散文小径

小説家です。時代小説を執筆しています。皆さまのご声援に支えられて描いております。よろしくお願いします。

シリーズ・関ヶ原と里見家 4

 天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
 日本中の大名が二派へと別れて、激突した。
 総じて、これを〈関ヶ原合戦〉と、後世語られております。


 宇都宮城を本陣とした対上杉戦。
 このことは、あまり小説でも取り上げない部分ではないでしょうか。何といっても、関ヶ原盆地での激突のように群雄割拠感もないですし、第二次上田合戦のような奇想天外感もない。隆慶一郎氏の小説「一夢庵風流記」以来すっかり有名になった前田慶次郎でおなじみ長谷堂合戦のような臨場感もない。
 宇都宮のこと、確かに小説向けではございません。
 でも、夢酔は取り上げざるを得ませんでした。だって、里見家はここに留まって結城秀康を支えてしまったのです。目を皿のようにして、ドラマ性のある資料や記録や伝承を探しました。
 これは、しんどかった。

 関ヶ原合戦の総じた論功行賞って、誰がトップか知ってますか?実は、結城秀康なんです。宇都宮城にいて、じっと上杉の南下に備えて睨んでいただけなのに……なぜ?そう思いますよね。だから、きっと記録から洩れたり、敢えて消されたこととか、あるんじゃないではと考えていました。
 こういうとき、小説書きは便利です。辻褄さえ合えば、露骨でない範囲の憶測で筋道を作れるのです。学者の先生は滅多なことを口に出せませんから、気が楽です。

 この宇都宮布陣は、対上杉という公言された部分と、対佐竹という側面もあったのでは、夢酔は考えています。佐竹問題と仮に呼びましょうか。このことには家康自身の面目も絡んでおり、関ヶ原以後の沙汰も難航したと洞察しております。
 当時の佐竹家は、当主として佐竹義宣がおり、隠居として佐竹義重がおります。北条氏や伊達氏に対し常陸の名門として、佐竹義重は武勇でその名を轟かせ恐れられました。坂東太郎、鬼佐竹、そういう称号は、明らかに敵から畏怖され味方から頼りにされた証です。北条氏に代わり関東の覇者となった徳川家康は、最大の外様として佐竹義重を警戒しました。そして、御しやすいと考えたその子・義宣への代替わりを迫り、義重を隠居させた過去があるのです。
 しかし佐竹義宣は、石田三成と密接な信頼関係を結んでいたのです。
 この上杉討伐からの一連の流れの中、佐竹義宣は徳川の要請に応じませんでした。それどころか、秘かに上杉と連携をする噂もあったり、明らかに三成寄りの態度を示したのです。隠居させられた義重の方が、必死になって家康に取りなしてくる等、このことは家康の人物鑑定が曇っている証となってしまったのです。
 もし、義重に隠居を迫らなかったら、佐竹氏は一糸乱れずに徳川に附いたことでしょう。
 結城秀康はこのことに対処させられたのではないでしょうか。
 勿論、勝機があれば上杉勢も南下する危険が伴います。こういうギリギリの場の駆引きの代償が、論功行賞第一位なのかも知れません。
 
 さて、上杉討伐のなかで最前線となったのは、宇都宮城の北方に位置する大田原城・黒羽城です。これが記録上の最前線ですが、もうひとつ、喜連川の存在が気になるところです。御存知のとおり、里見家の庇護下にあった関東足利家が独立して出来た新興藩です。宇都宮陣中、喜連川頼氏から幾度となく里見義康へ書状が発せられています。際立つ軍事力を持たない喜連川氏は、在地斥候としての役割を果たしていたのではないでしょうか。そして、そのパイプとなったのが、旧知の里見義康と考えてもおかしくないと思います。
 そして、結城秀康自身は宇都宮から動いていませんが、佐竹を牽制する軍事行動を起こしていることも記録から読み取ることが出来ます。上杉に対しては直接兵を送り込んでいませんが、佐竹に向けては包囲するように軍勢を展開しています。そのなかに里見義康もいます。義康は佐竹領南部の江戸崎方面に布陣しています。その先にあるのは、行方です。里見家の係累が居住する行方郡への進軍は、佐竹を説得するよう声を挙げているようにも受け取れます。

 地味そうに映える宇都宮布陣。
 駆引きに満ち溢れていた最前線だったのかも知れませんよ。



                  ◆    ◆    ◆



 お知らせです。


 倉吉せきがね里見まつり

 里見忠義終焉の地・鳥取県倉吉市。
 毎年9月第一日曜日に開催されます。東国の方は、その遠さを噛み締めることで、この地に流された里見家最後の当主の心中を実感できるのではないでしょうか?



