散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

喜連川氏黎明

 下野国の高家として徳川幕府に厚遇された喜連川氏。
 関東足利氏が秀吉の気まぐれで、それでも一家を再興したことで後世に血脈を保ったことは、皆さまも承知のとおりです。
 喜連川氏を興すまで、関東足利氏の苦悩は長く続いたのです。その喜連川氏を影ながら支えたのは、里見氏でした。

 関東公方。
 室町時代に室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官。後年、鎌倉公方と称され、のちに古河公方へと変わっていくことになります。また、鎌倉公方は正式な幕府の役職ではなく正しくは「関東管領」です。その補佐たる上杉氏の正式な役職は「執事」とされていました。それが、鎌倉公方家の幕府将軍への叛意に伴い、本来の「関東管領家」が「鎌倉公方」となり、「執事」が「関東管領」となったのです。
享徳の乱(享徳3年12月27日~文明14年11月27日)によって、鎌倉公方・足利成氏は鎌倉を追われて古河に居を構え「古河公方」を名乗ります。これが、関東争乱の大義名分の旗頭として翻弄される足利家の黎明となったのです。
 関東は、「関東管領家」となった上杉氏が内紛を起こし、これに引き摺られて諸国豪族が兵を挙げ、更には便乗して北条早雲が介入してきたことによる、戦国が始まりました。この上杉氏内紛と北条早雲の介入が、古河公方家を割る騒動に飛躍します。第三代足利高基の弟・義明はこれに逆らい、上総国小弓で独立を果たして「小弓公方」を名乗ります。

 この頃、里見氏はどういう状況だったのでしょう。
 古河公方・足利成氏の臣下として安房切取りに赴いたのが、房総里見氏初代とされる里見義実といわれます。義実は着実に勢力を拡大し、小弓公方が勢力を拡大する頃は、いわゆる「前期里見氏」発展期でした。里見氏はあくまでも古河公方の臣下という位置付けで、小弓公方を牽制する立場だったようです。これは、足利義明のバックにいる真里谷一族との関係によるものでしょう。

 やがて、小弓公方の勢力は、古河公方を凌駕していく規模に拡大します。
小弓公方・足利義明は、扇谷上杉朝良・安房国の里見氏・常陸国の小田氏・多賀谷氏らにも支持され、北条氏綱も真理谷武田氏との関係により支持するといった大勢力に膨らんでいくのです。
 しかし、天文2~3年にかけて、小弓公方支持基盤となっていた里見氏および真理谷武田氏において家督争いが生じました。このとき、義明は里見義豊・ 真里谷信応を支持し、北条氏綱は里見義堯・真里谷信隆を支持しました。古河公方側でも、関東管領が高基の次男・上杉憲寛(養子になっていた)から上杉嫡流の憲政に代わる一方で、高基と後北条氏が接近し始めていきます。
 有名な第一次国府台合戦は、そのような下地のもとで開戦となりました。この戦いの結果は、足利義明の討死にで小弓公方は滅亡することで古河・小弓分裂状態が解消されたのです。
 しかし、小弓公方の血脈は、絶えていなかった……!
 足利義明の子供は、その多くが里見氏に庇護されました。そのうち後継者となるべき男子・足利頼淳は安房で成人し、記録上身元不詳ですが婚姻し、その子たちも里見氏の庇護を受けました。恐らくは小弓公方を支えた中核家臣団も庇護を受けたものと考えられます。客分でありながら自活のため、捨て扶持として領を賜り生活基盤としていたのではないでしょうか。石堂寺には小弓公方家庇護の記録があるため、その周辺が扶持領だったと推察しています。
 足利頼淳はとかく癖のある人物だったようです。里見氏はそれを根気よく庇護してきたのだから、まあ、懐が広かったのでしょう。
 記録で明確となっている足利頼淳の子供は、以下の通りです。

