散文小径

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国府台逍遙

国府台合戦の故地。
つわものどもの夢の跡……450年のちの6月7日は梅雨入りということもあり、雨中のなかにありました。
第二次国府台合戦。
このときも雨であったと記録から伺い知ることが出来ます。
感慨一入でしょう。
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写真全景をみる方は、クリックしてください。雨に煙る国府台です。


国府台供養となるでしょうか、作品を献納します。





 永禄六年(一五六三)閏一二月五日。
 武田勢と連携する北条勢は、このとき連合軍を仕立てて、利根川を越えて上州金山を囲んだ。金山城主・横瀬成繁は厩橋城まで使いの乱波を走らせた。厩橋城代で上杉輝虎の重臣である北条高広は
「金山が落ちると、唐沢山ともども、北条の牙城と化す恐れがある」
と強い懸念を示した。
 このことは、直ちに越後へ報された。
「北条とは、居留守を窺う、泥棒猫の如き輩なり」
 上杉輝虎は憤怒した。
 関東出陣を上州へ沙汰すると同時に、小泉城の富岡重朝および岩附城の太田資正に
「金山城への牽制の動きを取るよう」
と命じた。これらが動き出した閏一二月一九日、上杉輝虎は越山し、厩橋城に布陣すると、急いで密使を仕立てた。
「翌日には、武田・北条との一戦を仕掛けるものなり」
 その旨を太田資正に伝えた。
 しかしこの伝令は、武田・北条の間者により、事前に露見してしまったのである。野戦において上杉勢と激突することの無益を両者は弁えていた。その日のうちに、武田勢は西上野へ、北条勢は松山城へと、金山城より人知れず撤退したのである。
「おのれ、卑怯な輩めが」
 一大決戦を臨んでいた輝虎は、その怒りの矛先をどこへ向けていいか探した。
 その矛先は、簡単に見つかった。武田に与する和田城へ向けて、上杉勢は進軍を開始した。和田は現在の高崎である。
「この挑発に武田が乗れば、今度こそ川中島で決しなかった遺恨を、晴らしてみせよう」
 そう息巻いたが、武田勢は遂に動かなかった。
 この和田城攻撃の最中、上杉輝虎は里見父子へ向けて
「南敵(北条氏)の枝葉を絶やすはこの時なり。関左長久安全の基であるゆえ、出陣を要請するものなり」
 この打診に応えるべく、里見義弘は太田資正との綿密な連携を求めた。ただちに安房・上総に陣触れがなされ、佐貫城へ軍勢が招集されたのである。
 この作戦の成否を左右する、ひとつの事件がおきたのは、まさにこの頃のことだった。

 太田新六郎康資は太田道灌の曾孫にあたる。
 道灌を暗殺した主君・扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏に乗り換えて、そして、北条氏に江戸城を奪われてしまった不幸な一族の末裔である。建前では道灌からの嫡流であっても、もはや昔日の面影もない没落氏族といって過言ではない。
 いまは北条の一士卒として、武辺者として忍んでいた。
 そのためか、太田氏代々の名である源六郎を
「我が幼名新九郎と諱を与えて、その武勲を讃え敬うものなり」
 そのように、北条氏康から目を掛けられたのだ。新六郎康資という名は、そういう名前なのである。更に江戸城主・遠山丹波守直景の娘婿として、外様でありながら厚遇されていた。
 が。
 元来、この江戸城は太田氏の城である。
 信頼という美辞麗句を囁きながらも、氏康は決して康資を江戸城主としなかった。小田原の重臣に城を任せて、康資は城将以上の立場に置くことはなかった。その不遇を、常に不満であると、康資は感じていたのである。策士である太田美濃守資正が、このことを利用しない筈はない。
「江戸城は我らが曾祖父・道灌入道公が築きし名城である。岩附同様、太田氏が統べることこそ相応しい。北条に騙されるな。もしも江戸を取り戻すというならば、積年の諍いを水に流して同族の誼で御助力仕らん」
と、調略したのである。康資はまんまと、これに乗ってしまった。
「岩附の美濃守と謀り不意を突いて江戸城を奪い遠山丹波守を討つ。或いは、越後勢の要請により下総市川あたりまで布陣してくるであろう里見勢に北条勢をぶつけ、隙をみて総大将の新九郎を討つ」
 動くなら、その何れかと思い定めた。
 そして、平河法恩寺において、先に病死した弟・源次郎資行の七七日法会を営むにあたり、一族譜代にこのことを打ち明けた。異論はなかった。
 しかし、このことは、法恩寺住職から遠山直景の耳へと密告されて、呆気なく路程してしまったのである。かくなるうえはと、太田一族は慌てて江戸を脱出し、岩附へと逃れた。
 江戸城では、このとき初めて里見勢の動向を察知したのである。
「里見勢襲来」
 江戸城主・遠山直景は、松山城から帰城したばかりの北条氏康へ、急ぎ伝馬を走らせた。一心地もつかぬまま、氏康はこのことを重視した。
「たかが安房から出張っただけのこと。捨て置けばやがては安房へ引き上げましょう」
 氏政が涼しげに呟いた。
「この戯け!」
 氏康は一喝した。暗愚な氏政の心の眼には、里見勢布陣の真意が読めていない。
「あれは太田美濃守への補給のために動いている。太田勢は上州の切っ先を制しただけでなく、遠山丹波の話では江戸城さえ攻略しようと企てた。里見が後方を支えるからこそ、太田美濃守が賢しく動くのだ。こんなことも洞察できなくては、棟梁としての器が知れよう?」
「申し訳ござりません」
「儂の生きている間に、盗めるものは盗め。いちいち教えぬ、見て感じて、そして刻み込め。儂は棟梁の道を一々示しているつもりぞ」
「はっ」
 ふと、氏康は若き日の、国府台合戦を思い出していた。
(あのときは、父の采配を儂が学んでいた)
 今度は氏政にそれを伝える天佑と考えた。
 国府台とはそういう試練の地ではあるまいか。
 氏康は決意した。
「陣触れじゃ」

 永禄七年(一五六四)正月四日、既に市川には里見勢がいる。
 ここへ攻める後手を覆すには、士気と知略が必要だった。その士気を煽動するため、氏康は諸将へ次のような参集を促している。
「房州勢が市川に陣取り岩附へ兵糧を送ろうとしているが、値踏みに折りあいがついていないという。これは一戦の好機なり。ついては五日、小田原より具足をつけて腰兵糧で出撃するものゆえ、要員が整い次第小田原に参じるべし。兵糧が間に合わなくば、当方により貸与するものなり。なお、兵糧は三日分のみ用意するものである」
 この短期決戦の確信めいた陣触れは、上杉輝虎対策で奔走していた諸将にとっては
「気晴らしの一戦」
と印象づけた。
 確かにこのとき、上杉輝虎は常陸土浦城に釘付けとなり、里見勢へ合力する気配はない。
(しかし油断はならぬ。越後の虎が動かぬ間に、里見を食らう)
 氏康はそう覚悟を決めていた。

