡路守とて、面目もなかろうが?」
「はあ」
「左京亮にも迂闊があったが、あたら家臣ひとりを失いとうはない」
 そういって、義康は微笑んだ。
 このことで一番慌てふためいたのは、当人よりも、父・岡本安泰だろう。
「死を逃れて安堵している場合ではない。このうえは一刻も早くお許しを頂戴し、御家のために励むことこそ、御館に報いる道ぞ」
 岡本安泰は、一日もはやく息子が再出仕できるよう、鶴谷八幡宮に祈願をしたという。

 この人間くさい岡本安泰は、里見義康という器の大きな若い当主に愛されながら、記録にはないが往生を遂げたものと想像できる。


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  1. 2014/02/19(水) 05:43:57|
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【里見八賢臣】堀江頼忠

第二 堀江頼忠(後編)

 安房召上げおよび鹿島減封の沙汰は、館山城へも速やかに伝わった。
 留守を任されている堀江能登守頼忠は、大家老として、この青天の霹靂を現実として享受し、領内に具体的な指示を行う大任を負ったことになる。
「納得できぬ」
 強行派は大騒ぎした。
 もともと武断派として、山本清七や里見揚安斎を中心につくられた派閥が、真っ先に声を挙げ、いっそ一戦に及ぶべしと息巻いた。
 堀江頼忠は丸腰で彼らの前に立ち
「御館は江戸の掌中、御身に何があっても蜂起する不忠者がいるというのか!」
と質した。
 不満はある。誰にも、不満はある。その不満を晴らす決起と引換えに、もし当主が殺されでもしたら、それは家臣として最大の罪である。堀江頼忠の言葉に、首謀者たちは項垂れた。
「能登殿は……納得できるのか?」
 奮える拳を堪えながら、薦野甚五郎頼俊が呟いた。
 堀江頼忠とて、決して同意などできるものではない。
「御館は恐らく家臣を案じて承服しよう。その心に応えることこそ第一。私心は捨てる」
 頼忠の言葉に、蜂起は回避された。
 とりわけ主君を江戸の人質とされている以上、里見家臣団は恭順せざるを得ない。
 この間、幕府は正式な城明け渡しの使者として、佐貫城主・内藤政長と大多喜城主・本多忠朝にその任を命じた。大久保派の冤罪であることは両名にも理解できた。これは、理不尽な減封である。場合によっては激しい抵抗もある。そう考えた両名は、不測の事態に備えて戦さ支度を急がせた。
 館山城内は大騒ぎだった。
「いまは大家老の采配に、皆々従うしかなかろうて。神妙に承るべし」
 混乱する城内に向けて、印東采女佐房一が檄を飛ばした。大家老の山本清七と堀江頼忠の言葉に、一同は耳を傾け凝視した。転封は、断じて納得いくものではなかった。はっきり云って、これは云い掛かり以外の何物でもない。
 里見家は大久保派。
 これは、本多派からの報復というよりない。
 堀江頼忠は幕府に従うよう、切々と訴えた。
「斯くなる上は、城を枕に幕府へ抵抗すべし」
 里見揚安斎が呻いた。
「それこそ幕府の思うところなり」
 堀江能登守頼忠が反論した。
「減封は手心である。これに応じなければ、里見家改易は必定!」
 改易という言葉の重みは大きい。
 城内のいたるところで、啜り泣く声が満ち溢れた。
「無念」
 ただただ、その言葉以外に例えるものはない。
 こうして、家臣団は黙々と、各自荷造りするため屋敷へと去っていった。
 館山城に幕府からの追加伝令が駆けつけたのは、翌日のことである。城受取りの及び破却の使者として、内藤政長・本多忠朝が軍勢を率いて来るとの報せに、城内はざわめいた。
 内藤政長・本多忠朝の出立は、九月一三日のことである。
 血気に逸り武力を用いぬよう、堀江頼忠は領内に檄を発した。蛮勇は一時のこと、それで全てを損なうことに繋がる。恭順の徹底を、頼忠は繰り返し叫んだ。
 すべては、江戸の忠義のためである。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと悪態を吐き、暇乞いを申告してきた。その申し出には口減らしの覚悟が滲んでいて、誰もが重くそれを噛み締めていた。新しい安房の領主は徳川の臣下だろうことは察しがつく。残る者にとって、安易なことはあり得ないのだ。
 里見家から去るも地獄、残るも地獄。
 安房の商人衆は、大半が残留する道を選択した。口減らしは多く、そして早い方がいい。商人を代表して、岩崎与次右衛門が館山城を訪れた。
「鹿島では商いの旨味がございませぬ。里見との御縁も、ここまでということで」
応じる堀江能登守頼忠は、その憎まれ口の心底を悟り、黙ってこれに応じた。引き留められることを嫌い、殊更嫌味を口にする与次右衛門である。里見家と寄り添い発展してきた彼は、どんなに辛い立場だったろうか。
 同じように、海将の多くが禄を捨て、浪人の道を選んだ。鹿島では水軍も役には立たぬ。どこかに仕官を探すしかない。移転を嫌い、このまま土着帰農する道を選ぶ者もいた。
次々と、人が去っていった。
 名のない兵卒の大半は農民や漁民である。里見家では兵農分離の余力がなく、従って彼らは鹿島での新生活を望んではいない。
 しかし、現実は実に厳しい。その程度では、口減らしにもならないのだ。こののち困窮することは、必至である。
 鹿島は関ヶ原の論功で加増された土地で、馴染みが薄い。また、旧来鹿島で暮らす者たちにとって、里見氏はやはり余所者である。これまで堀江頼忠を介し、鹿島領を丸く治めてきたとはいえ、やはり疎遠感はあるだろう。
 減封移転が知らされた日、堀江頼忠は鈴木対馬入道を鹿島へ派遣し、領地分配の下調べを命じた。鹿島出身である彼をおいて、適任者はいない。他にも上野七左衛門が補佐役に差し向けられた。
 鹿島移封にあたり、堀江頼忠の手際は実に鮮やかといってよい。外房水軍を鷹ノ島へ回航させ、館山城内に留め置く忠義正室・丸姫の荷をはじめ、多くの大荷物をこれに搭載し、先発で鹿島へと送り込んでいる。人よりも先に荷が動けば、自然と諦めも享受できよう。
 これに引き摺られるように、やがて、里見家臣たちは鹿島へと動きはじめた。
 九月一五日。館山城明渡しの受領役を務める内藤政長・本多忠朝が、安房国に入った。
「抵抗は、ないのう」
 軍勢を率いるのは、それを警戒してのことだった。しかし、激しい抵抗とは裏腹に、内房の里見水軍は早々のうちに武装解除を表明してきた。里見家中家老・正木淡路守は頭を垂れて、勝山城にて内藤政長・本多忠朝を迎え、恭順の態度を示している。その姿勢には、無益な戦さを回避したいという切実さが溢れていた。
 一六日、軍勢は館山城を包囲した。
 戦国武将として知られた里見氏は、意外な程に無抵抗だった。
「安房より鹿島への減封を謹んでお受け申し上げます。何卒、江戸に留め置かれる御館の御身をお返しあれ」
 重臣を代表して、堀江能登守頼忠が口上した。
「上意である」
 本多忠朝は懐より書状を掲げ、ゆっくりと広げていった。
「館山城を没収し、破却すべし。破却は徳川の手で行い、里見の臣下は鹿島領への転居を急ぐべし」
 悔しさは拭えないが、誰にも異存はなかった。
「謹んでお受けします」
 堀江頼忠の震える声が、重臣一同の一致した無念を表していた。