 
開催日  平成24年9月2日(日)
 開催場所 倉吉市関金町 山守小学校周辺
 お問い合せ
      「倉吉せきがね里見まつり」
 倉吉せきがね里見まつり実施委員会(倉吉市市民参画課内)
 TEL:0858-22-8159
 「里見時代行列」
 倉吉里見手作り甲冑愛好会(NPO法人養生の郷内 )
 TEL:0858-45-3988



                  ◆    ◆    ◆



戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
 皆さまの温かいご声援をお願いします。

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 署名用紙はこちらに収納しております。
 活動の趣旨に御賛同いただけましたら、是非、こちらの署名用紙をプリントアウトのうえ、支援の程よろしくお願いします!
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  1. 2012/06/30(土) 05:48:53|
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シリーズ・関ヶ原と里見家 3

  天下分け目の関ヶ原。
 通説では徳川家康の天下取りとされますが、冷静に俯瞰してみると、これは豊臣政権下での家臣同士の諍い。諸説云々ございますが、この天下の一戦で豊臣家が弱体したことも事実。
 日本中の大名が二派へと別れて、激突した。
 総じて、これを〈関ヶ原合戦〉と、後世語られております。


 関ヶ原合戦への前哨戦となる上杉景勝追討。
 里見義康が小山着陣した前後、有名な〈小山評定〉がありました。
 慶長5年(1600)7月24日、徳川家康は下野国小山に到着し、翌7月25日、小山陣所に諸将を招集します。家康は、大坂の状況を説明した上で、諸将に去就を問います。
このとき畿内に於いて、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行名で〈内府ちかいの条々〉と呼ばれる檄文が発せられました。そのうえで
「秀頼様に馳走あるべき」
という西軍に与同を求める文書が、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老の名で発せられました。加えて、大坂に留め置かれていた諸大名の妻子を拘束すると同時に、同7月19日、鳥居元忠が守備する伏見城を攻めたのです。この報せを家康にもたらしたのが、張本人である増田長盛。この二枚舌によって、家康は畿内の動向を知るのです。と同時に、大谷吉継の名で西軍に附くよう書状が発せられました。真田昌幸父子が敵味方に割れたのも、そういう事情があったためです。
 家康から去就を問われた諸大名の反応はシンプルでした。
 福島正則が大坂に残してきた妻子を犠牲にしてでも家康に従い、憎き三成を討つことを宣言すると、続いて黒田長政も同調し、山内一豊に至っては
「居城の掛川城を家康に開放する」
とまで云い出したのです。こうなると、人間の心理は複雑なもので、心ならずとも大勢が決することになります。
 このことは家康の腹芸で、宣言役を予め手懐けていた。そういう雰囲気が資料から漂っています。福島正則の言葉の前提は、打倒三成というもので、個人的な感情を家康が誘導したことが察せられます。
 7月26日、諸将は次々に西上を開始します。家康をはじめ徳川の大半は小山に踏み留まり、これを見送っています。諸将は上杉の追撃を自ら殿(しんがり)となって立ちはだかるつもりの家康を、心から頼もしく思ったことでしょう。家康には家康なりの考えがあってのことですが、人とは、自分勝手な解釈をしてくれるものなのです。
 家康は宇都宮城を拠点と定めて、ここに結城秀康と徳川秀忠を留めます。上杉に備えるためですが、もうひとつ、動きが定かでない佐竹に対する備えも念頭に置いたのです。時期を定めて西上するまで、秀忠に徳川本隊を預け大久保忠隣・本多正信といった補佐を置いたのです。そして家康自らは、同8月4日、江戸城に戻ります。江戸に戻ったのち、家康は全国の諸将宛に膨大な量の書状を発しました。〈内府ちかいの条々〉が横行している畿内へ向けて、無作為に進むことがどんなに危険か、家康は認識していたのです。
 西上している福島正則にとっては、個人的に石田三成憎しの感情だけで動いています。この三成というキーポイントが前面から欠けたら、今度は彼らが〈内府ちかいの条々〉に同調しかねない不安定な状況です。そのために民意を掌握する手紙攻勢が必要だったのです。

 里見義康はこのとき関東勢のひとりとして、宇都宮城に留まりました。
 資料が希薄なので、結城秀康付となるのか徳川秀忠付となるのか、このとき決していたか不明です。秀忠は懇意の深い里見義康を手元に欲していたことでしょう。
 しかし、結果的に、里見義康は結城秀康付となったのです。
 8月24日、徳川秀忠は徳川本軍を率いて、東山道経由で西上を開始したのです。秀忠はこの行軍で煮え湯を飲まされることになるのですが、里見義康のもとへ書状を発する等、気配りを示しました。


此表仕置申付候処、大柿之城ニ、石田治部少輔・
備前中納言・島津・小西已下、楯籠候処、
先手之衆取巻候間、早速可罷上由、
自内府被申越ニ付而、急令上洛候、
将又、其表長々御在陣、御苦労忝存知候、
猶彼地
  1. 2012/06/23(土) 22:05:11|
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