 正月五日、里見義弘の本陣に太田資正が訪れた。江戸城調略が不注意で失敗したことの報告である。
「新六郎殿がもう少し油断なくば、我らが北条を誘い、そこに越後管領が強襲する……策通りにはいかぬものよ」
 江戸城が争乱になれば、北条勢は合戦にもならず苦慮する。しかし、市川布陣を警戒するために出張らねばならない。そこへ上杉輝虎が襲来するという筋書きだったのだ。
「このままでは北条陣営になにひとつ混乱もなく、早期のうちに我らは一戦に及ぶこととなろう」
「美濃守殿。望むところにござる。もとより補給のためだけに出張ったとは思いもしておりませなんだ」
「里見勢に対し、太田勢も急ぎ合することとしましょう」
「よろしくお願いします」
 地の利から国府台が迎撃にふさわしいことを、ふたりは暗黙の内に悟っていた。
 ここは、里見氏にとっても因縁深い地である。もう、二六年もむかしになる。ここで小弓公方・足利義明が討死にし、その孤児を里見家が引き受けた。
 この二六年間の、なんと長かったことだろう。
 義弘は足利義明の敗因が、具申に傾ける耳を欠いたことを、父・正五入道から聞かされて育った。ゆえに、どんな閃きでも、耳に留めようと心掛けるのであった。
 里見勢の国府台入城を阻止しようとしたのは、千葉氏重臣・高城胤吉である。しかし単独でこれを阻めるものではなく、千葉氏は北条側へ救援の伝馬を走らせた。正月七日、江戸城へ北条勢が入ると、決戦の機運が両陣営に漲った。太田資正は
「遠山丹波が出てきたら、新六郎を先陣に用いよう。陣触れに乱れを誘い、一気に討ち取るべし。きゃつは江戸城主としての責任に潰されそうになっているからのう」
 このとき、早くも腹の探り合いが始まっていた。

 永禄七年正月七日。
 風は逆巻き、群雲は西に東にと空を奔っていく。
「北条勢だな」
 太日川より二〇間余の高台にある国府台城からは、川向こうに犇めく三つ鱗の旗差しが潮のように眺望される。籠城するにしては手狭なこの城は、太田道灌の時代に陣所とされたのが最初とされる。ここを城塞と為した道灌は、かつてここが古代の古墳とは知らなかった。剥き出しの石棺が持つ意味も、きっと解らなかっただろう。その後にここを陣所とした里見勢もまた、地の利がいいというだけで、太古に思いを馳せようとは考えなかったに違いない。
「合戦とは縁起物なり」
 これは太田資正の持論である。
 縁起を担ぐこともまた、勝機を拾うひとつの術であった。道灌の曾孫である資正は、国府台城内に取り込まれた社に戦勝祈願をすることで、高祖の武勇に肖ろうとした。太田康資もそれに倣った。江戸と岩附、ふたつに分かれた太田氏なれど、曾祖父はおなじ太田道灌なのだ。
 翌払暁。
 北条勢の先鋒が動き始めた。
 丸山傍らの櫓から認められた行軍の様は、西桜の兵に伝えられ、それはただちに里見義弘の耳に届いた。
「がらめきの瀬を渡ってくるか。無傷で渡すことはない、矢を馳走してやれ」
 義弘は先の国府台の教訓を含んだ下知を下した。こういうときは高低差が物をいう。高台となる国府台からは、渡河の軍勢は格好の的であった。
 櫓からの報せは、動いたのは先陣だけで、本陣は川の向こうで待機しているというものだった。ここを凌げば、敵を退けることができる。こちらが苦戦を強いれば、北条本隊が怒濤の勢いで押し寄せてくるだろう。大切な一戦であった。
「新六郎、まいる」
 太田康資が動いた。差物から先陣が
「遠山丹波守なり」
と認めたためである。北条江戸衆にとって、康資は憎むべき仇敵であった。
「新六郎は栗山あたりで江戸衆と一戦に及ぶだろう。頃合いをみて、がらめき坂を登らせる。そこで敵を殲滅する」
 太田資正の策に、里見義弘は頷いた。
 がらめきとは、からからと鳴り響くとも落石とも、ほとばしる水の流れだともいう意味らしい。
「恐らくほとばしるせせらぎなり」
 がらめきの瀬とは、そういうことなのだろう。確かに、浅瀬により水のせせらぎが響いて聞こえる。現在、このがらめきの瀬は〈矢切の渡し〉と名を改めている。
 利根川が銚子に流れを遷す以前の時代と比較すれば、現在のそれは、恐らく当時よりも川幅も狭く水量さえも少ないだろう。
 そのがらめきの瀬を押し渡る北条の先陣は、江戸衆である。江戸城主・遠山丹波守直景と葛西領主・富永四郎左衛門政家に率いられた軍勢は、ふりそそぐ矢の応酬をものともせずに、遮二無二突き進んだ。
 このとき北条勢は完全に揃っていない。小田原からの本隊がまだ到着しておらず、北条左衛門大夫綱成の先発軍だ。
「川を挟んで我が領に接する敵は、なんとしても先起こされたくはなし」
 そう願い出て、この出陣を赦されたのだ。
 勿論、形式的なことであると云い含められてのことだから、遠山直景は頃合いをみて退くつもりであった。太田資正はその考えを見透かしていた。そのことが、この先陣の意外な顛末へのはじまりであった。
 合戦とは縁起であると同時に〈流れの如し〉であると資正はみている。
 旋律を奏でるのが、敵か、味方か。
 敵の乱調を誘うこと、それが合戦を有利に運ぶことである。合戦巧者の資正は、その術を会得していた。このときの乱調を誘う餌は、北条江戸衆が憎んでも足りぬ相手、太田康資を前面に見せつけることである。遠山直景はそれに食らいついた。
「里見勢の伏兵を、がらめき坂に配した方がよいな」
 太田資正の言葉に義弘は頷きながら
「新六郎殿の与力は?」
「いや、感情を逆撫でさせる餌は、ひとつでよい」
 がらめき坂へは、正木信茂と正木弘季が布陣した。遠山・富永勢は、憎き太田康資へと攻め掛かってきた。手筈に従い、太田勢はここで激突した。朝の河畔に吹く風が、たちまちのうちに、血潮にまみれた生臭いものへと化した。怒号が地響きとなって、朝の空気を轟かせた。
 緒戦は互角であった。
 遠山勢には憤怒の勢いがあったが、太田康正側にも積年の憤懣があるのだから、士気は双方ともに昂ぶっていた。
 日の出とともにはじまった戦いは、たちまち混戦となった。
 この混戦に、国府台からは援軍を差し向けるでもなく、やや孤立した感もあったが、太田康資は互角に対峙した。その均衡が破れたのは、市川まで進軍してきた小金城主・高城治部少輔胤辰の軍勢二〇〇騎の参入である。
「援軍かたじけなし」
 遠山丹波守直景が叫んだ。
これにより圧されていく太田康資の陣形を城よりみて、太田資正は采配した。
「陣太鼓と法螺貝の用意を。兵をがらめき坂へ退かせるべし」
 法螺貝が鳴り響くと、陣太鼓が続いた。
 それを聞いた康資は
「背負太鼓を鳴らしながら、我らはがらめき坂を登る。取り残されるな、兵はこれに従うべし」
と沙汰した。
 この号令が随所で呼称され、江戸太田勢は、がらめき坂へと移動を開始した。
 遠山・富永勢はこれを追撃すべきか躊躇した。
 この勢いで郭のひとつも押さえてしまえば、先陣としての顔が立つ。しかし、この数でいけるかという冷静さが、少なくともこのときまでは遠山直景にはあった。その冷静を欠いたのは、退きながらも印地打ちをする、太田勢の飛礫が至近に弾けたときであった。
「石を投げてくるとは呆れたものよ。大した備えもあるまい。我らの槍の味、いま暫く馳走してとらすか」
 そういって采を振った。
 陣鍾が鳴り響き、がらめき坂へと北条先陣が移動を開始した。太田康資の軍勢は、早や坂を登り切っていた。それを追うように北条勢が狭い坂に殺到した。がらめきの名のとおり、石だらけのその坂は足場が悪く、遮二無二突き進んでも差程に前へ進んでいないような心地になり、兵たちの気も上擦りを隠せなかった。
坂の中腹で押し合いへし合いになった、そのときである。
 合図の鉄砲が鳴り響いた。
 すると、伏兵の里見勢が、横合いからわっと江戸衆へ攻め掛かった。太田康資も逆落としのように坂の上から攻め掛かってきた。
「しまった。罠だ、坂の下まで退け、退け」
 遠山直景が叫んだが、混乱する陣のなかで、その声は悲鳴に掻き消されていった。
 がらめき坂の戦況が一変した。追っている筈の北条勢が、追われる側に転じたのである。
 対岸の北条綱成は、物見からの報せでそれを知ったが、あとの祭りであった。増援を送る猶予は、もはやなかった。あとはひとりでも多く、太日川を渡って、自力で逃れてくるのを待つよりない。
 刻は辰(午前八時)。逆落としに攻めかける太田康資は
「いまこそ積年の恨みを晴らすとき」
と叫び、怒濤の勢いで攻めかけた。
 それに従う江戸太田勢は
「江戸城をいま一度」
と復唱しながら遠山勢を圧倒していった。
 伏兵の里見勢は、この戦いでは完全に与力である。主導権がないものの、それに勝る戦果を挙げようとしていた。
 正木大炊介信茂は、亡き大膳亮時茂の子である。若いながら分別のある信茂は、冷静に兵を采配した。叔父の正木弾正左衛門弘季は、窮鼠猫を噛むの例えを遵守し、無理強いすることなく、しかし確実に浮き足立つ北条勢を仕留めていった。弘季は上総一宮城を預かり、これまでも多くの合戦で軍功を挙げてきた。合戦の呼吸を熟知しており、このような混戦では十把一絡げにするよりは、名のある者を討つだけに留めることこそ敵へ打撃を与えることと弁えていた。里見勢の黒川左衛門は、そのなかで奮戦し、大剛の名を欲しいままにした。
 北条勢の先陣として渡河した江戸衆は、この一戦で惨敗した。
 遠山丹波守直景と富永四郎左衛門政家といった先陣の総大将が、このときの戦いで討ち死にした。更に軍奉行にあった山角四郎左衛門尉定吉も、この戦いで討ち取られた。ほかにも中条出羽守・河村修理亮といった討死者を出した。およそ一四〇騎が、このとき討ち取られた。
「渡河する兵を深追いすることは禁ずる」
 正木信茂の思慮分別とは別に、太田康資はかなりのところまで深追いした。それほどまでの恨みをずっと抱いていたことを思えば、殊更それを非難する気にはならない。
 が
(品性には欠けるな)
 正木信茂は舌打ちした。しかし、彼にしてみれば、父に代わり再び国府台で弓矢を奮えたことは感慨一入であった。
(それにしても)
 気に入らないことが、信茂にはあった。