 九月二〇日。
 江戸からの早馬が書状をもたらした。それを一瞥した内藤政長は、傍らの本多忠朝にそれを渡した。 
「このこと、まことであるか?」
 本多忠朝は声を失った。
 早馬の使者が去ると、あらためて両名は書状を読み、それが幕府の真意であることを確認した。
「惨いことよ。いっそ里見家に、同情さえ禁じ得ない」
 その中身を里見重臣に伝えることが、辛いと、内藤政長は呻いた。しかし、このままにしてはおけない。
「恭順した者も、これでは叛意に奔る恐れあり。軍勢を整えておこう」
 そういって、本多忠朝は速やかに下知を飛ばした。
 この日、里見重臣を代表して、堀江能登守頼忠・山本清七・板倉牛洗斎が陣所に呼ばれた。三人は内藤政長の言葉に、言葉を失った。
「鹿島転封を改め替地を沙汰する」
 その替地は、無縁の遠国だ。
「倉吉ですと?」
 穏和な表情を失った堀江頼忠が、噛みつくように理由を質した。その答えは、悲惨なものだった。
「里見安房侍従は鹿島行きを拒んだ。よって伯耆国倉吉に、鹿島の替地を宛がうものなり」
 里見忠義が鹿島行きに難色を示したのは事実だ。しかし、改易を恐れて、むしろ恭順に徹してきたのである。この真逆の理由こそ、本多派の描いた大久保派取り潰しの意趣返しに他ならない。
 鹿島行きの取りやめと倉吉移封、しかも、三万石から四千石の更なる減封。この事実は、里見家臣団を動揺させた。既に荷駄を搬送した者もおり、混乱する輩すらいた。
 堀江頼忠は急いで山本清七・板倉牛洗斎・印東采女佐房一と、一門衆の薦野神五郎頼俊および淳泰を集めて、このことを告げた。
「とにかく、鹿島のことは白紙となった。混乱を収拾し、倉吉へ行く者、禄を離れる者をよくよく吟味せねばなるまい。倉吉は異境。無理強いは出来ない……」
 山本清七の振り絞るような呻き声が、ここにいる全ての代弁だった。

 慶応一九年(一六一四)一〇月一日。徳川家康は大坂城攻めの陣触れを諸国に発した。三日遅れて、徳川秀忠が幕府将軍として、陣触れを発した。このとき、里見忠義は大久保屋敷でそれを聞いた。もはやこれに出兵し、汚名を挽回する術もない。

 安房から倉吉へ行くことを決めた家臣団が、江戸里見屋敷へ到着したのは、その一〇月二四日のことである。安房からの家臣団は、忠義が軟禁されている大久保屋敷へ赴いた。幕府の留守居代官は大広間にて対面することを許した。
 代官同席のもと、主従は対面した。
 およそ二ヶ月ぶりのことだが、なんと長きに感じたことだろうか。この間に起きた出来事が、夢のようであった。
「我が不徳であった」
 里見忠義の第一声である。
 江戸まできた家臣団は、安房を棄てて里見家を支える一念の者ばかりである。厳選された者たちと云えば聞こえがいいが、殆どの家臣団は、里見より墳墓の地を選んだのである。それは里見以前から安房に根を下ろしてきた者たちにとって、選択肢のない苦渋の選択といえよう。
 それを責める資格など、忠義にはなかった。
 この月、里見忠義は倉吉への旅路に就いた。師走の暮れ、里見忠義一行は倉吉へと辿り着いた。鉛色の空が否応なしに憂鬱にさせたのは、云うまでもない。

 慶長一九年(一六一四)師走大晦日。伯耆国倉吉は雪のなかである。温暖な安房では比べものにならぬ積雪に、里見安房守忠義は言葉も出なかった。これは、安房で生まれ育った家臣団も同様のことである。伝承によれば、里見家一行が最初に草鞋を脱いだ先は、伯耆国倉吉神坂大岳院門前とされるが、諸説もある。
 前途を憂うより、生きていく信念を抱いた者……それは、恐らく正木時茂と堀江頼忠の二人だと思われる。
「まずは御家を建て直すことこそ大事なり」
 二人の共通認識は、自分のことよりも里見家再興にあった。私心のない者ほど、強いものはない。打ち拉がれていた家臣団も、二人に引き摺られるように立ち直ろうと足掻いていた。
 我が為す術を如何にすべきか、里見忠義は堀江頼忠に質した。
「新たな国造りに求めるは公徳、人が集いて報徳、これを以て豊穣なり」
「公徳か」
「先ずは公の志をもち、領民に慕われる当主となるのです。断じて私心あるべからず。御館の志、家臣一同で支えましょう。民を富ませてこその領主です。幕府に御館の力、思い知らせてやるのです」
「あいわかった」
 忠義は笑ったが、それが精一杯の痩せ我慢であることは、口にこそしないが皆が承知していた。新しい土地の民政に疎いからと、里見忠義は自らの足で、屋敷の周りを供もなく歩くようになった。今となっては、なによりも領内の地形を周知することが先決であった。
 自然、大岳院へ足繁く通ったのは、道理といえよう。
 倉吉四千石には、幕府の直轄領が多分に含まれていた。すなわち徴収は幕府の代官を経由し、そして残りが忠義に渡される筋書きである。当然、多くが差し引かれて、手元に届くのが高く見積もってもせいぜい四千両だった。名ばかりの大名、これでは国の経営も儘ならぬ有様だ。が、このことは、もはやどうすることも出来ない。

 雪の溶け始めた頃、里見忠義もようやく領内を自由に動けるようになっていた。この越冬で学んだことは、暖を取るための準備が必要ということだった。
 山陰では、越冬が至難である。薪がなくなり、壁板や障子を燃やして過ごしたことを、ゆめゆめ忘れてはならない。
「領内を廻り、そのときに各々薪木を拾うよう心懸けましょう。毎日少しずつ貯めていけば、次の冬までに間に合います」
 堀江頼忠の提案に、皆は頷いた。
 みっともないと云ってはいられない厳しい現実を、誰もが一様に噛み締めている。そうしなくては、生き残れないのだ。それは、厳しい冬を知らない温暖な国の人々が学んだ、過酷な現実であった。

