散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

シリーズ・関ヶ原と里見家 7

 天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
 日本中の大名が二派へと別れて、激突した。
 総じて、これを〈関ヶ原合戦〉と、後世語られております。


 上杉景勝にとって、徳川家康との一戦に勝機は見えたのでしょうか。
 越後より転封した会津黒川城。蒲生氏郷のあとに入城したこの場をみて、景勝は拡張の難しさを感じ、家老・直江山城守景続に拠点を遷すよう命じました。それが、幻の城とされる〈神指城〉です。
盆地中央で阿賀川畔にあたる神指ヶ原の城、という立地条件で急ピッチに築城が急がれました。
 兼続は実弟・大国実頼を作事奉行とし、慶長5年(1600年)3月18日から本丸築城を開始します。そのため、会津の新しい拠点とするために障害となる居住民の移住を指図しました。
『塔寺長帳』曰く、このとき神指ヶ原13ヶ村は強制的に移住させられたと記されています。『塔寺長帳』には
「十三の村引き倒し」
とあり、西城戸・東城戸・小見・天満・如来堂・鍛冶屋敷・深川・柳原・高瀬・上神指・東神指・下神指・横沼の13村と思われます。そのうえで、領内8~12万人もの普請人足を動員しました。本丸と別に二の丸の工事は5月10日から始まり、石垣・土塁・堀・門等は6月1日に完成させました。

 世に有名な〈直江状〉。
 これが上杉討伐を決定づけたとされますが、冷静に読み解くと
「因縁を吹っ掛けられても当方に叛意なし。それでも攻めるというのなら、存分に迎え撃つ」
という、実に潔い反問の書です。

  一.尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、
    色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、
    似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、
    尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。
  一.景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、
    去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、
    何の間に仕置等申付らるべく候、
    就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、
    当国の案内者に御尋ねあるべく候、
    然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
  一.景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、
    去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。
  一.太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、
    世上の朝変暮化には相違候事。
  一.景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、
    逆心と思召す処是非に及ばず候、
    兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、
    左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。
  一.北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。
  一.増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、
    自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、
    然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこその筋目、
    内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、
    讒人の堀監物奏者を仕られ、
    種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候、
    忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。
  一.第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。
  一.第二武具集候こと、
    上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、
    田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、
    其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、
    不似合の道具を用意申され候へば、
    景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、
    天下に不似合の御沙汰と存じ候事。
  一.第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、
    国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、
    然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、
    当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、
    本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、
    道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、
    上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、
    何れも道作同前に候、自余の衆は 何とも申されず候、
    堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、
    よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、
    縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて景勝相当の出勢罷成るべく候へ、
    中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、
    景勝領分道作申付くる体たらく、
    江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、
    その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、
    御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ、合点参るべく候事。
  一.景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、
    夏中御見舞の為上洛仕らる べく内存に候、武具以下国の覚、
    仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され 候処、
    増右・大刑少より御使者申分されは、景勝逆心不穏便に候間、
    別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、
    迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、
    きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、
    意趣逆心なしと申唱へ候間、
    別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、
    昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、
    或は縁辺、或は新知行など取り、
    不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、
    心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、
    妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、
    讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、
    右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、
    就中景勝家中藤田能登守と申す者、
    七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、
    万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、
    世上御沙汰次第に候事。
  一.千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、
    上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、
    内府様御分別次第上洛申さるべく候、
    たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、
    数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ、
    此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、
    末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、
    御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、
    不義の 御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。
  一.爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、
    会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、
    無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。
  一.内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、
    燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、
    表裏第一の御沙汰あるべく候事、
    右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、
    全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。
  一.何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、
    申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、
    天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、
    御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、
    愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、
    侍者奏達、恐惶謹言。

 この直江状に至る、詰問のきっかけとなったのが、神指城の普請だったわけです。
 直江状により怒り心頭の家康は、上杉討伐の号令を発することとなりました。
 天守の着工に入る前の出来事です。防衛が急務となったことにより、6月10日、神指城普請は中断され、この一連の騒動ののちに廃城となるのです。
 完成をみることなく放棄された、不幸な城だったわけですね。
 これがもし完成し、上杉景勝自らが城主として留まれば、上杉攻めに向かってくる徳川連合軍を正面から迎え撃つこととなったでしょう。
 しかし景勝は、会津征伐軍の途上にある白河城の修築を優先したのです。この思い切りのよさが、戦国の常識だったのかも知れません。浪費したことに固執し、損しても実をとる。現代人には容易にできない戦略です。
 