 北条勢は追加の軍勢を送り込むことはなかった。櫓からの物見は
「旗差しからみて、恐らく小田原の軍勢。対岸の北条勢に合流」
と報せ、里見義弘は自ら視認した。
 三つ鱗の馬差しが犇めく様は、海の如き壮観である。
「あの数と直接戦えば、こんな小城はすぐに落とされてしまう。天然の壕である太日川がこれほど有難いと思ったことはない」
 義弘は小さく呟いた。
 双方睨み合うこと半日。陽は雲に隠れ、やがて小雨が降り出した。篝火が大河を挟んで赤々と彩られる。時折強い風により、薪から飛び散る火の粉が美しい。
「殿。美濃守殿が緒戦の祝をと申されています」
 じっと北条勢を警戒している義弘を、正木信茂が呼んだ。
「敵を前にして、些か迂闊と思うが」
「新六郎殿の祝と、正月の宴を遅ればせながらということですが」
「それにしても……」
 義弘は考えた。顔を出さぬ訳にもいかぬが、酒で油断するにも程がある。仮に策でそうしているとしても、もう少し、為さり様があるのではないかと思った。
 ふと、正木信茂が進み出た。
「殿にお訊ねします」
「なにか」
「この合戦は里見のものでござるか、太田のものでござるか」
「なにをいいたいのか」
「今朝の戦いは、まさしく太田の合戦を里見が助けたものにござる。この陣の総大将は殿にござるか、美濃守殿でござるか?」
「決まっておろう。この戦いは関東管領の戦い、越後公の代陣である。たまたま北条の矛先がこちらへ向いただけのこと」
「与力として戦うのなら、先の国府台合戦の教訓を生かすのも手ではありますまいか。かつて大殿は、深入りすることなく、戦力を温存して基礎を保ちました。我らにとっての有無の一戦ならいざ知らず、助け戦さに深入りしては大事になりましょう」
 正木信茂は太田資正の与力であるなら、上手に手を抜くことを主張したいのだ。太田康資のように、義弘が資正に利用されては困るという一念の諫言だった。
 その不満を押し留め、里見義弘は正木信茂を伴い、太田資正の陣へと足を運んだ。
 そこは既に酒宴と化していた。
「おお、ようやく参られたか。美濃守殿、左馬頭殿のおでましじゃわ」
 太田康資が大声で叫んだ。
床几に座していた資正は、上目遣いに、ちらと里見義弘をみながら
「迂闊とは思うかな?」
 静かに呟いた。
「げにも」
 義弘は即答した。
「さもありなん」
 その回答に、含み笑いしながら
「まともな将なら、いまを捨て置かぬ。しかし、北条の隠居は頭がよすぎる。何事においても深読みをしたがるのよ。今頃はこの酒宴を、罠と警戒しておろうて」
「にしても、あまりに明け透けにすぎる。これでは士気も軍規もないではないか」
「まあ、そう申しますな。新六郎殿の戦勝祝はこれでも足りぬくらいなのじゃ。それだけではない、正月も惜しんで陣中にある兵たちに、せめて、ふるまいのひとつもしてやりたい。これも立派な将の為されようなり」
 里見義弘は言葉を失った。陣中のありようとしては、これまでの里見の軍規にはない乱れというほかない。一杯だけ頂戴すると、義弘は早々にその場を辞した。
「殿、やはりこの陣は烏合の陣です。とても見倣うつもりにはなれません」
 信茂が呟いた。
「しかしな、平七よ。美濃殿はあれでいて、越後公も一目おく合戦巧者には違いがないのだよ」
「はあ」
「儂は先の国府台で小弓公方が敗れたのは、広く意見を聞かなかったからと大殿に聞いておる。だから今度は、儂は慢心をせぬよう徹しておるのだ。まるで太田の与力と憤る、そなたの気持もわかる。しかし、今回は、どんなことにも耳を傾ける辛抱に徹したい。ただそれだけなのだわ。北条はそのくらい強い相手なのだということよ」
 義弘の言葉に、少々思慮が浅かったと、信茂は詫びた。
 その言葉を受けながら
「諫言してくれる家臣は、いわば家の宝というもの。そなたの父にも儂は鍛えられたものだわ。その心根、有難く思う」
 義弘はそういって笑った。
 しかし、このとき北条の乱波が、国府台に紛れていた。
 北条源六氏照は、滝山城にあって武蔵方面を任される氏康の次男である。兄・氏政の暗愚ぶりと比較すると、実にきめ細かな軍律や統率をする治世者であった。このとき、氏照は秘かに乱波仕事を得手とする家臣をふたり、国府台城に紛れ込ませていた。横江忠兵衛と大橋山城守という。このふたりは先陣の合戦があったとき、太田勢のなかに既に紛れていた。その後の戦勝の宴の様なども、ふたりは夜陰に紛れて北条の陣に戻りすべて氏照に報告した。だから太田資正の予想通りに深読みしていた北条氏康は、真実を知ることができたのである。
 策士策に溺れる。
 このときより、この一戦の趨勢は、ほぼ決したと云ってよい。
 北条綱成は松田左衛門佐と策を練り
「軍勢をふたつに分けて、一隊を国府台の背後に回して挟撃というのは如何かと。今なら敵の監視も緩いことでしょう。一隊を夜のうちに渡河させれば、払暁に挟撃が適うかと」
と氏康に献策した。
 氏康はちらと氏政をみた。顔色が蒼い。
「総大将はそなたじゃ。左衛門大夫の献策をなんといたす」
 氏康なりに、ここは暗愚な印象の濃い嫡男の顔を立てようとしていたのだ。ここで決断するのが氏康か氏政かで、士気は変わってくる。氏政は考え込んだ。考えているふりのようにも映り、重臣たちの目の色が浮ついてきた。
「源六ならなんとする」
 ふと、氏政は傍らの弟・氏照に意見を求めた。
「上策にござれば、時間は惜しゅうござる」
という即答に、氏政も
「合戦巧者な源六を唸らせるとは、さすがは左衛門大夫。この策に従おう」
と同意を示した。
 姑息なふるまいに氏康は溜息を吐いた。このままでは茶番になると、即座に、二隊の振分けを氏康が行った。背後に回るのは北条綱成を総大将とした軍である。これらが夜陰に乗じて国府台城の背後に回り、と同時に氏政自ら率いる本隊が渡河をして払暁を待つという動きとなった。
 こればかりは総大将ゆえ、氏政も動かざるを得ない。
 小雨は視界を著しく曇らせる。北条勢にとっては天佑といってもよい。有視界のなかで里見勢は対岸の監視を続けていた。しかし、小雨に水面が煙り、かすかに篝火がゆらめくのが映るだけである。
 その背後で太田勢の酒宴の声が響くと
「なんだか馬鹿らしくなる」
と、里見の兵たちは口々にぼやいた。
「すまぬな。しかし、ここは戦さ場ぞ。油断は命取りになる」
 里見義弘と正木信茂は、直々に陣所を見回りながら、兵たちに労いの声をかけた。
 その最中、ひとりの兵が
「妙な噂を」
と注進してきた。
「土岐殿のことにて候」
 これは、土岐頼定が北条の間者と通じ、背信を促されていたという噂である。
「これは我が曾祖父であるぞ。我が祖父・万喜少弼(土岐為頼)殿に代わりて兵を率いて参られた御方を疑うなど、思いも寄らぬこと」
 陣中にはあらぬ噂が立つものであると、義弘は笑って受け流した。
 この薄煙に揺らめく遠景では、目を凝らしても人知れず北条勢が渡河することなど視認はできない。このことが、この一戦を大きく左右した。