 伯耆国で里見氏の所領とされる倉吉四千石の引継ぎ役を任じられていた幕府代官・山田五郎兵衛直時のもとへ、密書が届いたのは、四月半ばのことである。大坂での決戦が近いことや、里見の動きに不穏はないか、連絡を密にするよう細々とした指示が、そこに記されていた。
 幕府は、里見家を潰したがっている。山田直時はそう感じていた。得にもならぬ嫌がらせとも云えよう。幸い、外地との往来の事実は一切ない。このうえは同情路線でいこうと、山田五郎兵衛直時は考えていた。
 里見忠義は恭順さえ貫けば、きっと東国に戻れると信じ、ひたすら大岳院へ参詣する日々を続けていた。安房でなくとも、関東のどこかに帰る日はきっとくる。信仰の支えはただひとつ、望郷の一念であった。

 慶長二〇年五月八日、大坂城は陥落し、豊臣氏は滅亡した。豊家滅亡により、徳川の天下は定まった。大坂の大乱ののち、七月一三日を以て年号が〈元和〉と改元された。これをして、幕府は諸国に〈元和偃武〉と触れた。応仁の乱以来、長く続いた戦国が終了した事を意味する。
 すべての戦さの終わり。新しい時代の、宣言であった。

 元和元年(一六一五)七月、伯耆国倉吉は猛暑のなかにある。
 安房の乾いた風と異なり、どこか蒸すような心地がすると、里見安房守忠義は思った。
「早く東国に帰りたい」
 これは忠義のみならず、家臣団すべての総意だった。もうすぐ、あの冬が来る。その前に蓄えることが、家臣たちの急務だった。身分を問わず、いまは誰もが畑に入り、山に踏入り、百姓と懇を交えた。そのため農の身分からも、多くの者が里見の家来になりたいと申し出てきた。これは嬉しいことだ。土地に明るい者を召し抱えることは珍しいことではない。
「目立つ動きは、くれぐれも」
 堀江能登守頼忠は同意しつつも、常に幕府の目が光っていることを忘れぬよう、忠義に具申した。正木大膳亮時茂も同感だと頷いた。
 幕府は朱子学を奨励し、『管子』でいうところの
「士農工商四民、国の礎」
を身分制度として確立していく方針である。大坂の戦乱終息のこのとき、身分制度の徹底はまだ末端にまで行き届いていなかった。が、元和偃武のいまこそ、それらは徹底されることだろう。
「新たな国造りに求めるは公徳、人が集いて報徳、これを以て豊穣なり」
 堀江頼忠の言葉を、里見忠義は忘れていない。むしろ徹しようと努めた。
「先ずは公の志をもち領民に慕われる当主となるべし。断じて私心あるべからず。構えて我が意思と為すべし」
 里見忠義は微禄もしくは据置きを条件でよいという農の者を召し抱えた。つまり、常は生産者たれという意味である。この条件では立身などありえない。それでも数名の者が名乗り出たのは驚きだった。
 公徳を以て国を司ること、堀江頼忠の言葉は抽象的だ。そのため講義を余儀なくされるのだが、多忙な頼忠には厳しいことである。そのため大岳院住持・秀山可春に講義を託すこととなった。
「人が生きていくうえで大切といわれている八つの道徳的規範がござる。公徳を以て民を慈しむ御館なれば、このこと、よくよく胸に刻まれたし」
 よく解らぬと云う忠義の言葉に、秀山可春は微笑みながら根気よく言葉で説いた。
「慈しみ、思いやり、礼に基づく自己抑制と他者への思いやり。これを以て仁なり」
 他にも義・礼・智・忠・信・孝・梯、いわゆる〈仁義八行〉を秀山可春は説いた。
 季節は巡る。九月二日、倉吉に幕府の使いが来た。招集を沙汰されたのは、正木時茂一人だ。これが、時茂と忠義の今生の別れとなる。

 駿府に軟禁された正木時茂に登城が命じられたのは、翌年三月暮れのことである。家康は憔悴しているものの、それでも毅然と、時茂に対峙した。
「その方、駿府に留まりて、一家を興す機はないか?」
 家康の申し出に、時茂は首を振った。
「その方の名で里見家を再興するべし。治世に向く者は、安房守ではなく、その方と考えておった」
「恐れながら、それがしは御館を支えし役目の者にて、一家を興すことなど道理が立ちませぬ」
家康は書付を一瞥しながら、里見忠義が如何に過ごしているか、その報せを時茂に促した。
「仁義八行、公徳を心に刻み私心を捨て、民のために報いることが、いまの御館の志にござります」
「仁義八行だと?」
 家康は首を傾げた。傍らの本多正純をみると、彼も首を横に振った。林羅山の説く朱子学は、智・仁・勇の〈三徳〉である。これは『論語』にある言葉で
「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」
という、儒教が説く三つの徳を意味する。
「それは、いかなるものか?」
 家康は語尾を荒げた。
「されば、仁・義・礼・智・忠・信・孝・梯。八つの道徳を以て公の志を抱き、私心を廃して報いる治世を、御館はお望みです」
「知らぬな。上総介(本多正純)、どうか?」
「大御所の御奨励せし儒教のこと、そこには三徳も五徳もござる。仁義八行などとは、聞いたこともござりません」
 正木時茂は黙ったままだ。
 この日、家康は時茂を帰したが、こののち、林羅山よりもたらされた仁義八行の意を知り、怒声を張り上げた。
「道春(林羅山の号)めが、〈仁義八行〉の意を申した。不愉快な話である」
「不愉快とは?」
 本多正純が首を傾げた。
「儂が朱子学を奨励するのは、徳目を明確にしつつも懲罰を断定できる理ゆえじゃ。幕府にとって都合がよい、それゆえの採用である」
「はい」
「然るに朱子学にとって、三徳五常が守れぬ者を懲罰に値せぬ言葉もあり。自己研鑽のみならず自他研鑽の意味を持つものこそ、仁義八行だというのじゃ」
「よく解りません」
「懲罰の否定よ。この教えは、幕府にとって不都合極まりない」
 徳川の理念よりも上位の真理、これは幕府の否定にもつながる。家康が怒るのも、無理はない。
 三日後、再び家康は正木時茂に駿府分家を質した。答えに、変わりはない。
「正木大膳亮、強情な奴め!」
 家康は時茂を下がらせると、江戸へ一筆したためた。
「我が死ののちは、時茂を江戸に留めるべし。断じて倉吉に返すことなかれ」
 その遺訓を、秀忠は遵守した。

 元和二年四月一七日、徳川家康が駿府城にて大往生を遂げた。享年七五歳。この死を以て、江戸・駿府の二元政治が終了し、天下の采配は、徳川秀忠一手に委ねられることとなる。
「駿府の大御所が亡くなってから、恩赦で帰れるものと期待しておった。なのに、事態は少しも好転せぬ。なんとしたことか」
 家臣たちの呟きにも、忠義は笑って頷くばかりだ。倉吉へきたばかりのときに比べれば、謙虚になったものだと、堀江能登守頼忠は幾度となく頷いた。
 以前の忠義なら、ひたすら天を呪い、きっと徳川を罵倒するばかりだろう。
 現在の堀江頼忠は、正木時茂不在の穴を埋めるに足る尽力により、忠義から里見姓をも許されている。それは、里見家中でも破格の厚遇だが、その滅私奉公ぶりは痛々しく、家中誰もが妬む者もない。