  嫡男 足利国朝、幼名乙若丸
  次男 足利頼氏、幼名龍王丸
  長女 嶋子

 このうち足取りが明確なのは、嶋子です。恐らく安房で長じて、倉ヶ崎城主塩谷惟久の正室となりました。天正18年の小田原征伐の際、秀吉の奥州仕置驚いた塩谷惟久は、妻を置いて逃亡する体たらくを発揮しました。嶋子はこの危機に毅然と立ち向かい、堂々と秀吉に面会したのです。血筋のよい偉丈夫は秀吉の好むところで、こののち嶋子は側室になって天下に近い場所に居を構えます。婚家のことより実家や里見家に心を配る嶋子のため、豊臣秀吉は関東足利氏の再興を考慮するのです。
 それは、天下人の勝手以外にも、諸事情があっての沙汰でした。
 このとき古河公方家は、男子が絶えていました。記録上氏名のわからない、便宜通称でいう〈氏姫〉が、古河公方家を守っていたのです。秀吉はこの氏姫と、小弓公方家の男子を婚姻させ、長年の御家対立の融和を図ることで、一家の再興を示唆したことになります。蟠りは簡単に融解するものではないものの、足利氏断絶を避けるため、両家は同意せざるを得ませんでした。
 これが、喜連川家のはじまりです。
 氏姫と婚姻したのは、足利国朝。これにより、弟の龍王丸(のちの足利頼氏)は長年世話となった石堂寺の住持となることが決定し、里見氏の御恩に報いるかにみえました。
 が。
 大陸出兵の遠征中、安芸国で国朝は急病による早世という出来事に見舞われるのです。喜連川家はこのままでは断絶でした。そこで、龍王丸が急遽還俗し、頼氏を名乗り喜連川氏の婿として送り込まれたのです。
 喜連川家の当主夫妻がどのような暮らしだったか、明瞭なものが残されていません。判っていることは、氏姫は終生喜連川に入ることなく古河公方館に棲み続け、設けた一子・義親も母に倣った。義親は頼氏より早く逝去したため、孫にあたる尊信が喜連川家二代となった。
 この御家再興にあたり、安房に庇護された小弓家臣団家も移転したことだろう。立ちゆかぬため、里見家から譲り受けた家臣もいたのではないでしょうか。
 里見家が安房没収を被った際には、恐らく喜連川氏からも抗議があったのではないでしょうか。上杉家も北条家も、旗頭のために足利家を利用してきました。里見家だけは二代に渡り、厚く庇護をしてきました。頼氏には、その恩が痛いほど染みていました。記録にこそ残らない、血を吐くような訴えがあったのだと、夢酔は思いたいですね。小説書きの、都合のよい、身勝手な推察に過ぎませんが……。


                  ◆  ◆  ◆


 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


人気ブログランキングへ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
スポンサーサイト
  1. 2012/10/28(日) 14:50:38|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

戦国安房国人名辞典

ネットで調べ物をしていたら、こんなサイトをみつけた。
あれ、今まで、気がつかなかったぞ。

戦国安房国人名辞典

ちょっと、紹介しますね。

里見家臣のことを紹介しているのって、ありがたいですね。
おらが町にも、古の武将がいたかもしれねえっぺ。

皆さんも、よく目を通してみましょう。

ひょっとしたら、知ってる名前……あるかも知れませんよ。



戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!


人気ブログランキングへ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
  1. 2012/10/24(水) 07:04:51|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

シリーズ・関ヶ原と里見家 9

 上杉討伐の一件を、関ヶ原合戦と比較して〈東の関ヶ原〉とも称されます。それくらい重要な位置づけにありながら、里見義康の与する結城秀康との直接対決はありませんでした。それでも、大きな武力衝突はあったのです。
 世にいう〈慶長出羽合戦〉です。
 今回は、里見氏の直接関与のなかった、もっとも近い激戦をピックアップしてみましょう。