 寅の刻(午前四時)。
 北条勢は完全に予定の箇所に布陣を整え、挟撃の合図を待つだけとなった。その頃、里見勢は仮眠のなかにあり、太田勢は宴のなかで酔い潰れていた。
 突如、夜陰に法螺貝が鳴り響いた。
 何事かと跳ね起きた里見義弘は、それが敵の攻撃と知り愕然となった。
「いつの間に渡河を許したか」
 物見に訊ねるが、限られた視界でそれを識別することなど不可能に等しい。何よりも緒戦の勝利は、心のどこかで気の弛みを誘っていたのだ。
 これは誰にも云えることである。
「我らは背後からの敵を迎え撃つ。太田勢は正面からの敵を!」
 里見義弘の檄に、太田資正は赤ら顔を隠さず
「承知」
と応えた。
「敵は真間の森から繰り出す模様」
 報される状況に一々頷きながら
「形成は必ず立て直せる。奇襲なんぞ、小手先のことよ」
義弘は叱咤しながら馬上で太刀を奮った。後手になった分、この戦いは里見勢の不利であることが明らかであった。
 北条左衛門大夫綱成は諸将に檄を飛ばしていた。この一戦は遠山・富永勢の弔い合戦なり。これを受けて発憤したのは、緒戦で父を討たれた山角伊予守定次だった。
「聞けば父を討ったのは里見の正木弾正左衛門という。この一戦は弔い合戦なり、恨みは我が手で晴らしてくれん」
 そう豪語し、めざす敵を求めて太刀を奮った。
「この戦い、太田勢はさほどに信用出来ますまい。血路を開いて真間の森から仕掛けてきた敵を突破し、退いて軍勢を立て直しましょう」
 正木大炊介信茂が里見義弘に注進した。
「逃げるとか」
「このままでは犠牲が大きくなります。我らが血路を開きます。殿は逃れませ」
「平七」
「だれか、殿の脇に従え。なんとしてもここを切り抜けるべし」
 国府台城の機能は、この時点で砦ほどの役にも立っていない。この状態で留まることは、確かに自殺行為だった。義弘の脇に従ったのは安西伊予守実元と曾祖父の土岐頼定であった。
「こちらへ」
 土岐頼定が先に進んだ。
「死ぬな、平七!」
 義弘の叫びに、正木信茂は右手を上げた。
 これが義弘の見た、信茂の最期の姿だった。この戦いで、正木大炊介信茂は、壮絶な討死にを遂げる。その叔父である正木弾正左衛門弘季も
「父の仇」
と挑んできた山角定次によって討ち取られた。
 矢が降り注ぎ、義弘の愛馬がそれに倒れた。
 安西実元が駆け寄ったが、土岐頼定はそれを見向きもせず去ってしまった。
「曾祖父殿!」
 土岐頼定は返事もしない。
「背信した噂は、まことであったか!」
 義弘は地団駄踏んで、ここを死地と覚悟を決めた。
「殿は我が馬に。儂が踏み留まりますれば、何卒ここより逃げ仰せてくださりませ」
「伊予守!」
「我は死して主君を生かす、そのことで名を残すのです。さあ、早く」
そう云って、義弘を自分の馬に押し上げると、その尻を強く叩いた。馬はいななき、猛り走りだした。安西実元は、ここで壮絶な討死をした。
 国府台の合戦は里見勢に手痛い打撃を残した。
 結局、太田勢も早々に撤退を開始したことで、里見勢が北条からの追撃を一手に受ける羽目になったのである。
 土岐頼定は里見に背信をしたが、このとき逆に里見側へ附いた北条の士卒もいた。土気城の酒井胤治である。合戦遅参を咎められて北条を見限ったのだが、結果的にこれに助けられる格好で、里見勢は虎口を脱した。
 追撃する北条勢は、なんとしても里見義弘を討取るつもりで深追いしてきた。これは氏政の方針である。
「深追いはやめよ」
 北条氏康が介入した。もしこのとき、背後から上杉勢が襲来したら、房総から逃れる術がなくなる。大将とは、あらゆる対局を摸索し、目の前に惑うことなく思慮深い臆病でなければならない。里見義弘は久留里城まで奔って、この不始末を泣いて父・正五入道に詫びた。
「これほどまでに……」
 里見正五入道は被害状況の大きさに絶句した。
 戦死者五三二〇余(『関八州古戦録』参照)、里見民部少輔広次や正木一族、それに秋元将監・安西実元・勝山豊前守・加藤左馬允・鳥居信濃守・多賀越後守などといった将を失ったことは大きな損失だった。
 この戦いは、先の国府台合戦とは趣を異ならせた。ここで敗れるということは、上総に積み上げた実績の多くを失うことになる。
「太郎よ」
「はい」
「失ったものは仕方がないのだ。しかし、遺族にはそれ相応の恩賞はしてやらなければならぬぞ」
「甥のこと、責めは我が身に」
「民部少輔(広次)だけのことではない。特に、平七のところはな」
「種のことですね」
「我が娘だからいうのではないぞ。平七は正木宗家、里見にとって正木家はかけがえのないものなのだ」
「はい」
「それにしても、話には聞いていたが……万喜の衆も、とんだ食わせものであったな」
「曾祖父殿は最初から北条に気脈を通じておったのでしょう」
「万喜少弼が出陣せぬと聞き、疑いもせなんだはこの父である。若いそなたが看破出来よう筈もない。さりとて、万喜が敵になるということは、よくよく小田喜を慰めねばならぬぞ。平七のことは、それほど大きな損失である」
 確かに、万喜城と小田喜城は目と鼻の先である。最前線といってもよい。正木宗家の存亡は、里見家存亡をも左右することになる。
「太田美濃守の軍略もこんなものだ。今後はつきあい方を考えていくべきかのう。越後公への義理の範囲内ということでな」
 里見正五入道は深く溜息を吐いた。