 歴女好みでいえば、兼続は義の人である。家康こそ悪党である。そういう構図になるようです。
 しかし、古今東西、戦略とはそういう云い掛かりから始まるものなのです。
 現に豊臣家を滅亡に追いやる一件も、発端は方広寺の釣鐘の単語。知ってて鋳造させ、完成して鋳つぶせない頃合いをみて〈君臣豊楽〉〈国家安康〉を持ち出してきたことは、多くの日本人が知るところ。
 戦さの大半は、弓矢以前のところが主。
 弓矢で決する幻想はのちに講談師が脚色しただけのこと。
 結城秀康が宇都宮城に留まる以前から、徳川と上杉は、激しい攻防戦を交えていたのです。
 現代の日本政府の脆弱性は、この面からみても庶民に感じ取れるんじゃないですか?交渉以前に負けてますよね。ちょっと底意地悪い老獪なリーダーが出てくると、日本人は持ち前の生真面目さと義侠心で一致団結してしまう。明治の頃までの旧日本軍の強さは、きっと、そういうところがバックボーンだったと思いますよ。だから、いまの日本は、世界になめられてしまう。

 直江状のように、困難を受けて立つ反骨。
 家康のように、勝機を揺さぶる計略。
 弓矢のことで徒に兵の命を損なわぬ駆引きの延長線が、戦闘です。
 その点で云えば、結城秀康は宇都宮に据え置かれた名代人形のようなものだったでしょう。家康の後退後、上杉景勝も前線から後退してしまいますが、その態度には、
「名代人形とつきあう暇はない」
という、やはり反骨があったように感じてなりません。



                  ◆    ◆    ◆



 お知らせです。


 倉吉せきがね里見まつり

 里見忠義終焉の地・鳥取県倉吉市。
 毎年9月第一日曜日に開催されます。東国の方は、その遠さを噛み締めることで、この地に流された里見家最後の当主の心中を実感できるのではないでしょうか?


  開催日  平成24年9月2日(日)
  開催場所 倉吉市関金町 山守小学校周辺
   お問い合せ
  「倉吉せきがね里見まつり」
    倉吉せきがね里見まつり実施委員会(倉吉市市民参画課内)
   TEL:0858-22-8159
  「里見時代行列」
    倉吉里見手作り甲冑愛好会(NPO法人養生の郷内 )
   TEL:0858-45-3988
今年の里見忠義公役は、、「ナボリンS」のCMで、沢村一樹さんと共演なさっている「三咲順子」さんがつとめてくださる予定です。温かいご声援をお願いします。



 南総里見まつり

 里見氏の本拠地・安房館山。
 第31回の里見まつりを、ご堪能ください!


  開催日  平成24年10月13日(土)~14日(日)
  開催場所 平成24年10月13日(土) 
  館山駅西口ロータリー及び北条海岸特設会場
  平成24年10月14日(日) 城山公園
   お問い合せ
   一般社団法人 館山市観光協会
   TEL:0470-22-2000



                  ◆    ◆    ◆



戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

ポスター
 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!
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  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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ぐんま里見の郷再発見伝-里見氏のルーツを尋ねて-

本日、郵便物が届きましたのでご報告します。

ぐんま里見の郷再発見伝
-里見氏のルーツを尋ねて-
1227615829_223.jpg
これは、4月14日のシンポジウムのときに、刊行をお知らせいただいたものです。
楽しみにしていたのですが、いよいよ手元に届いたという訳です。

これを編纂した「里見の郷委員会」の活動内容は、こちらをご覧下さい。
里見の郷委員会

また、事務局長のblogでもこのことを紹介しています。リンクのサイドガイドに記してあるのですが、ここでピックアップします。ご覧下さい。
耕す(カルチャー)本屋日誌

房総里見氏をリスペクトしている夢酔のblogで、なぜ上州里見氏を紹介するのかって?
それは、上州が里見氏発祥の地だから、なのですよ。
新田系源氏の里見氏は、ある意味、由緒ある名族なのです。日本の歴史は、常に勝者の都合で是と非を形にされてしまいます。そのなかで勝ち馬に乗れなかった星の数ほどの名族を礎として、歴史というものは紡がれてきたのですね。