 慶長5年(1600)6月、徳川家康は下野国小山において石田三成の挙兵を知り、〈小山評定〉の末に西上するため軍勢を反転させます。このときの宇都宮留守大将が、結城秀康。上杉景勝は家康との一戦の気が削がれ、前線から本隊を退く決断をします。
 上杉を攻めるにあたり、当初、家康は、南部信濃守利直・秋田城介実季・戸沢右京亮政盛・本堂伊勢守茂親・六郷政乗・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光をこれらの主将に任じるとともに、米沢口から会津に侵入するよう采配していました。
 しかし、家康は西へ転進してしまいました。
 すると、奥羽諸軍は各々自領に引き上げてしまうのです。これは明らかな命令違反ですが、小豪族にとって、最期の勝利者が不明瞭な状況では必死になれないことも事実。戦国時代は、後年でいう、主君への忠義などという綺麗事は定着していません。彼らを節操なしと責められない時代背景も理解してください。
 彼らの撤退により、上杉と対決する姿勢を示すのは最上義光だけとなりました。最上義光の存在は、奥州においては伊達政宗の次に厄介なものです。老獪な義光は、奥州新参のような上杉氏の存在が目障りでもありました。豊臣秀次の一件もあり、秀吉死後は家康に将来を期待していたから、豊臣家に尽くす上杉景勝とは相容れぬ存在だったのです。
 家康が去ったあと、上杉景勝は結城秀康よりも強大な敵として、最上義光に目的を切り替えました。最上氏さえ滅ぼせば、後顧の憂いがなくなるのです。家康に対しては
「迎え撃つ」
という上杉景勝でしたが、最上義光に対しては
「攻め落とす」
という軍制方針の切り替えがされているところに、両者に対する景勝の姿勢が伺えます。
 この状況下で最上義光が頼れるのは、伊達政宗だけでした。
 しかし、政宗はしたたかにも、上杉氏との一時的な和睦を交わしてしまうのです。無論、機を見て一方的に破棄するであろう、かりそめの和睦に過ぎません。
 義光は窮地に陥り、上杉方に嫡子を人質として送る等の条件で山形出兵を踏み留まるよう、景勝に要請しました。と同時に、義光は秋田実季と連携して、この隙に上杉領を挟みうちにしようと画策したのです。
 これを知った上杉景勝は激怒し、山形出兵を開始したのです。
 慶長5年9月8日、上杉軍は米沢口と庄内口の二方面から最上領へ向けて侵攻しました。上杉勢の総大将は直江山城守兼続。総兵力は2万5000ともいわれます。上杉が本気で最上潰しに出兵したことを感じ取れます。
それに対し最上軍の総兵力はおよそ7000人、しかも山形城をはじめ、畑谷城・長谷堂城といった属城に兵力分散を要したことにより、山形城には4000人ほどしかいなかったのです。
 9月12日の畑谷城攻防戦を、『最上義光物語』はかく記しています。

  東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。
  おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。
  此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。
  一度にとつと引たりける(後略)

 畑谷城将は江口五兵衛光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口光清に撤退を命じたが、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で必死に抵抗しました。畑谷城はその日のうちに落城、江口光清は自害して果てました。
 その頃、9月17日、直江軍と別動の隊を率いた篠井康信・横田旨俊ら兵4000は、上山城を攻撃しています。上山城将は最上氏の家臣・里見民部、城兵はわずか500ほど。
 ここで、里見の名前が出てくるのが、今回のうんちく処です!
 里見民部は出羽里見氏として、里見義成の四男・義直にはじまる家系の末です。その子孫が出羽国成生庄(現:山形県天童市)を拠点に勢力を扶植したとされますが、残念ながら、出羽への移住の経緯などははっきりしないようです。南北朝期、成生庄に勢力を扶植していた里見義景には実子がなく、斯波家兼の子にして兼頼の弟にあたる義宗を養子にしたとされます。これをして、天童里見氏ともいわれるのです。
 さて、話を戻しましょう。
 このとき里見民部は上山城の城門を開けて打って出ました。上杉軍も、この機に乗じ一気に殲滅戦に出ました。このとき城門付近で激戦が繰り広げられたのですが、突如、上杉軍の背後から最上軍が襲撃したのです。
 里見民部は少兵を更に分散し、最上義光から与力として増派されていた草刈志摩守に別動隊を任せて、なんと城外で待ち伏せさせていたのです。軍略としてはオーソドックスですよね。これに篠井康信・横田旨俊等はやられてしまったのです。
 背後を襲われた上杉軍はたちまち大混乱に陥りました。上杉方は木村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られ、その他にも椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討取られました。最上勢にも被害が出ています。追撃中の草刈志摩守は鉄砲に撃たれて討ち死にしているのです。
 この戦いで、里見民部は上杉軍400余りの御級を最上義光に送ったとされます。