 上杉輝虎が国府台のことを知ったのは、すべてが決したあとであった。


  よし弘くたのむ弓矢の威は尽て
     からきうき目に太田身の果
                     (関八州古戦録)



国府台合戦供養の報告は、こちらにて。
http://musuitouzan.blog.fc2.com/blog-entry-124.html



さて、里見氏大河ドラマ化実行委員会HPで連載されている書き下ろし小説。
ぜひご感想を、HP宛にお寄せ下さい。
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【里見賢臣列伝】長南水軍

第十四 長南水軍


 興津の長南源兵衛采配の長南水軍は、里見に属して以来、常に神出鬼没を常とし、表舞台に姿をみせることなく隠密な海上任務を請け負ってきた。
 後年、伊達政宗の抜け荷工作を成し遂げ〈裏水軍〉と称された〈したたかな一族〉として、歴史の影にその名を刻む。

 里見氏には、海上戦闘部隊として富津岬を本拠地とした内房の表水軍があり、これが北条に備えていた。長南水軍はこの表部隊の裏働きをしていたのである。海上に長けたこの一族は、里見氏の描いた動きを巧みに成し遂げ、それがゆえに、隠密行動を取ってきたのである。
 里見忠義のとき、安房が徳川幕府に接収されてしまった。この真意は定かでないが、関東最大の外様大名を意識したものと考えられる。つまり、水利生命線ともいえる江戸湾入口に、徳川直轄領を得んがための措置というわけだ。
追い出される側は堪ったものではない。
 後年における里見水軍の実体が明確でない理由のひとつが、この安房没収だ。水軍は転封先である倉吉に随行していない。組織解体を余儀なくされたのである。恐らく徳川の水軍に吸収されたのだろう。
 この接収を、長南水軍はまんまと逃れたのである。興津の隠し湊に舟をおき、裏水軍の存続を図ったのである。

 したたかなる海の一族は血脈を保ち、現在もなお〈全国長南会〉を以て、固く結束している。





 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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【里見賢臣列伝】岩崎与次右衛門

里見家臣団から、独断と偏見で8人をチョイスしました。
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第十三 岩崎与次右衛門


 天正一二年四月、里見義頼は商人・岩崎与次右衛門に館山城下沼之郷へ屋敷を与えた。この商人は里見氏の臣下のように組み込まれ、やがては交易を支える館山城下商人頭取となる。
 この時代、織田信長が本能寺で斃れ、羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手で覇権を巡り激突した頃で、関東は天下の情勢に一歩遅れていた。
 やがて秀吉が天下人へ向けて、大きく一歩を踏み出そうとしたとき、里見氏は、いち早くそれに歩み寄った。
 商人の情報は諜報の基礎である。
 里見氏の耳となったのが、まさに岩崎与次右衛門等商人のネットワークだった。

 里見義頼の死後、新たな当主・義康は、躊躇いもなく、館山城移転を推し進め、城下の街割りや湊の采配に、岩崎与次右衛門の意見を取り入れ実行していった。岩崎与次右衛門にとって、若年なれど侮れぬ主君として、この両名の関係は阿吽のように綿密なものとなった。
 小田原征伐ののち、上総国召上げの混沌期にも、岩崎与次右衛門の内助が里見家の混沌を避けたといっても過言ではない。
 やがて、太閤検地が安房でも行われた。
天正一八年九月一三日昼過ぎ、五奉行の一人として知られる増田長盛の乗る舟が鷹ノ島へ停泊した。里見義康は、主立った家臣を従えて湊に出迎えた。
「安房守殿自ら、恐れ入ります」
 増田長盛率いる検地代官の決定は絶対だ。家臣一同は緊張を隠せない。
「我が手の者ともども、逗留先はどちらになりましょうや?」
 増田長盛の言葉に、里見義康は傍らの岩崎与次右衛門を指し
「この者は商人の束ねを任せている者にて、逗留の間は何なりと」
 岩崎与次右衛門は慇懃に挨拶し、寝食の世話をする旨を申し伝えた。
「いや、家臣の知行割に不服の声が出ては困るため、こうして商人の力に頼った次第です」
 義康の言葉に、増田長盛は感心した。
「それは、なかなか気づかないことです。そうして頂けてると、有難い。何をしても贔屓だ不公平だと恨まれる仕事ゆえ、中立の者の世話になりたかった。さすがは安房守殿です」
 このときの精勤ぶりは、さすが安房商人よと、上方の人間をも感嘆せしめたという。