表紙には「創刊号」とあります。

継続のあかつきには、夢酔もぜひ寄稿してみたいと思う次第ですが、そのあたりは里見の郷委員会から
「夢酔先生は、ちょっとなぁ」
と毛嫌いされちゃったら厳しいなぁその際には、よろしくお願いします……!
あっ、肝心の作品の仕上げも、毎日練り練りしながら、頑張っていますので、はい。


ぐんま里見の郷再発見伝 -里見氏のルーツを尋ねて-

お求めは戸田書店榛名店・高崎店・前橋本店・伊勢崎店・藤岡店・富岡店・桐生店・中之条店ほか。
県外の方は、里見の郷委員会まで。




                  ◆    ◆    ◆



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 倉吉せきがね里見まつり

 里見忠義終焉の地・鳥取県倉吉市。
 毎年9月第一日曜日に開催されます。東国の方は、その遠さを噛み締めることで、この地に流された里見家最後の当主の心中を実感できるのではないでしょうか?


  開催日  平成24年9月2日(日)
  開催場所 倉吉市関金町 山守小学校周辺
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 倉吉せきがね里見まつり実施委員会(倉吉市市民参画課内)
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「里見時代行列」
 倉吉里見手作り甲冑愛好会(NPO法人養生の郷内 )
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今年、初の倉吉入りをと意気込んでいたのですが、どうしても調整出来ませんでした。倉吉の皆さま、いつか足を運ぶ日がくると思いますので、そのときはよろしくお願いします。


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 里見氏の本拠地・安房館山。
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  開催日  平成24年10月13日(土)~14日(日)
  開催場所 平成24年10月13日(土) 
  館山駅西口ロータリー及び北条海岸特設会場
  平成24年10月14日(日) 城山公園

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  一般社団法人 館山市観光協会
  TEL:0470-22-2000

昨年お邪魔して、皆さんによくして頂きました。こちらも、どうやら調整が難しそうです。館山の皆さま、また足を運ぶ日がくると思いますので、そのときはよろしくお願いします。





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  1. 2012/07/23(月) 21:24:11|
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シリーズ・関ヶ原と里見家 6

 天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
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 小山評定を前にして、真田父子が徳川への加担を巡り犬伏で是非を論じ、結果的に家を割った逸話は、戦国マニアで知らぬ者がない有名なエピソード。この前後、真田家以外にも、西軍の誘いがあったことは、あまり取り上げられませんね。
 きっかけとなるのは、密使がもたらした長束正家・増田長盛・前田玄以の連署状。これ、里見義康にも届いていたと考えられます。
 表に出ていないだけで、連署状、もっと濫発されていたように思えるのですが、真田家の場合はこれを理由にしていたのではなく、もともと気乗りしない心中を後押ししてくれた起爆剤だったようにも取れます。

 真田父子の別れの場面とされる〈犬伏〉の地。
 多くの方は、何処、という意識をされていないんじゃないですか?何となく国道50号線上のどこか、くらいに思っているのでは?まあ、あながち、間違ってませんよね。夢酔の認識も、そんなもんです。
 下野国犬伏。
 現在の栃木県佐野市にあたります。
 小山の目と鼻の先まで来ていたんですね。連署が届くのが1日遅かったら、真田昌幸は小山陣に入ってしまったことでしょう。そうなったら、連署を受け取ることも困難になるし、小山評定の席で西軍に附くと断じることが適ったでしょうか。
 とまれ、佐野はそういう地でした。
 新町薬師堂というものが佐野市にあります。ここで、真田父子3人(昌幸、信幸、信繁)が、東軍と西軍に分かれて戦うことを決断した密議の場所という伝承が残されています。薬師堂の脇を流れる川の橋は、真田父子の別れ橋として語り継がれているそうです。真田家については、純粋に歴史好きな女子や、過剰に迂曲されたアニメチックなものラブな腐女子にも人気です。ひょっとしたら、夢酔にいわれるまでもなく
「佐野?ラーメンのついでに、もう聖地巡礼したわよ!」
とお叱りを受けるかも知れません。
 一般的に犬伏の知名度はありますが、特定の地理感覚はピンと来ないのが、現状ではないでしょうか。
昌幸・信繁父子が犬伏から上田へと戻る途中、沼田城で一泊する予定でいたところ、父子が東西に分かれたことを既に知っていて、留守を守る信幸の妻・小松殿が頑として入城を拒否したという逸話があります。
実際には、どうなのでしょう。
 犬伏でのことは結論も出ないまま、朝になったらもぬけの殻で信幸が狼狽したという二次記述もあります。それでは、先発した昌幸より先に、情報が沼田城へ至る理由が見つかりません。携帯電話のない時代です。
 連署以前から離反を決めていて、真田家全体の出来レースだとしたら、沼田のことも狂言紛いの自作自演になります。家臣たちも整然と二分され、信幸に属す者と昌幸に属す者が混乱もなく大別されたことを考えれば、そんな憶測も否定できません。
 真田家がこういう様だった。
 他家もこういうしたたかさを秘めているに違いない。
 家康が芝居じみた小山評定での仕儀に及んだのも、無理のない話だったのかもと、ふと、思わずにいられません。