 元和三年(一六一七)一月半ば。伯耆国倉吉は雪のなかにある。正月明けに、江戸から急使が来て以来、里見家では誰もが湯鬱を隠せないでいた。播州姫路城の池田宮内少輔忠雄が、兄・利隆早世を受けて遺領を相続するらしい。そして、倉吉を含む鳥取藩三二万五千石を、利隆の嫡男・新太郎が采配するというのだ。
 これまで紛いなりにも独立国だった倉吉は、池田鳥取藩の下に置かれることとなる。さりとて主従の関係になるわけではなく、政は池田家の代官が預かり、里見家は実権を奪われるのであった。
「惨い」
 里見忠義は憤慨した。
 さりとて、いまの里見家に何が出来ようか。仁義八行という思想が原因と解らぬ忠義である、運命を受け容れる以外に術はない。
 その試練は、さっそく訪れた。神坂の里見忠義屋敷を、長槍を担いだ池田家の小隊が囲んだのである。無勢の忠義は、この申し出に応じるしかなかった。たちまち槍先に囲まれ、忠義は屋敷の外へと叩き出された。騒ぎを聞きつけ里見家臣団が駆けつけたときは既に遅く、忠義は槍に囲まれて門へ追われるところであった。
「残念ながら、里見家には軍勢と呼べる力がございません。池田家の態度を見定めるまでは、じっとするよりございますまい」
 遅れて大岳院に駆けつけた堀江頼忠は、里見家主従に進言した。
替え着もないまま放り出された忠義のため、頼忠は色々と衣類を掻き集めてきた。綿入りを羽織って、忠義はようやく心地が就いたように、大きく息を吐いた。
「このような無法は堪え難い。いっそ討ち入って皆で斬り死にしようか」
 忠義の一言に、頼忠は一喝した。〈仁義八行〉をめざす者、死というものを軽々しく口にしてはならぬ、そう諫める頼忠の目に、忠義は萎縮した。
 堀江頼忠はねばり強い交渉を繰り返し、落ち着く先として、田中村の簡素な屋敷を池田家より確保した。
 この年九月初頭、堀江能登守頼忠は大量に吐血した。
「隠していたか?」
 忠義は、頼忠を質した。恐らくこれまでも吐血したに違いない。病躯を隠してきた頼忠を、忠義は責めた。
「儂が床に伏せば、池田家との駆引きは儘なりませぬ」
 その言葉に、誰もが項垂れるのであった。頼忠が一切の舵取りを一任していただけに、今後のことが不安であった。忠義はただちに頼忠の抱えることを分担させた。そして、その実績ひとつひとつの重みに、家臣団は戦慄した。
「なぜ、家老一人でこれほどの重みを背負ったものか」
 震える声で、黒川権右衛門が呟いた。
 医者のいない倉吉では、治す術がない。頼忠は死ぬ直前まで愚直に務めることで、生きた足跡を遺す道を選択したのだ。
 忠義は大声を上げて泣き伏した。
「仁義八行とは申せ、能登ひとりに重荷を負わせたことが悔やまれる」
 忠義は心から後悔した。
 堀江能登守頼忠は病床に伏して僅か数日で、変相の様を露呈し、忠義は愕然となった。
「もともとこんなものです。口に綿を含んで、痩せたことを謀ってきただけのこと」
 力なく、堀江頼忠が笑った。
「なぜ、命を削ってまで……逃げ出してもよかったのだぞ?」
 詰るように忠義が呻いた。その濡れた拳を、そっと包むように握り締めながら
「関東へ帰るのなら、みな一緒がいい」
 堀江頼忠の言葉に、忠義は涙を落とした。
「御館、臆することなかれ」
 心を見透かしたように、堀江頼忠は、明瞭な言葉で訴えた。
「能登守は天より定められた務めを全うしたのだと、満足しておりますぞ」
「能登!」
「臆して立ち止まることこそ、我を犬死にとすることにて。御館はもう言葉で諭さずとも、充分解っておられることでしょう」
 里見忠義は嗚咽を繰り返すばかりだった。
「こののちは見舞い無用。我に割く刻を、惜しみなく臣下に与え給え。家臣団の支えが明るく太いことこそ、大事なことなのです」
 忠義は、大きく二度、頷いた。

 元和三年九月一二日、堀江能登守頼忠は二度と起きあがることなく、この世を去った。


 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


     ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ 

maingazo3-624x227.png                               里見氏大河ドラマ化実行委員会

熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/02/12(水) 20:03:21|
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【里見八賢臣】堀江頼忠

第二 堀江頼忠(前編)


 戦国時代、家臣は主君より一字を拝領することを譽とした。里見家でも、歴代当主が、その諱より一字を与えて忠孝を望んだ。このことは、里見家に限らず、全国の戦国武将に見受けられた共通の掌握術である。一字を賜った家臣は、主君の覚え目出度いことを誇りに励んだことだろう。
 里見家晩期に命を磨り減らし精勤した賢臣がいた。
 堀江能登守頼忠。
 その名から察し、一字を与えたのは、里見義頼だろう。彼は元来、正木宗家の臣下だった。天正争乱の折、義頼に叛いた正木憲時を見限り功を成した。以来、義頼の近従となり、やがては義康付となった。
 しかし、義頼の時代、堀江頼忠の功績は表に出てこない。期待の新参という意味で、義頼が可愛がっていたのかも知れないが、その非凡なる才覚は、次の代より次第に開花する。

 義頼は病で早世する。次の当主は、齢一五の義康である。義康は持ち前の陽性な気質で、思い切った改革を断行した。その最たるものが、館山開発である。砦ほどのものはあったものの、これまで江戸湾に向いた拠点は岡本城だった。この城は軍事に適していたが、平治には不向きな立地が否めない。これまで不自由がなかったのは、江戸湾が、北条との係争の地だったからである。
 この時代、上方では豊臣秀吉が天下統一を急いでいた。里見家もいち早く臣下の礼を取っている。このため〈惣無事令〉が下され、秀吉の許可なき戦さが困難になっていた。
 内政を富ます工夫が要求されたのである。
 天正一七年七月、義康は竣工を急ぐ館山城下を巡検した。着工しておよそ四年、城域と湾にいたる城下町の整備は、このときほぼ完了したといってよい。このとき義康は、岩崎与次右衛門・石井丹右衛門等商人衆を伴い、鷹ノ島の港湾も巡検している。
「このところ、伊豆・相模の湾が、極めて取締が厳しいものにて」
 石井丹右衛門の情報は、北条の戦意を洞察させる。向こうは出荷規制をしながら、それでも買付は高値でも仕入れるという話だ。
「商人には厳しい話だが、暫く北条領へ出入りせぬよう」
 ぼそりと義康は呟いた。
「今の時期ならでは、の出荷もございます。せめて抜け荷もなりませんか?」
 岩崎与次右衛門は小声で伺った。
「関白の乱波がこのことを見ていよう。詰まらぬ云い掛かりを被るのは迷惑千万。相模へ廻す荷は、江尻へ売るがよい」
「江尻ですか?」
「徳川家こそ、物入りになると思われようが?」
 その意味を、岩崎与次右衛門は洞察した。戦さは、既に始まっているに等しい。
「よろしいか?」
「承知しました」
 やがて、一〇月、〈名胡桃事件〉が生じる。
 秀吉は諸国に〈小田原征伐〉を号令した。