 畑谷城を落とした直江兼続は、菅沢山に陣を取り長谷堂城を包囲しました。山形城から南西約8キロのあたりに位置する長谷堂城を落とせば、山形城は裸同然となるのです。
 長谷堂城には最上氏の重臣・志村伊豆守光安以下1000が籠もっていました。直江兼続率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われ、上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持ってこれに臨んだことになります。
 9月16日、志村光安は200名の決死隊に上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けさせました。これにより上杉勢は大混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。このときの長谷堂城将・鮭延越前守秀綱の戦いぶりに直江兼続は感嘆したそうです。
「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」
 後日、兼続から褒美が遣わされたという逸話が残されています。
 この長谷堂を巡る攻防戦は、軍略知略の火花が散ったことでしょう。しかし、この均衡も、思いがけない形で幕切れとなるのです。
 9月29日、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が直江兼続のもとに届きます。
 これにより攻守は逆転し、撤退する上杉軍を、最上・伊達連合軍が追撃することとなるのです。この戦では、陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり、兼続も自害を覚悟する程の苛烈な状況に曝されました。
上杉勢は前田慶次郎利益や水原常陸介親憲などの善戦、鉄砲隊を用いた兼続は自らの殿によって、最上軍の追撃を振り切り米沢城に帰還したと『最上義光記』に記されています。この『最上義光記』曰く

  直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、
  取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多
  討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も
  口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり

と記されています。

 この戦いは、まさに「東の関ヶ原」と呼んでも遜色のない激戦でした。
 最上軍は少兵で上杉の精鋭と善戦したことにより、戦後、徳川家康からその功績を賞賛されています。この戦いで義光が切り取った庄内地方・由利郡の支配が公認され、出羽山形57万石を与えられたのです。
 伊達政宗は南部領で一揆を扇動した事が露見し、家康の不信を招く結果となりました。
 そして上杉景勝は庄内・会津などが没収され、米沢30万石のみを許されたのです。
 
 のちに家康は、直江兼続が駿府を訪れた際

  あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者

と賞賛したという逸話が残されています。

 この激戦に、結城秀康陣営は関与していません。



                  ◆  ◆  ◆


戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!




人気ブログランキングへ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
  1. 2012/10/17(水) 05:44:31|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

2014年大河ドラマ発表

正式に、NHKから2014年大河ドラマが発表されました。
軍師官兵衛
黒田官兵衛を主人公にした、オリジナル脚本のドラマのようです。
主演はV6の岡田准一だそうです。ジャニーズかぁという溜息が、2chを中心に早くも飛び交っていました。まあ、そういう声があることを承知のキャスティングなのでしょう。
ジャニーズといえば、明智光秀の話がでていたのは、どこへ行ってしまったのか。ちゃんとした新聞社の記事なのに……。これも早くから、ジャニーズタレントの声が飛び交ってましたね。

でも、ちょっと思うんですけど、明智光秀や細川家を一生懸命に推進してきた方々にとって、これは寝耳に水?青天の霹靂?凄いショックだったんじゃないでしょうか。

一喜一憂の一夜になる方も、きっと多いことと拝察します。



南総里見まつり、いよいよ来週です!


戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!




人気ブログランキングへ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村
  1. 2012/10/10(水) 19:45:23|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

里見大河ドラマ化の幟旗

里見大河ドラマ化の運動の一環として、幟旗を市内の随所に掲げて頂いております。
その動きは、民間の理解の象徴のようで、まことに頭が下がる思いです。
こういうことの積み重ねが、大切なことだと思います。
千葉県議会議員の秋山先生のblogを拝見する度に、つくづく地域の団結を感じ入ります。
http://akiyamamitsuaki.jp/modules/wordpress1/index.php?cat=1

秋山議員、活躍しております!
http://www.chiba-jimin.jp/sites/default/files/1206akiyama_mitsuaki.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E+%E5%8D%97%E6%88%BF%E7%B7%8F%E5%B8%82'
郷土愛、なんですね。


南総里見まつり、いよいよ来週です!
  1. 2012/10/07(日) 20:27:04|
  2. 里見関連広告板
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0