                  ◆    ◆    ◆



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 倉吉せきがね里見まつり

 里見忠義終焉の地・鳥取県倉吉市。
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 南総里見まつり

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  開催日  平成24年10月13日(土)~14日(日)
  開催場所 平成24年10月13日(土) 
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  平成24年10月14日(日) 城山公園

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戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2012/07/18(水) 06:22:08|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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つぶやき ぼやき 苦笑い

現在、里見の新作に向けて、順調に遅筆を重ねております。
書替えやら検証やら裏付けやら、第一校正と嘯きながら、その実は殆ど一新作業。ようやく、里見氏改易の場面まで辿り着きました。
連載とか抱えていたら、お叱りものの遅滞になるな……

いよいよ里見忠義編のハイライトですが、個人的な気持の置き方でしょうか、どうしても、本編の主軸が里見義康編になってしまうんです。
時代背景的に、仕方ないのだろうな。
義康元服前が織田信長の時代、義康苦難時期が豊臣秀吉の時代、義康晩期が徳川家康の幕府創世記。
この時代の軸となるトップ3との接点がある義康が、重くなってしまうのは……おわかりですよね。

里見忠義編を奮い立たせるため、大阪冬の陣・夏の陣の場面へ、これからメスを入れていきます。
里見氏が直接この戦いに関与した記録はありません。
しかし、里見家臣と同名な人物が、ふたり、大坂方にいることが確認されています。それが偶然か、それとも改易に際し浪人となって徳川に背を向けたものか。
彼らの目を通して、豊臣家の挽歌を直視する手法で、この戦いを描けたらいいなと思っています。
それと、後世によく伝わっていない謎の集団を、ここで使用したいと企てています。

里見の水軍の全容ははっきりしていません。
そのなかで名前だけしか伝わらない、いわば〈裏水軍〉とされた軍団の存在を、明るいところに出せればと思います。とはいえ、資料が稀少のため、想像力を振り絞ることになりそうですが。

第1校正が終わったら、一度どこかに営業しなければと考えています。
里見に先物買いしてくれる社があることを期待しているのですが、そんなに甘くもない現実は、よ~く知っている夢酔。

とまれ忠義編で倉吉にかかるウェイトは全体の2割程度になるか否か。
そうなると、営業も鳥取より千葉あたりに落ち着くのだろうか。
そう考えつつも、今は第1校正をなんとか終わらせねば……
  1. 2012/07/08(日) 08:58:04|
  2. ご案内
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シリーズ・関ヶ原と里見家 5

 天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
 日本中の大名が二派へと別れて、激突した。
 総じて、これを〈関ヶ原合戦〉と、後世語られております。