 天正一八年三月。岡本城に里見の諸将が招集された。惣無事軍令に応じるための、軍議であった。
「久留里城方面は、動きはどうか?」
 正木弥九郎時茂は佐貫城代・加藤太郎左衛門弘景に戦況を伺った。義康実弟である時茂は、細かいところに気がつく。
「千葉も小田原へ兵を取られたものか、御館の撤収後は攻め込む様子もございません」
 加藤弘景の答えに、義康は頷いた。
「伊賀入道がよくしておるからに相違ない。太郎左衛門もよき父を持ったのう」
「勿体なき御言葉」
 加藤弘景は深く頭を下げた。
「山本備中守にも引続き上総への備え崩さぬよう、申しつけるよう。よいな、太郎左衛門」
「しかと承りました」
 そして、義康は水軍の諸将をみた。
 里見水軍の中核を担うのが、勝浦城主・正木左近大夫頼忠、造海城主・正木淡路守時盛のふたりである。
「堀江能登守」
 義康は堀江能登守頼忠を促した。応と答え、堀江頼忠は房総半島の図面を拡げた。
「海賊衆は兵を三方へ運んで貰いたい」
 まず義康は士気城と東金城を指した。
ここは千葉方の士気城主・酒井伯耆守康治と、東金城主・酒井左衛門佐政辰の勢力圏である。両名ともに城主は小田原城へ出仕し、その留守は番兵が預かっていた。
「まず一隊を士気城へ差し向ける。富田郷を押さえれば、酒井勢は兵糧に窮する。出来るなら血を流さずに降伏させたい」
 その攻め手の総大将は正木時茂が任じられ、拠点を一宮城と定めた。
「弥九郎(正木時茂)は派手に小田喜から北上し、一宮へ入城せよ。敵の気を引きつけることが必要にて、これを陽動の意と心得よ」
「はい」
「頼むぞ、弥九郎」
 時茂は嬉しそうに頷いた。直々に義康から頼むと云われることが、心から嬉しいのだ。小田喜正木家の名跡を継いだ重責を、この兄は理解してくれる。若すぎる里見家当主に皆が心服するように、若すぎる正木家当主にも家臣が従った。それは同じ重責だ。頼むという言葉は、重責を超えた信頼の証でもある。
「次に内房の海賊衆は、千葉家を攻める兵力を運ぶべし」
 図面を指した場所は、下総国船橋郷。
 船橋郷は千葉氏家老・原一族の家臣・高城胤則の領地である。先の酒井伯耆守康治・酒井左衛門佐政辰同様、小金城もまた、留守家臣のみである。
「下総ではな、千葉に原・原に高城・両酒井などという、風刺の狂歌があるらしい。その支えとなる家臣ことごとくを小田原に取られては、千葉も仕舞いよ」
「して、もう一隊は?」
 水軍を擁した三方作戦の残り一隊はどこか、図面の前で堀江能登守頼忠が呟いた。
「そう急くな。もうひとつは関白殿下に応じるものなり」
 そういって、里見義康は三浦半島を指した。
「野比村、ここに上陸し鎌倉を目指す」
「恐れながら、海路小田原へ向かう方が、早いのでは?」
 薦野甚五郎頼俊が怪訝そうに訊ねた。
「増田右衛門少尉殿からの書状によると、小田原へは西国の軍勢二二万が揃うとある。海は西国の船舶で埋め尽くされて、とても上陸など出来まいよ」
 成る程と、薦野頼俊は柏手を打った。
「して、三浦へは誰が?」
 堀江頼忠が間髪入れずに差し挟んだ。話が横道に逸れないよう、軍議を采配してくれる優秀な家臣である。
「三浦は里見の主力、すなわち儂と岡本城の兵力すべて、そして安房の城主ことごとくじゃ。勝山の水軍は兵站を支えるため、我らを野比村へ下ろしたあとは先に和賀江島(鎌倉)にて待機せよ」
「畏れ入りました。見事な布陣です」
 堀江頼忠が呟くと、誰もが同様に唱えた。
 先発として上総方面軍が動いたのは四月二日、このとき秀吉は箱根湯本に達していた。富田郷の布陣は二〇日。そして三浦方面は、一三日上陸した。

 里見家にとって不幸なことがある。
 この三浦半島上陸にあたり、制札を立てたことである。のちにこのことが、秀吉により
「私闘」
とみなされる。即ち〈惣無事令〉の違反、であった。

 五月、笠懸山天守閣には秀吉並びに豊臣秀次・徳川家康・織田信雄・石田三成・増田長盛等が揃い、秀吉の傍らに茶々の方が控えた。長陣に退屈した秀吉が、わざわざ淀から呼び寄せたのである。
 控える里見義康は神妙ながら、胸中に不安を抱えていた。そして、その不安は的中した。
「安房守に由々しき軍規違反、これあり」
 豊臣秀次が、沙汰状を読み上げた。
 義康は微動だにすることなく、ただ一言、承ると呟いた。
「ひとつ、御禁制を勝手に為したること、不届き千万。禁制は関白の許しなく行うべからず、それを犯しておる」
 秀次はどこから調べ上げたものか、四月七日付の船橋郷の禁制をはじめ、三浦半島上陸時の野比村・長沢村・津久井村の制札、四月二〇日の山武郷光明寺の制札の事実を読み上げた。
 その事実を、義康は認めた。
「いまひとつある。勝手に闘争したる罪である。覚えがあろう?」
 上総侵攻だろう。しかしそれは、小田原参陣のための出陣だ。義康は否定した。
「関白の断りもなしに勝手な戦さをしたる者、これ惣無事令に背きし大罪なり」
「我に、他意はなし。ただただ関白殿下への忠勤あるのみ」
 そう云いきった義康は、存分にと胸を張った。
「相判った」
 このとき秀吉が断じた言葉は、過酷なものであった。
「里見安房守の所領のうち上総領を召し上げるものなり。安房国のことは追って沙汰する。下がるがいい」
 義康は耳を疑った。
 上総領は、里見全領のほぼ半分である。
「暫く……!」
「以上、詮議を終える」
 義康は身動き出来なかった。
 上総南領の多くは、一族や有力家臣に委ねてきた。その領地が失われるということは、安房の家臣に与えた知行を削り、不足と承知で、引き上げてくる者等へそれを与えねばならない。家中が乱れ、それを理由に、今度は里見家が取り潰されるかも知れない。
 上総に展開する各方面軍は、里見家の存亡の瀬戸際を知ると、おとなしく義康に従う道を選んだ。上総領内の里見勢がすべて引き上げたのは七月中旬。里見の治世を恋みる者は、百姓漁師を問うことなく、その移転に従った。
 このとき、館山城へ拠点を移すことが決定した。岡本城下では家臣の屋敷割が困難だからだ。小田原征伐ののち、堀江頼忠は義康に従い、家臣たちの安房受け容れに奔走する。