 秀吉の天下は、束の間の出来事だった。その間に、大陸出兵や伏見築城など、目まぐるしい出来事に、里見氏も翻弄された。
 やがて、秀吉は往生する。

「そうか、太閤殿下はお亡くなりになったか」
 岩崎与次右衛門の報告に、里見義康は静かに呟いた。
 商人の嗅覚は敏感だ。戦さや損得話はちょっとした間者顔負けである。
 慶長五年。
 関ヶ原の陣営に、里見義康は徳川家康を選択した。これが功を奏した。安房一国の里見氏は、飛び地恩賞として鹿島の地を頂いた。

 里見義康が急逝した慶長八年一一月一六日。この年、日本の歴史は、ひとつの大きな転換を迎えた。
 徳川家康の征夷大将軍就任。
 これにより、里見の新当主・忠義は、徳川家のもとで生きていくこととなる。
 翌年一二月一六日、東海南海西海を震源地とした巨大地震が発生した。世にこれを〈慶長の東海・南海地震〉という。
 犬吠崎から九州までの太平洋沿岸に津波が来襲し、八丈島で死者五七名。加えて紀伊西岸広村で七〇〇戸の流失。阿波宍喰で死者一五〇〇名。土佐甲ノ浦で死者三五〇名そして室戸岬付近で四〇〇名以上が死んだと記録される。
 房総半島の被害は、当然のことながら沿岸部を中心に甚大である。
 発生場所は駿河湾から徳島沖、今日でいう〈南海トラフ〉と呼ばれるところで、津波による被害が甚大とされ、陸地の揺れが小さかったと伝えられる。このときの津波は、夕方から夜にかけ、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せたらしい。
 この震源地は、阿波沖および房総沖の二箇所というのが、一般的な観測記録である。
 房総半島東岸および伊豆半島に押し寄せた津波の高さは、ところによって約五間半(一〇m)以上、特に房総沖が震源であるため、発震から間もなく襲来した。しかし、房総半島における地震の記録はあまり残されていないため、この地震の現地仔細は伺い知れない。
 この被災状況、『房総治乱記抄』によると、次のとおりである。
『慶長九年一二月一六日大地震山崩れ海埋て丘となる。この時安房上総下総の海上俄かに汐引きて、三〇余町干潟になること二日一夜、続いて一七日子の刻沖の方大いに鳴動して汐大山の如く巻上り、浪は山の7分に打ちかかる。
早く逃ぐる者は遁れ、遅く逃ぐる者は死たり。この汐災に遭いしは辺原、部居浜、小湊、内浦、名太、江見、和田、御宿、岩和田、岩舟、和泉、東浪見、一宮、一松、牛込、反金不動堂など四五ヵ所なり。』
 この震災復興にあたり、岩崎与次右衛門は寝食を忘れて励んだ。館山城下の復興なくして里見の屋台骨は立て直すことができない。この努力に、忠義も感謝を繰り返した。
 こうして里見との二人三脚で励んだ岩崎与次右衛門であったが、その運命が大きく変わる出来事が起きた。
 里見氏転封。
 減封であり、家臣のすべての扶持もままならない。この騒動の結果、転封先も変わり、最終的に因州倉吉と決した。
多くの家臣が口減らしのため、浪人の道を選んだ。岩崎与次右衛門の道もひとつしかなかった。
当主不在の安房を抑えるのは、大家老の堀江頼忠である。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと、暇乞いを申告してきた。そうはいうものの、口減らしの覚悟は重々誰にも伝わっている。新しい領主は徳川の臣下だろう。きっと、虐げられるに相違ない。
去るも地獄、残るも地獄、彼らの覚悟は並々ならぬものだった。
 安房の商人衆は、大半が残留する道を選択した。口減らしは多く、そして早い方がいい。商人を代表して、岩崎与次右衛門が館山城を訪れた。
「余所では商いの旨味がございませぬ。里見との御縁も、ここまでということで」
応じる堀江能登守頼忠は、その憎まれ口の心底を悟り、黙ってこれに応じた。引き留められることを嫌い、殊更嫌味を口にする与次右衛門である。里見家と寄り添い発展してきた彼は、どんなに辛い立場だったろうか。
 同じように、海将の多くが禄を捨て、浪人の道を選んだ。倉吉では水軍も役には立たぬ。どこかに仕官を探すしかない。移転を嫌い、このまま土着帰農する道を選ぶ者もいた。
 次々と、人が去っていった。
 名のない兵卒の大半は農民や漁民である。里見家では兵農分離の余力がなく、従って彼らは新生活を望んではいない。現実は、実に厳しい。その程度では、口減らしにもならないのだ。困窮することは、必至である。

 その後、安房は徳川の代官が治世を行った。
 岩崎与次右衛門は前歴を評価され、名主として、城下の商人や浜の漁師たちの取締を行い、生涯を終えた。




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【里見賢臣列伝】印東房一

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第十二 印東房一


 どの家中でも、滅亡に際し、佞臣に仕立てられる者は少なくない。里見家にも、その不幸な人物がいた。
 印東采女佐房一。
 里見家を崩壊に導いたという、在られもない罪を張られた彼の真実は、その悪評とは真逆の忠臣であった。