 宇都宮城を本陣とした対上杉戦。
 総大将・結城秀康とはどのような人物だったのでしょう。

 結城市が発行している「結城市史」は、数冊に及ぶボリュームで、形態的には近傍の古河市のそれと似たスタイルです。夢酔、結城氏のことを暫く調べたこともあり、今回、里見氏以外で求められる資料収集でもっとも充実した資料を所有できた次第です。
 さて、結城秀康。
 彼は下総国結城一族として誕生した訳ではありません。徳川家康の次男として誕生したのです。ともすれば、家康の後継者となる筈だった人物ですね。ただし、彼には生まれたときから、その前途が閉ざされておりました。
 父親である家康には、ちょっとした性癖があったようです。
 子供の容姿が醜いと直感したときに、愛情が欠落するという薄情な一面があったとされます。秀康同様に、松平忠輝にもそういうことがあったと伝えられます。
 秀康の気性は猛々しく、生来一軍の将たる気概を秘めていたと、諸処の文献に記されています。それは、戦国武将としては賞賛に値しますね。
 結城秀康が総大将に推された宇都宮陣。
 実は、彼自身が一軍の将として合戦に及んだ経歴は、皆無だったとも云われております。参陣したものの実戦の経験を得ていないのだと思われますが、そういう人物を宇都宮の総大将に据えても異存すら生じない貫禄があったのでしょうか。

 秀康という名前は、秀吉と家康の一字を取ったものです。
 小牧長久手合戦で、秀吉と家康が激突しました。その後の講和の際、家康が人質として差し出したのが秀康です。秀吉は人質として扱わず、養子扱いにしたとされ、名もこのときに改めたというわけです。
 秀吉の養子なら、その他の養子たちのような高い禄高・官位があってもいい気がします。これは、一説によると、過分な力を与えないよう秀吉が苦慮したためと伝えられます。やはり将器があったのでしょうね。小田原北条討伐にあたり、結城晴朝が参陣した際に秀吉は養子を押しつけました。これが、秀康の結城氏を称する由縁です。文献には、結城晴朝から養子を請われたとあります。しかし、このとき晴朝は後継者と為す養子が既に存在していたのです。請われたというのは、押しつけを誤魔化す方便だろうと、夢酔は推察しております。

 宇都宮陣にあって、秀康の仔細は結果論しか伝わっていません。
「布陣し、上杉の南下を防いだ」
 本当に、結果論です。攻防の駆け引きすら伝わっていません。激突した関ヶ原のそれと比較することが不相応な程です。
 秀康は何をしていたのでしょうか。
 どんな駆け引きをしていたのでしょうか。
 白河の上杉勢は南下しなかったのか、できなかったのか、そんな気もなかったのか、それすら諸処の邪推に頼るしかありません。
 夢酔が影響を受けた作家のひとり隆慶一郎氏の小説「一夢庵風流記」のなかでは、上杉景勝が家康の退いたあとの徳川勢を捨て置いたとされています。喧嘩を売る相手が秀康では不足という意味です。秀康は相手にもされなかったという訳ですね。
 それでも上杉の抑えは、白河を中心に存在していた筈です。
 相手にはしないが、攻め込んだら殲滅する。そういう采配だったと思われます。景勝はそういう点を弁えていたことでしょう。
 結城秀康はただ座して居ただけだったのでしょうか。
 その委細を知ることが出来ない以上、推察を巡らせるしかありません。ここが小説家の便利なところです。
 この当時、顔色を窺っていた佐竹氏のことを、秀康が考慮していただろうことは察しが付きます。諸説ありますが、佐竹と上杉の連携をしていた密使の往来が那珂川水域上流ルートであったのだと云われています。その遮断をすることと、佐竹背信の証拠を確保すること、この二つを秀康が行っていたとしたら、宇都宮布陣の真価が光ってきます。ドンパチよりも諜報戦、これが真相だとしたら、従来の猛々しいだけな秀康のイメージを変えそうな気がします。

 でも、史実や定説では、そういう話がないんですよ。
 結城秀康、武勇を飾る場面に、こののちも恵まれませんでした。



                  ◆    ◆    ◆



 お知らせです。


 倉吉せきがね里見まつり

 里見忠義終焉の地・鳥取県倉吉市。
 毎年9月第一日曜日に開催されます。東国の方は、その遠さを噛み締めることで、この地に流された里見家最後の当主の心中を実感できるのではないでしょうか?


 開催日  平成24年9月2日(日)
 開催場所 倉吉市関金町 山守小学校周辺
 お問い合せ
      「倉吉せきがね里見まつり」
               倉吉せきがね里見まつり実施委員会(倉吉市市民参画課内)
TEL:0858-22-8159
「里見時代行列」
倉吉里見手作り甲冑愛好会(NPO法人養生の郷内 )
TEL:0858-45-3988



                  ◆    ◆    ◆



戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!
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  1. 2012/07/05(木) 06:45:15|
  2. 随筆・あっそう!里見発見伝
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