 慶長三年八月一八日。従一位(贈正一位)前関白太政大臣・豊臣秀吉、死去。享年六三歳。一己の天下人の死により、世は大きく動く。
 里見義康は江戸に居を置く徳川家康に附いた。
 慶長五年、関ヶ原の戦い。里見家は結城秀康に附いて宇都宮で上杉景勝に備えた。この功績で、戦後、鹿島三万石が加増される。

 慶長八年、里見義康が急逝した。
 後継者・忠義は僅か一〇歳。後見人は正木時茂、補佐役は里見左京亮・板倉牛洗斎・堀江能登守頼忠・黒川甲斐入道が承ると表明された。
 慶長九年(一六〇四)正月、里見忠義は後見人・補佐役ともども江戸へ賀詞に赴いた。忠義は許嫁として、徳川家臣の宿老・大久保忠隣の孫が決定していた。徳川の世で、里見家の行く末は安泰かに見えた。

 慶長九年五月、堀江頼忠は新たに加増された鹿島領支配の奉行人として、鹿島神宮をはじめとする寺社の寄進等を進めていた。堀江頼忠は内政外交を上方から学んだ。ゆえに義康も重く登用した。当然、忠義も彼を頼みとしていたのは云うまでもない。

 慶長一二年、幕府将軍を辞した徳川家康は大御所となり駿府に居を構える。江戸と駿府、二元政治という複雑な状況が、徳川家に派閥を生み出していく。それは否応なしに、里見家に厄災となって降りかかることとなる。

 慶長一八年、大久保長安事件が起きる。
 徳川の二大派閥、大久保家と本多家の対立の渦中にいた男の死により、均衡が崩れた。傲り者と揶揄された長安の、生前の不正が本多派によって摘発された。結果として、大久保忠隣をはじめ姻戚や懇意の者も、次々と連座で改易となった。
 里見忠義の妻は、忠隣の孫娘。この例から逃れることは適わなかった。
 慶長一九年、里見忠義は江戸に召し出された。 九月六日の昼、忠義は大久保忠職の屋敷にて待機するよう幕府の沙汰を得た。忠義は疑いもなく屋敷に入り、明日の沙汰を待った。
 しかし、二日経っても音信がない。
 結局、何の音沙汰もなく、九日の朝を迎えた。この日になって、ようやく訪れた幕府の使者が延べた言葉に、里見忠義は耳を疑った。
「上意により安房国を召し上げ、常陸鹿島領三万石へ減封にて候」
 里見忠義はどう考えていいものか、混乱する脳裏のなかで、これが大久保長安事件の余波であることを、次第に理解していった。



 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。

戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2014/02/11(火) 18:02:52|
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【里見八賢臣】正木時茂

  第一 正木時茂


 正木の家は安房国に派生する、里見家と表裏の名家だ。その表裏に昇華させたのが正木大膳亮通綱だとしたら、確立させた第一人者が、この時茂という人物だろう。
 時茂は通綱の次男。本来ならば、世の表舞台に出てくる場面に恵まれなかったかも知れない。それが、ひょんなことで、里見の大黒柱となるのだから、世の中とは不思議このうえない。

 天文二年(一五三三)七月、時茂は里見家傍流の若き義堯とともに、造海城の真里谷丹波守信隆を訪れていた。義堯は当主・里見義豊の叔父・実堯の嫡男である。こちらも世が世なら、決して表に出てくる存在ではない。
 両名が固い主従となって、世に台頭する事件が起きた。〈天文の内乱〉とも呼ばれる、里見家の内紛である。
 どういう内紛かといえば、戦国時代にはありふれた事件かも知れない。ようは、当主にとって不都合な叔父・実堯と、賢臣たる正木通綱を、里見実堯が一計を策し誅殺したものであった。理由は明確ではないが、察するに、当主にとっては目の上の瘤を排除したのであろう。
 このとき、両名の一族も滅ぼされる筈だった。通綱の長男・弥次郎も父とともに討たれたし、実堯の居城である久留里にも軍勢が殺到した。
 しかし、時茂も義堯も、造海城にあって難を逃れたのである。
 このとき生き存えた両名は、思いもよらぬ行動に出た。父の仇討ちという大義名分で、挙兵したのである。
ここで、奇蹟が起きた。安房の軍勢は、当主を見限り、たかが傍流の義堯を担ぐ行動に出たのである。主家への謀叛という誹りさえものともせず、民意は両名を選んだのだ。
 正木時茂は里見義堯を旗頭とし、この軍勢の補佐役に徹して、父の仇討ちという悲願を遂行した。
 翌年四月六日、平郡の山間に拡がる一帯で、里見義堯と義豊が激突した。これを〈犬掛合戦〉という。
 平久里川は上流から鮮血が流れとなり、みるみると染め上がっていった。敵味方のものとも解らぬ骸も流れてきた。まだ息のある兵たちの呻き声は随所に響いたが、それ以上に猛り狂う怒号がそれらを覆い潰していった。
 馬上の正木時茂は大鎌鎗を振るった。徒歩きの義豊勢は、次々になぎ倒されていった。これに象徴されるように、天運は、明らかに義堯側に微笑んでいた。随所で義豊勢が討ち果たされていった。
合戦開始から半刻も経たぬ頃。
「退け、退け!」
 そう叫ぶ大将首めがけて、義堯方の兵が殺到した。無数の槍襖に対し、一本の太刀など無手に等しかった。甲冑を刺し貫く槍に、その大将首は絶命した。
それこそ、里見義豊その人だった。
「御大将、討ち取られ候え」
 義豊勢はその声に動揺した。逃げる者もいたが、それらは次々と討ち果たされていった。
 滝田城下の川又では義豊を盛り立ててきた御傍衆たちが大勢討たれた。こうして犬掛の合戦において、義堯は圧倒的な大勝を得たのである。
 庶流が嫡流を討つ。
 これは、決して特別なことではない。戦国を代表する武将の多くは、兄や宗家に取って代わる実力者だ。里見氏のこれもまた、民意によって、党首の座がすげ変わったまでに過ぎない。
 このときから、里見義堯は若くして戦国の荒波に曝されることとなり、その参謀として、正木時茂の双肩にも重責が負わされたのである。