 印東房一は里見忠義が幼少の頃から仕えていた。忠義は秀吉の存命中は伏見、死後は江戸に留め置かれ、安房へ入ったのは父・義康急逝による家督相続よりのことだった。
「案ずるに及ばず。殿のことを誰もがお支え申すことでしょう」
側近のひとりとして、印東房一は忠義の不安を払拭するよう腐心した。当主の世代交代には、少なからず家臣の処遇が左右される。古い側近に変わり新しい側近が台頭するためだ。義康時代に表へ出る機会の少なかった印東房一は、その例に洩れることなく、里見の内政の重きを担うのである。
 幼少の当主が据えられた際、得てして家臣が重きを負い、ときとして主義主張が割れて派閥を構成し対立することもある。里見家はまさにその状況となっていた。
 印東房一は保守派として、正木時茂に与していた。しかし、大きく国内を改革し、世代交代とともに時代に合わせた政策を一新する必要があった。この改革派の筆頭が、堀江頼忠等である。
「このままでいい筈もなし」
と、堀江頼忠は派閥を越えて訴え続けた。これに印東房一は応えた。結果的に、印東房一は保守派から、裏切り者と罵られる恰好となった。
 保守派の里見揚安斎は房一にとっては、妻の兄にあたる。里見揚安斎は妹に詰め寄り、強引に房一と離縁させ岡本四郎兵衛頼重に再婚させた。これでは哀れであると、堀江頼忠は妹を印東房一に嫁がせた。
この家中が割れた状態が、里見家にとって、よい影響を及ぼす筈がない。内政の滞りは様々な形で領内を不安定にする。
 この当時、里見忠義は徳川幕府における大久保派という派閥に属す。派閥争いは徳川家でも行われており、その厄介なしがらみに多くの者が難儀していた。里見忠義の妻は、その派閥の中心である大久保忠隣の孫である。
この派閥の均衡が動けば、里見家は充分に巻き込まれることとなる。そのきっかけが、大久保長安事件と呼ばれるものだった。大久保派はこれにより、失脚への道を歩むのである。里見家は、内輪で揉めている場合ではなかった。
慶長一九年(一六一四) 九月六日の昼、忠義は幕府の御召しで江戸に赴いた。大久保仙丸(忠職)の屋敷にて待機するよう忠義は幕府の沙汰を得た。
 忠義は疑いもなく屋敷に入り、明日の沙汰を待った。しかし、二日経っても音信のないことに不審を覚えた忠義は
「済まぬが、将軍に伺いを賜れぬものか」
 大久保家の家臣にそう打診した。結局、何の音沙汰もなく、九日を迎えた。この日になって、ようやく訪れた幕府の使者が延べた言葉に、里見忠義は耳を疑った。
「上意により安房国を召し上げ、常陸鹿島領三万石へ減封にて候」
 里見忠義はどう考えていいものか、混乱する脳裏のなかで、これが大久保長安事件の余波であることを、次第に理解していった。
 安房一二万石から鹿島三万石、これは過酷な処分といってよい。あたら家臣を手放さなければ、領内を立て直すことも適わない。
 安房召上げおよび鹿島減封の沙汰は、館山城へも速やかに伝わった。留守を任されている堀江能登守頼忠は、大家老としてこの青天の霹靂を現実として享受し、領内に具体的な指示を行う大任を負ったことになる。
「納得できぬ」
 強行派は大騒ぎした。
 もともと武断派として、山本清七や里見揚安斎を中心につくられた派閥が、真っ先に声を挙げ、せめて一戦に及ぶべしと息巻いた。
 しかし、結果として、主君を江戸の人質とされている以上、里見家臣団は恭順せざるを得なかった。
「いまは大家老の采配に、皆々従うしかなかろうて。神妙に承るべし」
 混乱する城内に向けて、印東采女佐房一が檄を飛ばした。大家老の山本清七と堀江能登守頼忠の言葉に、一同は耳を傾け凝視した。
 里見家は大久保派ゆえ、必然のなかで被った本多派からの報復というよりない。
「上州板鼻の讃岐守殿の改易は去年のことである。これも報復の声が高い。我らは取り潰されることなく減封である。まだ、ましと忍従することこそ肝要なり」
 印東房一の言葉はもっともだ。さりとて、人はそれほど物分かりのよい生き物に非ず。ましてや印東房一は家中で人気のある者ではない。よき言葉さえも素直に響かぬところがある。
「采女佐殿が御館の采配を誤らせたのではないか?」
 譜代と異なり、印東房一は忠義幼少からの付人上がりである。一門衆は彼を疎んでいた。
「采女佐殿の申し分におかしなところはない。また、采配を曲げた根拠もない。いまは私的な物云いを控えられたし」
 堀江能登守頼忠が割って入った。
 それでも不服そうな武断派は、堀江頼忠にさえ噛みついた。
「斯くなる上は、城を枕に幕府へ抵抗すべし」
 里見揚安斎が呻いた。
「それこそ幕府の思うところなり」
 堀江能登守頼忠が反論した。
「減封は手心である。これに応じなければ、里見家改易は必定!」
 改易という言葉の重みは大きい。
 里見揚安斎が堀江頼忠へ悪意を向けるのは、私的なことだ。かつて妹婿だった印東房一が堀江頼忠の妹も妻としたことで、揚安斎は両名と険悪になったのである。房一から妹を離縁させ、岡本四郎兵衛頼重に再嫁させたことで、里見家中を二分する元凶としたのは、紛れもなく揚安斎だ。
私怨は、仕方ない。しかし、この場では、大義を語る堀江頼忠の云い分が正しい。
「我らが心得ることはただひとつ。御館の御身こそ、第一義なり。たとえ墳墓の地を失おうとも、里見の家は断じて残す。これが、我ら家臣の忠節なり」
 一二万石から三万石。各々の俸禄を七割召し上げ、なおかつ、浪人も出さねばならない。苦衷の決断だ。
さりとて、他に道はない。
「江戸に御館の身柄がある以上、滅多なことをしてはならぬ」
 武断派を代表して、山本清七も、血を吐く想いで、強く叫んだ。こうなると、もはや里見揚安斎とて私怨を胸中に押し留め、為すべきことを最優先に考えざるを得ない。
 城内のいたるところで、啜り泣く声が満ち溢れた。
「無念」
 ただただ、その言葉以外に例えるものはない。
 こうして、家臣団は黙々と、各自荷造りするため屋敷へと去っていった。
 館山城に幕府からの追加伝令が駆けつけたのは、翌日のことである。
城受取りの及び破却の使者として、内藤政長・本多忠朝が軍勢を率いて来るとの報せに、城内はざわめいた。
内藤政長・本多忠朝の出立は、九月一三日のことである。
 血気に逸り武力を用いぬよう、堀江頼忠は領内に檄を発した。蛮勇は一時のこと、それで全てを損なうことに繋がる。恭順の徹底を、頼忠は繰り返し叫んだ。
 すべては忠義のためである。
 一二万石から三万石へ減封されることは、深刻な問題だった。
 すべての家臣を賄える禄高ではない。浪人を出さねば立ちゆかず、しかも、留まりし誰もが、いまの扶持の七割を返上しても苦しい台所となる。
 里見氏が安房入りする以前からの在地豪族は、新しい土地に馴染めぬからと、暇乞いを申告してきた。そうはいうものの、口減らしの覚悟は重々誰にも伝わっている。新しい領主は徳川の臣下だろう。きっと、虐げられるに相違ない。
去るも地獄、残るも地獄、彼らの覚悟は並々ならぬものだった。重臣たちは白装束で、内藤政長・本多忠朝の両名を迎え入れた。
「安房より鹿島への減封を謹んでお受け申し上げます。何卒、江戸に留め置かれる御館の御身をお返しあれ」
 重臣を代表して、堀江能登守頼忠が口上した。
「上意である」
 本多忠朝は懐より書状を掲げ、ゆっくりと広げていった。
「館山城を没収し、破却すべし。破却は徳川の手で行い、里見の臣下は鹿島領行方郡への転居を急ぐべし」
 悔しさは拭えないが、誰にも異存はなかった。
「謹んでお受けします」
 堀江頼忠の震える声が、重臣一同の一致した無念を表していた。
 九月二〇日。里見重臣を代表して、堀江能登守頼忠・山本清七・板倉牛洗斎が陣所に呼ばれた。三人は内藤政長の言葉に、言葉を失った。
「鹿島転封を改め替地を沙汰する」
 その替地は、無縁の遠国だ。
「倉吉ですと?」
 穏和な表情を失った堀江頼忠が、噛みつくように理由を質した。内藤政長もつらいのだ。接収の最中に、江戸から追って報せが届いたばかりなのである。。
 この国替にあたり、印東房一は安房に留まる道を選んだ。
「口減らしは、早い方がよろしゅうございます」
 里見家の禄を離れた印東房一の、その後の足跡は定かでない。