 両者にとって最初の試練が、小弓公方・足利義明との共同作戦である。小田原の北条氏綱と戦うため、連合軍を編制して、下総へと出陣した。
 小弓公方とは、古河公方から分かれた房総の権威であった。これを旗頭にすることで、里見家は江戸湾を隔てた北条氏と対峙することが出来る。それに、正木時茂にとっても、北条は憎むべき仇敵であった。三浦半島の雄・三浦一族は扇谷上杉氏の家老であった。北条早雲の時代、三浦氏は相模において最後まで北条に抗った。そして、滅び去ったのである。滅亡直前、三浦の若者ひとり、海を隔てた房総へ逃れて生き存えた。それが、時茂の父・通綱とされる。
 つまり、時茂にとって、北条はもうひとつの父の仇なのであった。
 足利・里見連合軍が太日川(のちの江戸川)東岸の国府台に布陣したのは、天文七年(一五三八)一〇月。このときの戦いを〈第一次国府台合戦〉という。この戦さは、結果的には足利義明が討たれたことで敗戦となったが、里見勢は無傷の状態で撤退した。
「小弓公方家の御身内を、安房に匿いたまえ」
 時茂の献策に義堯は頷いた。このことで小弓公方の血脈が後世に残されたのである。
 国府台合戦ののち、時茂は義堯に従い、内政と共に東上総攻略に力を発揮した。長狭郡を拠点とする時茂の軍勢は強く、天文一三年頃には小田喜(のちの大多喜)城を落とし、そこを所領とした。
 戦国時代、正木時茂は〈槍大膳〉として近隣に知られる存在だった。また、遠く越前国では『朝倉宗滴話記』曰く
   又、日本に国持人使の上手よき
   手本と申すべく仁は、今川殿・
   甲斐武田殿・三好修理大夫殿・
   長尾殿・安芸毛利・織田上総介
   方・関東正木大膳亮方
と記されるとおり、正木時茂は人使いの妙を得た人材として紹介されている。
 しかし、天文年間。里見氏にとっては、北条氏の調略等による内乱期が長く続き、時茂もまた、義堯を支えながら里見の苦難に立ち向かったのである。

 関東でも、長年対立していた古河公方家と上杉氏が和解し、同じ敵として北条に立ち向かう気運が高まっていた。里見家もこれに同調することは、決して無為ではない。
「申し上げます」
 正木時茂が図面を拡げながら、義堯をみた。
「なにか策でも?」
「は」
 北条という共通の敵を持ちながら、上杉との共闘のない無策を、時茂は諌言した。痛いところだと、義堯は呟いた。さりとて上杉は戦さ下手でも知られている。殊、野戦においては数を頼むより術を知らないといってもよい。
「誰かと通じよと申すか?」
「長野信濃守」
「なんと?」
 義堯は頷いた。上杉陣営にあって戦さ上手で知られる上野国箕輪城の長野信濃守業政。かつて義堯はこの者の父・伊予守憲業の娘を正室に迎えていたことがある。業政は、その兄だ。正室は早くに亡く、義堯はすっかり長野氏とは疎遠であった。
「亡き正妻様の御子・文悟丸様を、長野家に養子として差し出すというのは如何か」
「なんと?」
「文悟丸様は一四歳になりました。元服も適います」
「これを質に、盟約を結ぶのか?」
「血統は長野家にて、養子といえども叔父甥の間柄。疎かにされることはございますまい。これにて、両家は結びつくと思われます」
「易くいうものよ」
「長野信濃守が北条を睨んで当家をどう見ているものか、腹が探れるだけでも収穫。しくじっても無駄に非ずや」
 上杉家に伝手はないが、長野家を介せば、間接的に共闘が適う。確かにこのことは無益な話ではない。
 委細を任された正木時茂は上野国に発って、交渉に臨んだ。
 上州榛名東麓の箕輪城は、西上野の要であった。軍略に長ける長野信濃守業政は、正木時茂の申し出に
「さっそくに」
と即答した。有為か無為か、先々を見越す慧眼で同意したのである。
 こののち、文悟丸は業政の実子同様に薫陶され、のちに石井家の家督を継いで重臣列に遇された。文悟丸、元服して義樹を名乗る。のちの石井讃岐守信房である。
 しかし、天文一四年(一五四五)に起きた〈河越夜戦〉で、上杉氏は北条氏康から壊滅的な打撃を被った。長野業政のみ留まり、なんと上杉氏は越後へ逃亡したのである。

 天文二二年(一五五三)、里見義堯は隠居を宣言し、家督を嫡男・義弘に譲った。恐らく正木時茂もそれに倣い、家督を嫡男・信茂に譲ったことだろう。信茂の正室は義堯の娘・種姫で、いよいよ里見家との結びつきも強くなった。
「ゆめゆめ里見への忠義を怠ることなかれ」
 時茂は強く一族に云い含めたことだろう。

 永禄三年、越後の長尾景虎が小田原包囲の大遠征を挙行した。長野業政は関東を代表してこれを迎え入れ、里見家もこれに参じた。
「こんな勇壮なる出陣、末代までの譽なりけり」
 正木時茂は越後の精鋭に目を丸くしたことだろう。
 翌年、時茂は世を去った。
 時代はこれから里見家を大きく翻弄するのであるが、時茂の忠節が、後世の基盤となったことは申すまでもない。里見家では時茂の死後より、彼を、伝説の正木時茂と重んじ、後の世の手本とした。



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  1. 2014/02/06(木) 09:59:15|
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「春の国」夢酔藤山作 原画展

南房総方面のフリーペーパー「CLIP」
ご当地の人ではないので、実は夢酔もよく知りませんでした。
が。
そんな罰当たり野郎が、この「CLIP」に、なんと載せて貰えるという果報に恵まれました。

こちらをクリックhttp://clip.m-boso.net/ai1ec_event/yumenokuni/?instance_id=

記事の主役、実際には、夢酔が……ではなく、山鹿先生ですけどね
どうですか?
観に行ってみませんか?

この原画展は、6年くらい前に房州日日新聞で連載された小説「春の國」の挿絵を請け負ってくださった山鹿公珠先生のギャラリーで催されるもの。
連載修了から5年を機に、反響の大きかった原画をもう一度公開するというものです。
つまり、チャンス再来

5年前の原画展は、夢酔の講演会とセットでした。
当時は、稚拙な散文を山鹿先生の水墨画によって、本当に助けられた連載だったと記憶しております。しかも新聞連載二本を抱えた時期で、まったく恥じ入るところです。みんな挿絵のおかげ。それほど評判だったんです。


「春の国」夢酔藤山作 原画展
 日時 2014年2月6日 – 2014年2月24日
 場所 ギャラリーsfk
    地図も載ってるので、場所はここを検索ねhttp://clip.m-boso.net/ai1ec_event/yumenokuni/?instance_id=
 問い合わせ先 ギャラリーsfktel0470・36・3052
 開館時間 11時〜16時
 休館日 火曜・水曜
そ・し・て……16日(日)14時〜、記念ライブ開催。出演:鶴勝英さん(パーカッション)ほか。会費:2000円
16日は、夢酔も参上するつもりです。何か、サプライズとか、あるのかな……ワクワクすっど。


こんな情報を載せてくださった「CLIP」に感謝

いえいえ。情報発信は、ここだけじゃありませんでした。

オープンしたての里見氏大河ドラマ化実行委員会公式HP。
最初の情報発信が、なんと、この原画展なのです。
なんという果報。
これは、皆さん、ぜひ南房総へお越し下さるしかないですね。

これからの季節、南房総は一足早い春を満喫できます。
2月1日に行ってきたから、これは間違いない情報です。
             ほら
              
DSCF1920.jpg
行こうよ、南房総へ。
そして、原画展も見よう。
9日ならば、「岡本城と里見氏ハイキング」がオススメ。
6-24日期間中開催日なら、原画展。
そして、16日は原画展で記念ライブ。夢酔も行くよ。

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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ


2014年。
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  1. 2014/02/04(火) 20:04:11|
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家臣団、もっと知られ隊!

cropped-satomishi_main.png
里見氏大河ドラマ化実行委員会HP


八賢臣について、1月末にここでお話ししたよね。
このことについて、2月1日、里見氏大河ドラマ化実行委員会副会長の山口氏と、千倉でお話ししました。この方は、手作り甲冑を推進しているので、発想や視野が広い。上で紹介しているHPにも関与しておられるので、期待できる一人です。いつも房州入りすると、多忙にも関わらずついつい、お世話になっております。

リンクにも貼ってある南総里見手づくり甲冑愛好会」HP

そんな山口氏に、「八賢臣」のことをお話ししたら、いい反応がありました。
元々、手作り甲冑の関係で、各地に足を伸ばしている山口氏は、山梨にも頻繁に接点を持っており、かの有名な「信玄公祭り」にも関心を持っている。かくいう夢酔も、むかしは甲冑行列に参加する等、この「信玄公祭り」が好きな一人です。
この「信玄公祭り」では、武田二四将が隊列を組んで勇壮な行列をするんですよ。
有名な二四将。こんな風に里見家臣も認知されたらというのが、夢酔の本音。その本音に、もうひとつ、エッセンスを加えて山口氏に語った。
「信玄公祭りに参陣する二四将、自治体単位推しだったりするんですよ」
出身地とか、領地とか、ゆかりのある自治体がその武将を請け負い参加する。祭りにも弾みがつくわけです。大将やるのが市長だったり、観光協会の人だったり、とにかくそこのカラーで、それで箔を付けたいから市民をたくさん動員する。よその隊に負けるな、みたいな。
「こういう風に各自治体ゆかりの里見家臣がいれば、その市町村が全力で部隊を率いて参陣。そうすれば、南総里見まつりにも、実在家臣部隊が行列に参加できます」
ああ、それはいいかも知れないと、山口氏。
里見八賢臣の知名度も定着し、愛着度も高まる。それ自体が一個小隊だから祭りも幅が出ていいです。2013年の南総里見まつりは乃木坂のアイドルを招致して気色の違う客層を取り込んだ挑戦をしたのだから、こういう試みに発展したっていいんじゃないかな。
「八賢臣なんて、実際いるのかな?」
「いますよ。都合悪かったら、自治体にあわせて発掘すればいいんです」
「松戸のまつりでも、敗走する義弘を守って討ち死にした家臣の末裔がいたんだよね」
「そういう人を組み込んでも、いいんじゃないですか?あと、武田では~夫人隊とか、女性部隊とかいうのがあるから、南房総市の青岳尼隊とか、あと御前様隊とか、彩りも添えられるんじゃないですか」
いつもと違い、素面だからまともな話ができて、実に有意義でした。

ここで整理してみよう。
自治体毎に家臣を散らすことが出来るのか?
散らしてみよう、ほととぎす。夢酔の力業をご覧じよ。

【自治体ゆかり別里見家臣等】
☆館山市
  堀江頼忠・岩崎与次右衛門・印東房一 等
☆南房総市
  岡本頼元・岡本頼重・岡本元重 等
☆勝浦市
  正木時忠・正木頼忠 等
☆大多喜町
  正木時茂 等
☆富津市
  正木時盛 等
☆鋸南町
  正木輝綱 等
☆鴨川市
  正木通綱 等

なんか、丸郡とか長狭郡の武将が多いから、県内全体に散らすのが困難。
所領がなくてもいいのなら、こういう荒技も。

☆市川市:安西実元(国府台合戦で義弘を逃がし討ち死にした)
☆一宮町:正木時通(一宮城を攻略した)

もう少し、どうにかならん?
ならば、思い切って、こういうのは!

☆君津市:里見義堯(中興の祖、久留里城に里見の拠点を置いた)

これで、少しでも南総が埋まったと思いませんか。夢酔チョイスもまんざらではない筈です。
もっと幅を出すなら、彩りとして、こういうものを。

☆南房総市:青岳尼(里見義弘正室)
☆鴨川市:龍雲院(里見義頼室・里見義康生母)
☆大多喜町:種姫(里見義堯娘・正木信茂正室)

女性行列隊、ですよ。
これまでやってきたフィクションの伏姫単品より、見栄えの云い侍女部隊が期待できないですか?
あと、他県からの応援部隊も招致できる。

☆茨城県鹿嶋市:鈴木対馬入道(鹿島加増時に在地から重臣に引き上げられた)
☆群馬県高崎市:石井信房
 (もとは里見義堯の子・義樹、箕輪城主長野業政の養子となり長野十六人槍の一人)
☆神奈川県小田原市:桃源院(里見忠義正室・大久保忠隣孫娘)

ほら、後北条を越えて、小田原ともいいパイプが出来そうな気がしませんか。
あと、せっかくなので、演武とかあると勇壮ですよね。里見家にはふたりの兵法指南役がいたことが解っています。この流派は、現在も息づいているので、もし、県内に道場があったら、絶対にお願いしたらいいんです。

☆源流:木曾庄九郎(里見兵法指南中は念流、のちに源流を創始)
☆新当流:塚原五左衛門(鹿島から抜擢された兵法指南とされる)

山口氏とはこれの半分くらいしか、お話しが出来ませんでした。途中で、館山へ呑みに云っちゃったもので、有耶無耶に……。

でも、家臣とか、女性とか、他県とのつながりとか、今までフィクションの八犬伝だけで終わっていたことが、再興されていく機会がまだまだ眠っていること、勿体ないチャンスですよね。

銭がない?
信玄公祭りは自治体部隊の他に、地元企業部隊もあるんですよ。こういうところが企業宣伝も兼ねて出陣すれば、地域だけじゃなく「人」も盛り上がる。
可能性はたくさん埋まっているので、どんどん掘り起こしましょうよ。

2014年。
新しいことを始めて欲しい、そんな気持です。


戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


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  1. 2014/02/03(月) 10:32:17|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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里見氏大河ドラマ化実行委員会

公式HPがUPされています。
http://satomishi.com/

これから、続々と情報が発信されますよ。
楽しみです。





戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2014/02/02(日) 19:53:17|
  2. 里見関連広告板
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