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【里見賢臣列伝】ふたりの兵法指南

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第十一 ふたりの兵法指南


 どの戦国武将も、兵法指南役を用いるものである。これは当主自らの鍛錬のためでもあり、あるときは組織の調練のためでもある。
 兵法者は仕官の先を求めて諸国を放浪する。放浪しながら己の武芸を磨き、それを用いてくれる主君を探す。御家付となっても、新たな兵法者に取って代わられることも少なくない。
 戦国時代の関東は、塚原卜伝や上泉秀綱等、優れた兵法者の坩堝であった。
 里見家もまた、兵法者を召し抱えていたことが、記録から伺い知ることが適う。

 里見義頼の頃、里見家兵法役に任じられていたのは、木曾庄九郎という人物だ。
念流の使い手である。
 念流は、応仁の頃、もと臨済宗の 僧上坂半左衛門安久が太刀先に一念をこめる極意に達して創始したとも、また僧・慈恩(俗名相馬四郎義元)が京都鞍馬山で剣術を学び創始したともいわれる。念流・神道流・陰流といった剣術流儀を指し、〈兵法三大源流〉ともいわれる。
 木曾庄九郎はその使い手だ。
 彼のことは表の歴史であまり知るところではない。講談本で登場することもある。里見義弘家臣・木曾庄左衛門の子で、岡本に道場を設けていたとあります。が、講談は娯楽の虚構も多く、このあたりは信憑性を問うところではない。彼は、義頼の時代から改易されるまで、里見家の兵法指南を務めた。里見から去ってのちに、新しい流派創設に苦心し、〈源流〉の創始者となる。

 里見義康の頃に鹿島三万石が加増となり、兵法者をそこから求めた。このとき木曾庄九郎はそのまま留めたため、記録では、里見家はふたりの兵法指南を置いたことが理解できる。

 鹿島より迎えたのは、塚原五左衛門。
 新当流の使い手である。『鹿嶋志』によると、新當流(新当流)の元になったのは、鹿島の太刀という名の上古の時代から伝わる兵法だ。塚原卜伝によって新当流の名は勇名を馳せた。
塚原五左衛門はその名の示すとおり、恐らくは卜伝の係累だろう。
 この塚原五左衛門を兵法役に据えた際、義康は試合を以て人材を発掘したと考えてよい。加増の新領地から人材を引き上げることで心服させる。里見義康は人心掌握術に長けた人物だった。
 このときの試合は、きっと家中を賑やかとしたイベントだったに相違ない。

「武芸盛んな土地である。兵法指南を志すなら家柄に関わらず、申し出させよ」
 義康の言葉をそのまま伝えると、応募者が殺到した。この報せににやりとした義康は、木曾庄九郎を差し向けて、人材発掘をさせた。
 木曾庄九郎は面倒を省くため、自らが木剣を持って吟味し、選抜した者等に試合をさせることとした。
 鹿島の腕自慢は、こうして館山にやってきたのである。
 木曾庄九郎からの報せでこのことを知った義康は、館山城内に試合場を設けさせ、陣幕で囲んだ。こういうことは万人受けすることではないので、人の目から遮断するつもりだった。ところが、里見家臣団のなかでも観戦の要望が存外高いことが判明した。
 会場は急遽、北条の浜に移された。ただし、陣幕を張るのは海風を避ける為である。
 初夏の北条の浜は、異様な熱気に包まれていた。茶屋や餅屋が俄に店を構えるなど、まさしく祭の様だった。
「なんだ、家臣領民こぞって武芸好きだったなどと、今まで知らなかったぞ。先代も年寄りも教えてくれなんだ」
 そういって、義康は笑いながら床几に腰を下ろした。
 その両脇には甲冑武者、槍武者、鉄砲武者が控えている。この用心は、仕方のないことだった。
「鹿島の武勇、しかと見届けたい」
 義康は言葉少なく、木曾庄九郎の選抜した面子を見渡した。
「御館、暫く!」
 正木弥九郎時茂が進み出、今度のことは神事の如し、鹿島大宮司家に家臣・緒形加賀を使者に立てたと報告した。これが遺恨の場であってはならぬとも告げた。
「是非もない」
 義康は笑った。
 かくして、武芸者たちの試合が始まった。木剣とはいえ、死者が出ることもある。そのため勝負が見えた時点で、木曾庄九郎が割って入れるよう支度していた。
「はじめ!」
 木曾庄九郎の掛け声で、武芸者たちは気合いを発した。総当たりの筈だが、負傷につながれは、落伍と見なす。
 順当に勝ち残った人物は、風体は冴えないが、気負いもなくどんな剣気も受け流す不思議な存在だった。
「あれは何者か」
 義康は傍らの者に訊ねた。塚原五左衛門だと、やがて答えがあった。皆々歩幅を広くとり、肘を前方に出す姿勢を取る。これが鹿島新当流の構えなのだろう。そのなかで、塚原五左衛門の動きには素人目にも淀みがなく映った。気がつけば、塚原五左衛門の一人勝ちだった。
「天晴れなり。塚原五左衛門を里見家兵法師へ新たに加える。なお、鹿島衆は新参なれど下に置くものではないと心得よ。まずは鈴木対馬入道を安房に引き上げ、調整役となす」
 義康の沙汰に、誰も文句はなかった。
 試合に勝った塚原五左衛門は、その日、さっそく館山城に招かれ義康直々に杯を賜った。
「今後ともよろしく頼む」
 義康はそういって微笑んだ。
 塚原五左衛門は不思議そうな表情をした。
「安房守様は、見栄とは無縁なのでござりますか?」
「見栄?そんなもので家臣が潤うなら、いくらでも見栄を張りたいものだ」
 そう云って、笑った。
 この笑みに、人は惹かれる。塚原五左衛門もこのとき以来、義康に惹かれた。
「塚原とは、あの卜伝の流れか?」
「姓は同じですが、足下にも及びません。未熟者です」
 塚原五左衛門は謙虚な物云いだ。義康はそれが気に入った。
 この日以来、里見の兵法役は、新当流の塚原五左衛門、念流の木曾庄九郎の二名となった。

 こうしてふたりの兵法指南が里見家に誕生した。それよりおよそ一〇年ものちに、里見家は安房を没収された。倉吉へ赴く家臣団のなかに、ふたりの名はない。



 資料に乏しい中での小説です。
 史実に脚色もござれば、寛容にお楽しみください。


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熱くなってきたよ、里見氏。ねっ

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上記「里見氏大河ドラマ化実行委員会HP」において、2014年4月3日から、夢酔の小説が連載開始!毎週木曜日に更新されます。どうぞ末永く御愛顧賜りますようヨロシクお願いします。里見氏を皆さんに知って貰いたい一心での、試みです。このblog同様、御愛顧賜りますようお願い申し上げます。

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戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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  1. 2014/04/12(土) 15:29:11|
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